2017年03月14日

絶望の愛(三話)


三 話


 防御姿勢をとる前に踏み込まれてしまった。
 確かに艶子の夫はこの家の長男であり、相続放棄などという身内の些末を知らない者たちにすれば家を継いであたりまえ。頼みの次男が倒れたいま、それを訴えたところで法的にどうなのかは弓枝のうかがい知れないことだった。

 今夜から同居する。寝耳に水。長男の嫁をふりかざされては次男の嫁はどうしていいかもわからない。追い返してしまえばいい。けれどそれで恨まれないか。あべこべに訴えられることになりはしないか。考えてみれば結婚して夫の実家に住んだというだけで家の内情まではよく知らない。
 それよりいまは悲劇に見舞われた夫と老いた父だけは何としても守らなければならない。弓枝の中にとっさに浮かんだのはそれしかなかった。

 急なことで支度はできていなかったが、とりあえず一階に四部屋あるうちの、正太郎の居場所とは真逆の隅の部屋へと通す。そこは客間で、床の間を別に十畳あって普段は使われていないひっそりとした広間。
 艶子は、まさに手下のような留美に言いつけて荷物を運ばせ、弓枝の後について部屋へと向かった。荷物はもちろん艶子のクルマ。今日のところは赤い大きなスポーツバッグがひとつらしく、荷物を取りに出た留美はすぐに追いすがって後につく。
「今夜のところはここを使ってください。それからのことは考えますから」
 弓枝は震える思いをひた隠しに平常を装った。二階にある三部屋のうちの二間は弓枝と夫の部屋。もうひとつ四畳半があったのだが、そこは衣装部屋のようにされて夫婦の物置きとして使っている。

 十畳の客間は和室で床の間があり、桜花の掛け軸が飾られて西条家の威厳をあらわすような造作。和室にはミスマッチの赤い大きなスポーツバッグを持ち込んだ留美が先に部屋へと入り、荷物を置く。間に弓枝、最後に艶子が敷居をまたいだ。
 やおら艶子が言った。
「疑うのは勝手よ。だけどそれにしたって長男の嫁に対して失礼なんじゃないかしら。主人にしたって心配だからあたしたちをよこしたの。こんなことになってあなた独りでどうするつもり? 義父さんはあんなだし、これで啓史さんにもしものことがあれば、この家そっくり丸取りよね?」
 静かな声だったが厳しい眼差しをぶつけながら艶子は弓枝に迫り寄る。
 言葉も返せないまま一歩二歩と後ずさると、いきなり後ろから留美の両手が脇の下をくぐり、羽交い締めにするにして、弓枝の二つの乳房をシャツの上からわしづかみにした。

「な、何をするんですか!」
 顔色が青くなる。身をよじって逃げようとするより先に、艶子の強い声が飛んだ。
「弓枝! これは愛なの! こうするしかないのよ!」
 弓枝は呆然とするだけで意味が解せない。
 このとき弓枝は、二人の突然の来訪に着替える間もなく、普段着のジーンズミニに白いTシャツを着ていた。後ろから組み付かれて乳房をわしづかまれ、声を上げようとする前に、艶子の手がスカートの前をたくし上げて腿の間へ差し入れられる。
 パンティ越しにデルタと性器をつかむように迫られて、あまりの急変に弓枝は声も出せなくなった。全身に悪寒がはしる。
 腿根を閉ざして腰をよじり、指から逃げようとしたのだったが、艶子の二つの眸が眼前に迫っていた。

「おとなしくしないと承知しないわよ! 取り残されたあなたへの愛。裏切りは許さないから!」

 声高に言われ、それでいて涼しく美しい瞳だけに、弓枝は魅入られて身震いした。
 後ろからまつわりつく留美にTシャツをまくられて普段着のベージュのブラが跳ね上げられ、Cサイズの若い乳房がこぼれ落ち、留美はその白い柔肉を揉みしだきながら、両方の乳首に爪を立ててツネリ上げる。

「ひぃぃーっ!」

 激痛。そして直後に、前からパンティをくぐった艶子の手がデルタの毛むらを撫で上げて、カギ状に曲げた指の強張りが渇いた淫裂へと侵入する。
 弓枝は血の気が失せて顔が白い。鼻の頭の触れ合う距離で艶子は弓枝の眸を覗きながらにやりと笑った。
「ほうら熱い・・こうされて震えちゃうでしょ・・ふふふ」
 恐怖で声が出ない。逆らったら何をされるかわからない。「耐えろ」と言った義父の言葉が思い出された。
 息をするのも苦しい。虫の息。弓枝はただ呆然として、見据える艶子の瞳に見入っていた。
 閉じたラビアをほぐすように指がまさぐり、クリトリスが弾かれる。逃げようとしてちょっとでも尻を振ると、密着する留美が尻の強張りを感じ取って即座に乳首をツネリ上げる。
 力が抜けた。絶望の震えが全身にひろがった。

 と、そこで一度、艶子は股間から手を抜いて、浅黄色のショルダーバッグに忍ばせた白く小さなチューブを取り出した。淡いピンクのゼリーのようなものを、ほんの少し人差し指にすくうと今度こそ残忍に微笑んで、ふたたびパンティの奥底へと差し込んだ。

 クリトリス・・ラビア・・膣口と指をまわして塗り込めていく。

「強烈な媚薬よ、欲しくて欲しくてたまらなくなりますからね」
「・・嫌です、ねえ嫌ぁ、嫌よぉ」
「ふんっ。じゃあこれは何かしら。アソコがじっとりしてきたわ。嫌なのにどうして濡らすの。おとなしくなさい。これは愛なの。いいこと、これは愛なのよ、いまにわかる」
 後ろから乳房を手荒く揉まれ、乳首をコネられ、前から性器を嬲られる。
 白かった弓枝の頬が性的な熱を持って紅潮しだし、息が熱く乱れ、腿が少しずつだが開いていく。
「そうそう、いい子よ・・ほうら濡れる・・ほうら気持ちいい・・ンふふ」
「はぁぁ・・あン・・んっんっ・・」
 心を串刺すように見つめる艶子の眸から視線が外せず、まるで催眠術に堕ちていくように意識が崩れ、肉体だけが反応しだす。
「もうクチュクチュじゃない。ほうら濡れる、もっと濡れちゃう。オツユがあふれてきたじゃない。よく感じるアソコだわ。ほうらいい・・気持ちいいわね・・」

 間断なく喘ぎが漏れた。目眩のような性感に良妻の輪郭を崩されて、弓枝の本性が剥き出しにされていく。
 声を噛む。義父に聞かれる。それだけはダメだと弓枝は思った。
 どうしたことか腰が動く。濡れる性器を艶子の指にこすりつけるようにクイクイ腰が入って喘ぎが漏れる。
 媚薬が性器で暴れていた。これほどの快楽を弓枝は知らない。花園すべてが熱源となり、愛液をとめどなくあふれさせ、総身フルフルと微動する。

 艶子の目配せで後ろからTシャツを抜き取られ、ブラが捨てられ、ミニスカートとパンティが事もなげに下げられて足先から抜かれていく。弓枝は抗う気力も失せていた。狂った性感に紅潮する若妻の全裸。
「ふーん・・思ったよりもいいカラダね。これでもう悩むことはなくなった。女は愛を受け取って生きるもの。それがどんな愛だろうと、私ならそうするわ」
 反撃できないままに裸にされた。その両手を留美に後ろへ取られ、冷たい金属の手錠。気づいたときには腿はがに股に開かれていて、縮れ毛の濃いデルタをまくり上げるようにして、突き刺す艶子の指を求めた。

 しかし艶子は指を抜き、ヌラヌラの指先を弓枝に突きつけると、穏やかに微笑んで、そっと二つの乳首に手をのばす。留美がしたように最初はコネて、いきなり強くツネリ上げる。乳房が乳首で吊られて円錐状に上を向く。
「ぅぃぃーっ、痛いぃーっ!」
「可哀想ね、痛い痛い・・もっといい思いをさせてあげるね。さあ留美、穿かせておしまい!」
「はい女王様。ふふふ、可哀想なことになる・・」
 女王様・・そんな言葉に弓枝はあやうく意識を飛ばしてしまいそう。恐怖の意味が性的な責めへと決定的に変化した。

 背後でしゃがむ留美。弓枝の足先に下着を穿かせるような感触が伝わった。
 足先からふくらはぎ・・太腿を滑った冷えた感触が尻のふくらみへ近づいて、留美は尻肉を開くようにして後ろから性器を覗き込み、冷たくソフトなその先端がラビアに触れたと思ったとたん・・。
「あぅ! あぁーっ!」
 それは太いペニスとなって無造作に膣口へ突き立った。ヌムヌムと奥底までめり込んで、その後を追うように革の感触が尻へと引き上げてられて、すぼまったウエストでバックルで固定され、小さな南京錠がかけられる。
 乳首に激痛。弓枝は抗うことができなかった。

「さあいいわよ、いまはまだそれほどでもないでしょうけど、向こうへ行けば狂うから」
 艶子は留美に目配せすると、留美だけを家に残し、全裸にTスタイルの黒い革のパンティを穿かされただけの弓枝を外へと連れ出した。東京の街中にあって里山のような林に周囲を閉ざされ、家はさながら森の中の別荘のよう。
 艶子のクルマは国産の大きなセダン。そのトランクを開けられて、素っ裸の弓枝は尻をパンと叩かれて放り込まれる。
「やさしくされたいなら暴れないことよ。さもないと拷問ですからね。向こうへ行けば歓びが待っている・・あははは!」
 これは何かの間違いだ・・悪い夢だ・・弓枝は凍り付いていた。

 走っては停まる、また走っては停まるところから、高速道路ではなかっただろう。府中を出て三十分ほどだったから、それほど遠くへは来ていない。
 クルマが今度こそ停まる。エンジン音が消えて、しーんとした静寂。
 トランクが開けられた。漆黒の闇の背景に鬱蒼とした森がひろがっている。西条の家を囲む林とは違って樹木は太く枝葉が張って、どこか樹海の中のようでもあった。
「さあ出なさい」
 後ろ手の手錠をつかまれ、トランクの縁に脚をかけてころがり落ちると、地べたには下草が薄くひろがっていた。
 西条の家とは比べものにならない小さな家・・屋根の平らなコンクリートの建物だったが、窓の位置から造りは住まいかと思われた。
 そして、停めた艶子のクルマの奥に縦列でもう一台。白いベンツが置かれてあった。
 艶子は、全裸の弓枝の背を押すと、建物の正面には向かわずに、ベンツを回り込んで裏へと弓枝を引き立てた。星空の闇夜に白い女体の蠢きが生々しい。

 家の裏には、別棟とされたコンクリートの納屋のようなものがあり、ダークシルバーに塗られた鉄の扉がついている。家に比べてこちらはずっと新しい。扉は軋むこともなく軽く開き、入ってすぐ地下への階段となっていた。踊り場のない直線的な階段が地獄への道のように薄闇の底へと続いている。
「連れてきたか」
「ええ、素っ裸でね」
 艶子に背後を封じられて階段の中ほどまで降りたとき、闇の空間に眩いほどの明かりがついて男の声が響いてきた。家の側からも地下へ降りられるようになっている。
 黒いロングガウンを着た長身の男。夫の啓史とは似ても似つかない彫りの深い顔立ち。自由業らしい肩までの長髪は、しばらく見ない間にシルバーアッシュに染められていた。

 西条康平、四十四歳。こうなるだろうと弓枝は思った。

「じゃあ後はお好きになさいな。あたしは戻って留美といます」
「うむ、親父のこと頼んだぞ」
「わかってますって、可愛がってあげるから」
 そんなことを言い残して艶子は踵を返して去って行く。
 地下空間はまだ新しいコンクリートの空間で思いのほか広かったし、天井も高く造られてある。ここはいったいどういうところか。
「いいカラダだ、こっちへ来い」
 しかし弓枝は動けない。コンクリートの天井には鉄のフックの下がるウインチがあり、そのほか磔台・・壁際には麻縄や無数の鞭・・三角木馬・・あきらかに普通ではない淫虐の臭気に満ちている。
 康平は、そんな空間の中に置かれた黒いレザーのソファに座り、手の中にある小さな黒いボックスを操作した。

「きゃぅ!」
 膣に打ち込まれたディルドが眠りから覚めるように激震し、ほとんど同時にクリトリス周辺を強烈な電気ショックが襲う。
「くぅぅーっ! きっきぃぃーっ!」
 形のいい乳房を暴れさせ、白い裸身をくの字にしならさせ、極度の内股となって身を屈める弓枝。しかし責めはすぐにやんだ。
「これが嫌なら素直になって従うことだ。いいな!」
「ぅ・・う・・」
 応えられずに見つめていると即座にまた性器に悪魔の責めがくる。
「きぃぃーっ! わかりました、ごめんなさい! ひぃぃーっ!」
 振動も電気ショックも最初のときとはパワーが違う。全裸の弓枝は乳房を弾ませてぴょんぴょん跳ねて、直後に床に崩れ落ちた。
「わかったら来い」
「はい・・でもお義兄さん、どうして・・」

 弓枝は泣きながらよたよたと歩み寄ると、指差された椅子の前へと膝から崩れた。康平の二つの瞳は透き通り、地下の薄青い光線を受けて煌めいている。悪魔の眸色だと弓枝は思った。
「もっとそばへ」
 そう言いながら康平は黒いガウンの帯を解いて前をはだけた。ガウンの下は熟した男の全裸。夫の康平は背丈は普通でも筋肉質。なのに義兄は、背が高くてスリムな裸身。何より顔立ちがまるで違う。兄弟とは思えなかった。
「しゃぶれ」
「ぁ・・ぁぁ・・」
 康平の陰毛は臍の下まで生え上がり、剛毛の中から萎えたペニスが垂れている。弓枝は義兄の裸身から目がそらせない。
 康平が手の中の黒くて小さな電池ボックスを見せつけた。
「はい、わかりました、はいお義兄様、もう逆らったりしませんから」
 体ごと股間にぶつかるように夫以外の萎えたペニスを口にする。ほおばって亀頭を舐め回し、しだいに充血してくる凶器を恐れながらも奉仕した。

「おまえは何も知らんのだ、俺のサディズムは親父ゆずりよ」
 弓枝は勃起しだした康平をくわえたまま顔を見上げた。
「俺には妹がいたが幼くして死んでしまった。それでそのとき、親父は囲い者だったマゾ女に産ませた子を引き取って育てようとした。それが啓史だ。くだらんのだ。あの家は何もかもがくだらん。俺は出た。関わり合いになりたくない。財産などに興味もない。しかし啓史がこんなことになってしまえばしかたがない」
 その意味がすぐには理解できない。ペニスから口を離して弓枝は言った。
「・・そのことを弘美さんは?」
「もちろん知ってはいるが、あいつとの離婚は質が違う・・さあ狂え弓枝、おまえはもう俺の女だ。ふっふっふ!」
「きゃぅ! ひぃぃーっ!」
 手の中のスイッチが弓枝に破滅を突きつけた。弾かれたようにペニスをしゃぶるが悪魔の責めは終わらない。
「むぐぅ! むぐぅーっ!」
 イクイクと叫ぶがペニスが喉へ突き立って声にならない。
 錯乱する快楽・・もう何も考えられない・・意識が白く飛んでいく。

2017年03月12日

絶望の愛(二話)


二 話


 それにしても正太郎は、弓枝が家に入ってからの一年の間にずいぶん話せるようになっていた。最初の頃は声を発するだけで言葉にならず、伝わらない思いに苛立って怒りだしたりしていたもの。
 弓枝は、哀しいまでに老いた白髪頭を撫でてやった。七十九という歳よりも寝たきりの暮らしが老いを進めているようだ。
「ぅぅむ・・たへろ」
「え? 耐えろって言った?」
 正太郎は少し動く頭を上げてうなずいた。長く看ていると不確かな言葉でも通じ合えるようになる。
「ねるっておら」
「狙っている?」
 ふたたびうなずく正太郎。
「この家を?」
 夫の事故から気が動転してそこまで考えてはいなかったし、弓枝にとってそんなことはどうでもよかった。

 そのことについては夫とも話していた。現代の東京に千坪ものまとまった土地を持てば資産価値は計り知れない・・と思うのが当然だろうが、それがちょっと難しいと夫は言った。
 千坪のうちの八割は昔からの里山であり、府中市の保存林に指定されて勝手なことはできなくされていたし、二百坪の家の敷地もその緑の只中にあり、東京の緑化が計画される時代にあって景観保護の観点からも逐一役所に報告しなければならないからだ。処分するとなれば市が買い取ることになるのだろうが、不景気のいま市の懐も豊かではない。

 しかし言われてみれば、あの狡猾な義兄夫婦ならやるだろうと思えてくる。
 義兄の康平は金銭への執着心がないようで相続を放棄していた。もっとも背負ったところで莫大な相続税がのしかかるだけ。切り売りしようとしても難しいなら身を退いたほうが得策だろう。
 そういうことまで実家の一切を弟に押しつけておきながら、旗色が変わったと思えば乗り出してくる。沼田留美などという子飼いの女を送り込んで・・と思ったとき弓枝はハッとした。迂闊に家を空けられない。留守中そこら中を探っているかもしれないからだ。
 家屋敷の権利証や預金通帳まで。それらは義父が倒れてから弓枝の夫が管理していて、弓枝は見たこともなければ置き場所も知らなかった。夫の実家ということで遠慮していたと弓枝は思う。

「そうね・・あの女が何してるかわからないわね」
 ところが正太郎はちょっと微笑んで言う。
「だいじぶ・・」
「大丈夫? どうしてそう言えるの?」
「ぎんこ」
「銀行?」
 そうか、銀行の貸金庫。夫はそこまで考えて大切なものは隠してある。安心して面色の変わった若い嫁に、正太郎は微笑んで言う。
「ゆいごむ」
「遺言? ねえお義父さん、遺言みたいなものが残してあるの?」
「わる・・びんごし・・」
「弁護士さんに預けてあるのね?」
 正太郎はうなずいて、穏やかだった眸を少し厳しくして言うのだった。
「こうへには・・やらん・・ゆるへん・・」
 康平にはやらん・・許せん。
「うみえは・・かぁいい・・すまむな・・」
 弓枝は可愛い・・苦労をかけてすまんと言っている。

 弓枝は涙の出る想いがした。結婚して家に入ったとき、正太郎は体がダメで言葉もダメ。最初のうちは知能もダメだと思っていたのだったが、頭そのものははっきりしていた。時とともに理解できるようになっている。
 それが嬉しい。私のすることをちゃんとわかっていてくれる。
「お義父さん、嬉しいよ私、啓史さんの嫁だってわかっててくれたんだね」
 正太郎はまたうなずいて言う。
「いいよむはんだ・・あらがと・・」
「お義父さん・・私の方こそ」
 いい嫁だ、ありがとう。このときの弓枝にとって何ものにも代えがたい理解者だった。夫がもし脳機能を失えば、この義父だけが頼りだと考えた。
 ところが正太郎は、またしても考えてもみなかったことを言う。

「もしものろき・・」
「うん? もしものとき、どうするの?」
「ひろむを・・たよら・・」
「ひろむ? 弘美さんを頼ればいいのね? 前の奥さんの弘美さんでしょ?」
 正太郎はうなずいた。長男の康平の前妻である。
「ひろむには・・べつのゆいごむ・・わらしてあろ」
「別の遺言を渡してあるの?」
「いいよめらった・・こうへのばかやろむ・・」
 いい嫁だった・・康平の馬鹿野郎・・。
 力強い言葉だ。それもまた弓枝にとっては救いだった。
 正太郎が生きているうちはいい。夫が死ななければいい。もしも両方を失えば独りで家を守っていかなければならなくなる。
 弓枝はできるだけ早く弘美に会っておこうと考えたのだが、相手が静岡ではこちらからは動けない。夫との恋人時代に何度か会ったことはある。穏やかでやさしい女性だ。

「ねえお義父さん、電話番号わかる? 弘美さんの電話よ?」
「むぅ・・そこら・・」
 古い家の奥の八畳には、古い整理箪笥、昔ながらの文机、そして亡き義母の三面鏡と古いものが置かれてあった。いくら留美でも、当人の前で家捜しするような真似はできないに違いない。
 正太郎は桐でできて木が黒く錆びてしまった整理ダンスへと視線をなげた。
「しらのひきらし」
「下の引き出しね?」
「てとうがあろ」
「手帳?」
 湿気を含んで動きにくい引き出しを開けると、きちんとたたまれた古い服の間に黒皮の長手帳がはさまるように置かれていた。
「これ?」
 正太郎はうなずく。
 ぱらぱらとめくっていくと、紙の黄ばんだ古い手帳から白く小さな紙がはらりと落ちた。まだ新しい紙だった。
 吉村弘美。あった、これだ。

 正太郎の前で即座に携帯を取って電話する。
 吉村弘美は、弓枝の夫より一つ歳下の三十八歳。二十九歳で康平と結婚するまでは大学病院に付属する薬局に勤めた薬剤師だったのだが、結婚して仕事を辞め、離婚してからは静岡は沼津にある実家の食堂を手伝っていた。
 電話の相手先の番号は食堂で、弘美が電話を受けたのだった。
「・・お義父さんがそうおっしゃられるのね?」
「そうなんです、いま義父のそばで喋ってます。じつは主人が事故で・・」
 事情を話すと弘美はひどく驚いたようだった。離婚した夫の弟なのだから当然だろうが、弘美は何も知らされてはいなかった。
「あの人たちならやりかねない、そういう人たちだから。ええ、確かに預かってますし弁護士さんのことも聞いてますから。そういうことなら、いまこんなことを言うのは気が引けますが、私にも遺産を少し分けると言ってくれて・・じつはすでに孫のためにってお金をいただいているんですよ」
 弓枝は携帯を耳にあてながら正太郎へと目をやった。携帯から声が漏れている。正太郎は微笑んだ。
「いまお義父さん笑ってます」
「ふふふ、ええ、わかりました、何かあれば連絡してね、私にできることはしますから」
 目の前が明るくなった気分がする。

 正太郎に軽く昼食を食べさせて、介護サービスがやってきて週に二度の入浴介助。さっぱりした正太郎は、今日はとりわけ顔色もよかった。七十九歳でぴんぴんしている人はいくらでもいる。脳機能さえ少しでも良くなれば正太郎は元気になってくれるはず。
 弓枝は介護用のベッドの背を倒して体をまっすぐ寝かせると、ベッドの左側に膝をついて、正太郎の体のすぐ横に頬を添えた。
 かろうじて動く左手も一年前よりはるかにしっかり動いてくれる。寝たきりの生活で骨の浮き立つ細い手がゆっくり動いて弓枝の頬を撫でている。
「お義父さん、心強いわ。啓史さんがもしって考えると、独りでどうしていいのかわからない。元気になってね、きっと」
「うむ、わしは死なむ」
 正太郎は穏やかに微笑んで、若い嫁の頬の感触を楽しむようにうっとりと目を閉じた。
「寝ちゃった?」
 返事がない。弓枝は年老いた子供のような義父にたまらない慕情を覚えた。枯れた手をそっと握ってTシャツの胸に引き寄せる。ブラの上から押しつけてみたのだったが指は少しも動かなかった。

「ごめんなさい、お義父さん、お荷物扱いする心がどこかにありました・・ごめんなさい・・」
 枯れ葉のような手をそっとベッドに置いてやり、薄いタオルケットをかけて部屋を出た。

 義兄の康平は、弟がいるから家には関わらない。父親がこんなで弟までがそうなれば・・つまりは小娘の嫁が一人。どうにでもなると思っているのだろう。
 沼田留美をよこすと聞いて、とりあえずほっとした自分が馬鹿だった。明らかに普通の人じゃない。人慣れしている。スレた感じは隠せない。
 弓枝はそれまで義兄夫婦の暮らしぶりなど無関係なこととして夫を通じて聞かされていただけだった。
 後妻の艶子という女・・義兄の弟子としてシナリオを学んでいるという沼田留美・・そしてもちろん義兄そのものもどういう人なのかよくは知らない。
 強い夫に守られていたことを痛感する。もしもいま独りになったら、この家にどこから手をつけていいかもわからない。そういう意味でも義兄の前妻と接点ができたことは大きかった。

 しかし、その夜。弓枝の運命を決める出来事が起こるのだった。

 夕刻になって古い家をつつむような緑の里山に薄闇が忍び寄る頃、沼田留美と、そして康平の後妻、艶子が二人してやってくる。
 留美は午前中のミニスカート姿とはうって変わった淡いブルーのショートドレス。しばらくぶりに見る艶子のほうは白いパンツスタイルだったが、金糸の刺繍も鮮やかなピンクのTシャツで、さすが元芸能人といったムード。しかも一見して格差のある態度・・若い留美を人形のように扱っていると弓枝は感じた。
 性的に躾けられた人形・・二人はレズ? どうしてそう感じるのか、そうとしか思えなかった。
 正太郎や弘美と話していたことで、どうしてもよそよそしくなってしまう。結婚したとき新しくした白いダイニングテーブルに紅茶を出して、弓枝は二人に立ち向かう。警戒する。弱みは見せられないと内心思った。

 なのになぜかドキドキする。性的な緊張だと自覚した。

 弓枝は女優だった頃の艶子を知らなかったが、さすがに垢抜けて、それでなくても美しい姿が次元の違う女性美に思えてくる。艶子はまだ三十二歳と若く、気品にあふれているといった感じ。背丈は百五十センチ台と小柄だったが、それだけに女らしくてクラクラするほど。やや赤い不思議な茶色に染めた長い髪。タイトフットの白いパンツがヒップラインを強調していて、胸元に金糸で刺繍の施された薄いシャツにレースの白いブラが透けている。
 魅入られるほど美しいとしか言えなかった。

 そしてまた沼田留美だ。午前中の留美には嫌なものを感じたが、艶子の前で留美は静か。あらためて見ると、こちらもまた美しい部類に入るだろう。艶子よりも背が高いのに小さく見える。艶子に可愛がられていることが一目で見抜けるほど、艶子の前で留美は可愛い女性になっている。淡いブルーのショートドレスも、タイトフィットでありながら嫌味はなく、一瞬にして弓枝は、布地に下着のラインがないことに気づいていた。
 二人揃って映画から抜け出たような洗練されたムード。しかしだから弓枝は構えてしまう。住む世界が違いすぎる。私だけではとても勝てないと弱気になる。

 艶子が言った。鈴が転がるような綺麗な声だ。
「ねえ弓枝さん」
「あ、はい?」
 艶子はテーブルに手をついて、ちょっと身を乗り出して、弓枝の二つの眸をまっすぐ見つめた。その手が真っ白で、爪もピンクに整えられて綺麗だった。
「誤解しないでね」
「誤解って?」
 見つめられることが恐ろしく、弓枝は傍らに座る留美へと横目をやった。留美もまた穏やかに微笑んでいる。
 艶子は静かな声で言うのだった。
「主人は主人なりに、私には私なりに、いろいろあった二人が一緒になった。お金じゃないのよ。この家をどうしようなんて思っていない。相続がどうのなんて面倒はごめんだわ。主人は長男なのよ。啓史さんがこんなことになって心配するのは当然でしょ。私たちだって家族です。若い頃からいろいろあって女独りの孤独がどういうものかは嫌というほど知っている。心配なのよ、あなたのことが。可哀想に若いのにこんなことになっちゃって・・それでね、主人とも話したんですけど、ここに住もうと思ってるの。主人はほら、お義父さんとよろしくないようだから世田谷の家にいるけれど、近いんだし、私と留美はここでもいいかなって思うのね」
 同居するということか。
「・・留美さんも一緒にですか?」
「あら、いけない? こう見えても留美はいい子よ。ずっと前から知っていて私が主人に紹介したの、シナリオやりたいって言うからさ。うまく言えないけど留美がいてくれないと私が困るの。寂しくなっちゃう。ここはお部屋がいくつもあるんだから一つぐらい使わせてくれてもいいんじゃない」

 寒気がはしる。ゾクゾクするほど美しい艶子に迫られては拒めなくなっていく。
 夫の康平は確かに長男だし、他人が聞けば当然のことだと思うだろう。

 艶子はちょっと笑って言った。
「それとも・・私たちがいては邪魔かしら? この家を乗っ取ろうとか、悪気があって乗り込んできたと思ってるでしょ?」
「いえ、まさかそんな」
 面と向かって言えるはずもない。
「じゃあ信じていただける? そうなさい、悪いことは言わないから。大変なのはこれからよ、お義父さんに加えて啓史さんが戻ってくる。あなた一人では厳しいわ。私を姉だと思ってちょうだい。長男の嫁なのよ私は」

 それ言われると返す言葉が探せない。弓枝は、自分でも理解に苦しむ性的な震えを覚え、うなずいているしかなかった・・。