2017年11月15日

きりもみ(二話)

kirimomi520

二話 マニアック


 美希は奈良原書房から五分ほどの距離に住んでいた。駅からなら七分かかる。賃貸のワンルームで独り暮らしにはちょうどいいスペースだったがピアノを置くことを考えると少し狭い。アップライトタイプよりも奥行きのない電子ピアノ。住む部屋に生徒を入れるつもりもなく、あくまで自分の練習のため。部屋そのものも音を通してしまうから大きな音の出ないものでないと苦情が出る。
  一度部屋に戻った美希は、着替えにクローゼットの前に立ち、吊された服を見ながらどうしようと考えた。智江利と二人きりとなると、性的な文章を書く人だけに怖くなる。いいや智江利のことだけじゃなく、これまでもこういうことがあると決まってつまらないスタイルを選んでいた。男のいない飲み会であっても飲み屋なんて女漁りの得意な輩の集まるところ。そんな気がして無意識にガードしてしまうのだった。

  ちょっと考え、思い切りミニを穿く。Tシャツに夏のジャケット。まだまだ暑い日が続き、それで充分だと考えた。それから髪をなおして化粧をチェックしようとし、思い立って下着の替えをコンビニのレジ袋に突っ込んでショルダーバッグの底にねじ込んでおく。
  なぜそこまでするのか、なんとなくという予感のレベルだったのだが、今夜は泊まりになるかもと考えた。横須賀はそう遠くはないけれど、これからだと帰りを考えると向こうに長くはいられない。若い女の陶芸家がどんな暮らしをしてるのか。そしてそれより性的にマニアックなものを書ける女の生き様を見てみたい。智江利となら友だちになれそうだと思うのと、離婚から、ほんの少しの寂しさがつきまとう自分を感じていた。
  そして結局、デートのようなスタイルができあがる。それなりミニにヒールの低いサンダル。近頃ちょっと伸びすぎたサラサラヘヤー。まあこんなもんでしょと思い、出際になってクルマに乗るんだと気づく。シートは沈みスカートが上がってしまう。

  ううむ、ま、いっか。女同士だ。

  美希は自分でも驚くほど性的な話をしたがっている自分に気づく。智江利の文章が頭の中でグルグルしている。そういう話のできる友だちが周りにいない。酒なんてまっぴらだから話すチャンスもないわけで。
  正体不明の淡い期待を胸に本屋へ戻り、さて出ようとしたときに、智江利のスカートのほうがさらに短く、しかも智江利は素足。引き替えて、解放したつもりでも私はパンストを穿いてしまったと美希は思う。学生の頃のコンパで洋子と並んで歩いたとき、かなりなボディコンシャスを素足で着こなす女を見ていて、とても勝てないと思ってしまった。口惜しい気がしてならなかった。そんな記憶が蘇ってくる。あの頃の私には決まった彼がいてくれて同棲していた。派手にすることないでしょうと言い聞かせていたのだったが、いざ男たちに囲まれて視線が向こうへ行ってしまうと寂しくなる。

  クルマに乗る。智江利のクルマは赤いポロ。少し前のモデルでリアのバンパーにちょっとコスった傷がある。ポロはシートが固めにつくられ思うほど沈まない。しかしそれでもスカートが膝上二十センチ。運転席の智江利はもっと短く、いまにも下着が見えそうだった。白く綺麗な脚線。その点では私の方が若いんだし負けてはいないと考えた。いいや考えたい。私はどうして弱気なのかと嫌になる。会う度ちょっとの温度差がバウムクーヘンみたいな層をつくっていくんだよ。洋子との間に地層のような隔たりができていく。女を生きる時代が違うみたいなギャップ。エッチに対して引っ込み思案な私って性的化石? と思ったものだと、やっぱり洋子の姿が目に浮かぶ。

 「マニアックじゃない? あたしの書くものって?」
 「マスターなんか言ってた?」
 「あたしのブログ教えたよって。だから訊いた」
 「うん、それはそうかも。でも好きよ、素直に書いてるって感じられる」
 「そう?」

  いきなり胸が苦しくなった。智江利の家までのルートを覚えておこうと思って乗ったはずなのに、市街地の景色が白くなってとんでしまった。
 「自虐からはじまった。陶芸もそうなんだけど文章書いたって才能ないし、
ダメな女って自分で思うと腹が立って虐めてみたくなるんだもん」
 「わかるよそれ。私も似たようなものかな。ピアノは弾けるし教えることで生きてるけど、だから何って感じなんだし」
 「離婚したんですってね?」
 「した。やっぱりそれよ、決定的なのは。自分を責めたもん。おまえがダメだから終わっちゃったのよって。器というのか、小さかったかなって思うしさ」
 「そうなんだ?」
 「強い人でね。キレる人って言えばいいのか、論理的で合理的で、こうこうこうだから、こうでいいじゃん、みたいな即決即断」
 「うわぁ、あたしダメだわ、そういう男。能力あるのはいいけどさ、ちょっとぐらい弱くないとあたしの居場所がなくなっちゃう」
 「まさにそこ。居場所がないなって思ったとき彼が遠くに感じてしまった」

  市街地を抜けて横浜横須賀道路。横須賀より逗子で降りたほうが近いという。
 「美希って呼んでいい?」
 「もちろん」
 「うん。あのね美希」
  美希はその声をたどるように目を向けて、そのとき前を見て運転する智江利の綺麗な腿が気になった。割り開かれて犯される姿を想像する。
 「変態なのよ、あたしって。きっとそうだわ。家族を一度に亡くして目の前が白くなった」
 「そうなんですってね、交通事故だったとか」
 「カーブでガシャンよ。相手はダンプ、正面衝突でほとんど即死だったって。それで実家がもぬけの殻になっちゃって、お金なんてもらっても、いきなり独りじゃ無理ってもので」
 「うん」
 「で、なんとかしなくちゃって思っても、そのときあたしはホームセンターに勤めてて」
 「ホームセンター?」
 「そよ。最初はフリーターだったんですけど、忙しくなってきて猫の手も借りたかったみたい。社員にならないか。ま、いっかみたいな感じでやってきて。女なんて、そのうちどうせ捕まっちゃう。嫁ママ婆って行き先は決まってるって思ってた」
  美希は可笑しい。智江利には言葉のセンスがあると思う。

 「でね、あたしいま三十二」
 「私は三十」
 「あっそ? 三十? 若っ」
 「智江利さんだって若いよ」
 「さんはいらない。智江利さんて言われると『はぁい』って応えたくなる。智江利って呼ばれると『はい』って素直に言えるから」
 「うん、じゃあ智江利」
 「はい女王様、ってさ、そんな関係にも憧れたのよ。親が消えて独りになって、あたしって誰のために生きてるのって思ってしまった。あたしのためだけに生きてるのって。誰かのために生きてみたいって」
 「うん」

 「で何だっけ?」
 「は?」

 「あ、そっか。でね」
 「うん。ふふふ可笑しい」
 「可笑しいかな?」
 「いいわよ。で何だっけから」
 「あ、そうそう。で三十路もひたひた忍び寄り、そろそろかなって思うようになったとき、いきなり独りになってしまった。結婚とか、もうどうでもいいやって思ったのよ。娘ってやっぱ親にドレス姿を見せたいじゃない」
 「うん、わかる。それはそれはそうかも」
 「そのへんからなのよ、おかしくなったのは。変態的だったのはずっと前からなんだけど、どんどん自虐的になっていった。そういう文章を書き出したのもその頃からで、隠してきたものを曝け出したい、ほんとのあたしはこうなんだって吐き出さないと苦しくなってく」
 「妄想もふくらむし?」
 「それもある。家の中をスッパで歩くなんてできなかったんだけど、それにしたって親がいなけりゃどうってことない。夜中にスッパで外に出たり、外でエッチなことをしてみたり。そうするとね、もう一人のあたしが言うのよ、ほうら気持ちいい、もっと苦しめ馬鹿女って」

  馬鹿女・・それは智江利のブログにしょっちゅう出てくる常套句。私はもう一人の馬鹿女を責めてやりたい。智江利のブログはそうしてSとMを行き来する内容が多かった。けれどそれが私に近いと美希は感じ、だからのめり込んでいけたのだ。誰にでもある素直な感情を素直に書いている。
 「ブログにあったことって、マジなん?」
 「マジ。行けばわかるけど、ウチってヒイ爺さんのときからで、ほんと山の中なのね。夜なんて猫さえいない。裸で出ていろいろしたし、そうすると壊れたみたいに濡れちゃうの。許して智江利、まだまだよ馬鹿女って、二人のあたしがせめぎ合ってる」
 「それで感じる?」
 「感じる。もうめちゃめちゃ。エッチなオモチャで虐めてやると気が遠くなっていく。智江利のために馬鹿女は生きてるって思えるの」
 「病的だって思わない?」
 「と言うか、人ってそんなもんだと思うのよ。無秩序に生きていたい本音があって、それを社会に合うようつくっていくのが教育。皆が同じ顔してりゃ安心できる。だからみんながつまらなく、そこに気づいた人だけが幸せになってくの」
 「私も気づいてないみたい。幸せじゃなかったし」

 「嘘よそれ」
 「え?」
 「見て見ぬフリ。みんなそう」

  美希の脳裏にまたしても洋子の偶像が浮き立った。それは憎悪。密かな思いであっても、くっきりとした憎悪。お尻の目立つタイトを平気で穿いて、夏にはTバックのラインが透ける。何よ馬鹿者、エロ女。よくそんなカッコができるもんだわ。お尻を振って胸の谷間も平気で見せて、私をヘンな気にさせる。ムカつく。見せつけるように、いい女になりたがる。どうせ私はつまらない女です! 思考順路は決まってそうだし、だから洋子が大っ嫌い。美希は哀しくなっていた。

 「ねえ智江利、訊いていい?」
 「いいよ、何だろね?」
 「オモチャってどんな?」
  それはブログに書いてあることで、ごまかしてもダメ。ほんとのことを言ってくれるか試したい。そう思って美希は訊いた。
 「ディルド、突っ込むバイブ、電マ、浣腸、洗濯ばさみもあるし、小さなローターとか」
  確かにそう書いてあったと美希は思う。
 「それをマジで使ってみたんだ?」
 「使ってみたじゃなくて使ってる。ほとんど毎日。ほとんど毎日イキ狂ってもがいてる。鞭なんて、そこらの枝を折ればそうなんだし、だけどそれは自分じゃできない。やってみたけど痛くてさ」
  あたりまえだよ馬鹿女。そのとき美希はそう思い、同時にちょっとほっとする。そういうことを素直に言い合える友だちになれそうだ。

 「なんだか素直でいられそう、智江利といると。じつを言うとね」
 「うん?」
 「あのブログ、隅っこまで読んでるよ。わぁぁ凄いって思いながら言葉の中に入っていくと、いつの間にかヘンな気に」
 「濡れる?」
 「うん」
 「オナニーとかは?」
 「した」
 「だったら嬉しい、涙が出るほど嬉しいかも。女同士って、じつはほとんどわかり合えない。わかり合えるのは浅いところ。ネットにはそれがない」
 「それがないって?」
 「自分を閉じ込める鉄格子。リアルだと、どうしたって越えられない部分があるでしょ。自分をいい子にしておきたい。私は違う、そうじゃないって思っていたい」
  それは、あの頃、似たようなことを洋子にも言われていた。そんなに自分が可愛いの。過保護だと思わない。そんなんじゃ損するよ。 まともにそう言われてカッとしたのを覚えている。

  智江利は言った。
 「でもそれはしょうがない。もう一人の自分の方が誰だって強いから。だけどそこが問題なんだよ美希。もう一人の自分てどっちなんだよ。アクセルかブレーキか。それが問題なんじゃない」
  あなたは常にブレーキね。それもまた洋子に言われた言葉だった。
  つぶやくように美希は言った。
 「だったらどうすればいいっていうの。妄想ばかりがふくらんじゃって悶々とするだけじゃん」
 「そうよ妄想。でもね美希、妄想こそが脱皮の蠢き。チョウチョがどれだけ苦しんであの姿になると思う。女はほとんどサナギのまま腐ってく。私はダメだと自分を追い詰め、わかってくれないと他人を責めて、どんどんおかしくなっていく。失礼だけど離婚して、それでもサナギのままなのかしら。あたしはそれが嫌だった。だから仕事も辞めて独りになった」
 「だからって自虐なわけ?」
  このとき美希は、ムッとするより、素直な問いとしてそう言った。

 「そういうことってなかった? 虐めるみたいなオナニーとか、拷問みたいなアクメとか?」
 「それができたら幸せだろうなとは思ったよ」
 「うん、一歩前進?」
 「はい?」
 「否定するのがそこらの女よ。だけど嘘に決まってる。デートってことになると勝負パンツを選んでおいて、それって脱がせて犯してってことじゃない。ちょんちょんのミニスカ穿いてさ」
 「それは女心なんじゃないかしら。脱がされれば貪欲なのはわかってて、でもだから最初ぐらいはと考える」
 「うん、あたしだってそれはそう。 あ、」
 「何よ?」
 「ある人がこんなことを言っていた。男の人よ」
 「うん?」
 「女の花がなぜ股ぐらに下向きに閉じているのかわかるかって?」
 「うん?」
  美希は内心穏やかではない。明解な答えを突きつけられそうな気がしたからだ。
  智江利は、運転しながら横目を向けて言う。
 「誇るように上を向いて咲きたくて、ヌラヌラ濡れる牝の本性を見せつけたくて、なのにそれを許す相手を待たなければならないからだ。だから許されなくて苦しむんだと」
 「むずかしいよ、哲学みたい」
 「だったら自分で咲かせてしまえ。本性を許す者だけが近寄ってくるはずだって」

  そんな話になった頃、クルマは高速を降りて緑を縫う道を走っている。智江利の家へのルートなんて、美希はほとんど覚えていない。

2017年11月13日

新作ハードエロス きりもみ

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 一話 日々の些末


 「美希さん、ちょっとみんなと行くけど、どう?」
 「ごめんね、なんだか疲れちゃって寝てたい気分なの。あたしも風邪気味なのかも」
  日曜の夕方。明日の月曜が休みということで久びさの夜だったのだが、その日の美希は気乗りがしない。今日は滅多に休まないアイツが風邪らしくて休んでいる。今日と明日は独りになって気を抜きたい。そんな気分だったから。

  小沼美希は三十歳。学生時代から寄り添った夫と別れ、新しい風を探して横浜に越していた。勤め先の音楽スクールの生徒の中に宮原という女の子がいるのだが、宮原さんと呼ぶ声がするたびにどきりとする。
  宮原英明、それが同い年の別れた夫。旧姓に戻ってそろそろ一年が経とうとしても、その名を聞くと胸が苦しい。
  学生だった二十歳の頃から八年同棲。同棲が間違いでなかったことを確かめるように結婚したのだったが、一年としないうちに別居した。だったらどうして結婚したのか。後になって言えることでも、結婚したから見えてくるものもある。長すぎた春はいきなり秋を連れてきた。夫の英明は出来すぎた。ある意味で強すぎたとも言えただろうが母性の入り込む隙間がない。同棲から二年して英明が大学を卒業し、そのとき美希も音大を卒業。彼は一流会社のサラリーマン、彼女のほうは大手楽器メーカーが運営する音楽スクールに勤めだす。ピアノ講師。それが美希。

  けれどそれから数年がすぎていき、社の中で英明が注目されるようになっていくと、生来の出来すぎる才能が美希を寂しがらせることとなる。
  それでも同棲の正当性を確かめたくて結婚した。入籍を終えて夫婦という関係になれたまではよかったが、夫の言動の端々が冷たく感じられるようになっていき、結婚から一年で別居した。子供はなかった。
  それまで夫婦で暮らした練馬のマンションに夫を残し、妻は家を出たのだったが、そのときも妻にはもしかしてという想いがあって、夫の元からそう遠くない世田谷の賃貸に移り住む。そしてその頃から、結婚で一度は退いたピアノ講師の世界へバイト気分で戻っていた。

  別居から一年ほどがすぎていき、やはりダメだと決断した。東京から離れたい。港のそばに憧れもあったから横浜へと引っ越した。
  大手楽器メーカーの音楽スクールはもちろん全国展開だから、元いた職場に戻れるチャンスがあったのだ。横浜郊外の小さなスクール。美希が住む地元の駅から地下鉄で三つほど東京側へ戻ったところ。団地のある住宅地にも近く、生徒の少ない小さな教室が気に入って復職した。
  ところがそこに、美希にとって第一の人物とでも言うべき、あの女がいたのだった。

  それが高島洋子、同い年の三十歳。美希とは音大が違ったが、東京での学生ピアノコンクールで顔を合わせたライバルだった。洋子は、美希と同学年で同時に卒業。以来疎遠となっていたが、共通の友だち越しに、卒業から二年後に結婚したと聞いていた。洋子には、いま四つだったか五つだったか小さな子供がいるはずなのだが、彼女もまた二年ほど前に離婚したと聞いている。考えてみれば洋子は横浜が地元。親元に子供を委ねて働ける。
  美希はあの頃から、何事によらず即決してぐいぐい動く洋子の行動力が性に合わない。発展家であり性的にも奔放。きわどいマイクロミニを平気で穿く女。一人の男性に対して見定めて同棲していた美希には遠い世界にいた女。ピアノでは互角だと思うのに周囲の男たちは洋子にばかり群がった。
  音楽スクールは生徒たちが学校を休める土日は休めない。スクールの休日は月曜で、土日は交代で講師は休む。洋子は子供好きで、ピアノへの情熱もあったから滅多に仕事を休まない。今日はその洋子が風邪で休み。美希はさっさと切り上げて独りになって息を抜きたい。

  横浜のはずれに住む美希だった。世田谷から越したとき、第二の人生がはじまったと思ったものだが、待てよ、私に第一の人生なんてあったのかしらと思うようになっていた。洋子でさえがママ。結婚して子供を持つ。そこまでが第一の人生なんだと思えてならない。
  スクールを出て歩いて駅へ。地元の駅からまた歩く。地元の街に着いてみても夕暮れには早かった。夏をすぎた九月の末でも、この夏はとりわけ暑く、夏の陽射しが去ってくれない。
  駅を降り、駅前のロータリーを突っ切ってバス通りを渡ると、そこからがクランク状に曲がる路地となるのだが、その中ほどに気になる店があったのだった。

  奈良原書房という古本の店なのだが、それなりに広い店内の手前側半分に本が並び、奥側の半分に小さなカウンターが造られていて、『趣(おもむき)』と名づけられた喫茶のコーナーとなっている。もともとはインスタントコーヒーを置くぐらいで、つまりは客が本を手に取ってお茶でも飲みながらちょっと読むといったスペースだったらしいのだが、古本そのものよりも人気が出てきて、いまではちゃんとした喫茶室となっている。
  書店の店主というよりもそのちっぽけな喫茶室のマスターは、奈良原和基(かずもと)、四十歳。それがために食品衛生責任者の資格を取ったと笑っている。歳よりも見た目に若く、気取りのないひょうひょうとした感じが気に入って、美希はときどき立ち寄って休んでいく。珈琲が三百円ほどと高くもなく、軽くパンなども置いてある。もちろん古書を手にして読むこともできる。不思議な店だと思うのだったが、気楽というならそこらのカフェより静かでよかった。

  ただひとつ難があり、そのカウンターのすぐそばが、いわゆるアダルトブックのコーナーで、どきりとする本が並んでいる。美希はカウンターに座るとき、必ずと言っていいほど何かの本を先に探して席に着く。何となくだがソレを目当ての客と思われたくない気してならない。
  L字状に七席が並ぶちっぽけなカウンター。しかしまた、その左奥の棚に妙な陶器が並べてあって、客が持ち込む作品を展示して売っている。
  聞けば、その陶芸家の女性の友人がかつてこのそばに住んでいて、それがきっかけで知り合った人だとか。美希とすればいまはまだ会ったこともない女であったが、これが第二の人物とも言える存在になろうとは思ってもいなかった。

  そしてその日が、第二の人物、真木智江利との出会いとなった。智江利は三十二歳、横須賀に住む自称陶芸家であるそうで、真似事でエッセイなんかを書いていても、まったく売れていなかった。売る気もないと言うらしい。陶芸も趣味の延長。それでどうやってと思ったのだが、横須賀の実家にいた両親が二人一緒に交通事故で亡くなって、その賠償金と保険金が転がり込んだということだ。

  売れてなくても書いたものは読ませてもらった美希だった。カウンターにノートパソコンが置いてあり、マスターに言われるままにクリックすると作品を載せているブログに行き着く。
  そのタイトルがまた『女でいるより牝でいたい私だし』というもので、一行を見てドキドキしても内容はじつに深く女というものを語っている。美希は店で教えられたブログを自室に戻って検索し、じつは密かに読み込んでいた。

  智江利はマゾ性が強く、そういったことに憧れを抱いている。弱い自分を罰するような自虐願望も持っていて、そこはちょっとわかる気がした。もちろん画像なんてないテキストブログで、美希にとっては、そういう意味でも気楽に読めるものだった。
  この店に通っていればいつかきっと会えるだろうと思っていて、期待なんてしてなくても店を覗く度に、じつはドキドキしていたのだ。趣は喫茶店ではない。店の前に看板すらなく、まさに隠れ家のようなもの。この店に何度か通っていたものの客がいたためしがない。古書店は夜に入るとマスターは笑っている。アダルトものが売れるそうで置かないわけにはいかないと。

  その日の美希は、スイーツレシピの雑誌を手にカウンターに座った。
 「ミルクティちょうだい」
 「はいよ」
 「だけどさ、マスター」
 「お?」
 「やっぱりヘンだわ、古本屋さんの奥が喫茶室で、なぜか壺なんかも売られてる。いったい何屋よ」
 「ふむ言える。まあシュミだ、しょうがない」
  真木智江利という人が美術書を探しに来たのがはじまりらしい。陶芸家ということで、当時まだがらんとしていた無駄スペースに、それなら置いてみるかということになる。それがまた結構売れると言うのである。
 「売れるんだね、減ってるし?」
 「好きな人って多いんだよ。年配のお客さんなんてそうなんだが、そう高くもないし女流作家だと言うと面白がって買ってくのさ。不揃いな作風がいかにも手作りって感じだろ」

  と話しているところへ、本の並ぶ書棚の隙間をすり抜けるようにして女の客が入ってくる。
 「ども」
 「お、真木ちゃん、おひさ」
 「だよねー、しばらく粘土もみもみしてたから」
  この人が智江利さん・・美希は胸がキュンとした。二つ上の三十二歳だと聞いてはいたが、おそろしく若い。いいや童顔と言うべきなのだろうが、光の加減で赤く見える茶色に染めた肩までのボブヘヤーもよく似合い、夏そのままのプリントTシャツ、ジーンズ地のミニスカート。どちらかと言えば丸顔で目がクリクリ愛らしい。高校生をそのままオトナにした感じ。
  美希はとっさにあのフレーズを思い出す。ブログにあった言葉。
 『愛なんて陶器に似てる。気に入らないとパリンと壊してしまいそう』
  この人には結婚経験がない。どうせたいした女じゃないと思っていたのだったが、男好きする可愛いタイプ。なのになんで? とっさにそう考えたのだ。

  マスターが言う。
 「今日は?」
 「持ってきてる。クルマにあるから後で」
 「お、わかった」
 「わぁぁ、だいぶ売れたねー」
  チラと見ると、そう言えば作品を置いた棚に空きが目立った。
  そして智江利の後ろ姿。お尻の上がった綺麗なライン。ブログで読んだ妖しいシュミが脳裏をよぎり、妙な気分になってくる。
  智江利の作品は、展示しておき売れると二割が店の収入。安いものがほとんどだったが、それでもそれなりの売り上げにはなるらしい。
  智江利は、先客の美希にちょっと笑うと、L字カウンターの短辺にあたる奥側の席に腰掛けた。座るとスカートが上がってしまい、美希の席からだと白い腿の奥までが見えている。

 「真木ちゃん、こちら小沼さん。いまも話してたところでね。いったい何屋なんだよーってさ」
 「うんっ」
  智江利は今度こそ笑って頭を下げた。やさしい感じのいい人だと美希は思う。
 「美希です、よろしく」
 「あらミキさん? あたしマキ。よく似てる」
 「似てる?」
 「キが似てる」
  面白い発想だと美希は思う。真木というなら小沼とくらべてよさそうなものだろう。

 「ブログのことも教えてあるから」・・とマスターが言い、とたんに美希はハラハラしてきた。智江利はちょっとはにかんで、キラキラ輝く眸を向けた。
  美希は言う。
 「じつはファンなんですよ」
 「えー、あたしのブログの?」
 「わかるなぁって感じがするから」
 「そう? だったら嬉しい。妄想は子供のときから。ここへ来たってマスターと二人きりってことが多いから、じつはドキドキなんだから」
  と、マスター。ちょっと意味深に笑って言う。
 「で、コーヒーでいいのかな?」
 「はい、ご主人様・・なんてね。あははは」
  まさかよね? でももしかして・・と考えて、このマスターならあり得ないと思えてしまって可笑しくなる。

  マスターがコーヒーを淹れる姿を見つめながら智江利は言う。
 「だけどマスター、一度だって智江利とは呼んでくれない。マキじゃ嫌なの智江利じゃないと。見つめられて智江利と呼ばれると、あたしどんどん弱くなる。予感だけでそんなことはないんだけどね」
 「そうなの?」
 「そうそう。 あ、美希さんだっけ?」
 「そう美希です」
 「美希さんて何屋さん?」
 「ピアノをね」
 「音楽教室とかで?」
  美希はうなずく。どことなく同じ匂いを持つ智江利。美希はうまくやっていけそうだと感じていた。
 「子供たちに教えてるんだ。あたし音大だったから」
 「あたしダメ。音符見てると精子みたい」
  それをくらべる発想がおもしろい。はじめて聞いた美希だった。
  智江利が言った。
 「今日がお休みだったんだ?」
 「ううん、休みは明日。生徒たちの学校がない日には休めない」
 「あーそうか、なるほどね。 あ、じゃあさ、これから来ない?」
 「どこへ?」
 「あたしん家。あたしって友だちいないから寂しくて。横須賀なんだし、あたしはクルマ。ぴゅっと走れば着いちゃうよ」

  美希は迷った。初対面の智江利だったがソリが合うのと、そんな智江利がどんな環境で生きているのかを知ってみたい。ブログで読んだ深い想いが智江利を他人だとは思わせない。
 「あたしが相手だと何でも話せるよ。 あ、そっか」
 「は?」
 「旦那とか彼とか、いろいろあるか?」
 「それはない、離婚したばっかりなの。私ももう三十路なんだし」
 「あ、うっそぉ? 若いねー」
  言葉の先にいちいち『あ』がつく喋り方。子供みたいでおもしろい。
  このとき美希は、智江利という女がひどく緊張していると感じていた。黙っていると潰されそう。だからいちいち『あ』をつけてごまかしているんだと思うのだった。
  そしてそう思うと、私がなぜ洋子のことを嫌うかが見えてくる。洋子を前にすると、いまの智江利のように、ともかくごまかして喋ろうとしてしまう。だから疲れるし、内心では怖がっているんだと思えてくる。
 「友だちがいないって言うなら私もそうだわ。独りになりたくて東京から越してきた。そろそろ半年になるかな」
 「あ、そうなんだ? じゃあさ、行こうよやっぱり、友だちになれそうだし。古い家にあたし独り。泊まっていいし」

  どうしよう・・そしてマスターに目をやると、ちょっと笑ってうなずいてる。
 『この子って寂しい子だから付き合ってやってくださいよ』・・そんなふうに言われた気がした。
  寂しいというのなら私だって寂しい。美希はそう思い、そしたらいきなり智江利がすごく近くに感じられた。
  学生だったあの頃、若かった洋子に言われた一言がトラウマのように残っていた。『つまらない女よね、そんなんじゃ損するよ』・・男の子たちとの飲み会に誘われたときのこと、当時のボディコンを平気で着られる洋子と違い美希はパンツスタイルだった。その頃すでに彼がいて派手なことはしたくない。内心男たちが怖かった。
  美希は言った。
 「うん行く。部屋すぐそこだからいっぺん帰って着替えてくる。ちょっと待ってて」
  私はどうしてしまったのか・・いつになく行動的だと美希は思いつつ店を出た。

 「智江利」
 「はいご主人様」
 「彼女はおまえのブログを読み込んでる。じつはおまえに会いたくてときどき覗いてくれている。来るとかならずおまえの作品の話をする。残念なことに、あの子は閉じてる。そっと開いてあげなさい」
 「はいご主人様」

  そんな会話は、このときの美希には聞こえていない。