2016年12月02日

FEMDOM 花時計(十話)


十話


 この方はお初さんです。私は一度見た顔はなんとなくでも覚えている。
 ひどい雨。可哀想なほどスーツがびしょ濡れ。カウンターを出た私は乾いたタオルを手渡します。
「これはどうも。はぁぁ参った、お店まだやってます?」
「ええ、今日はもうダメかと思って終わろうとしてたところですけど」
「そうですか、すみません、少し休ませてくれますかね」
「もちろんですわ、どうぞ。大変でしたね、びしょ濡れ」
「まったくです、電車が止まってしまって」
「え?」
「この雨でどこぞの駅が冠水したとか。知りませんでした?」
「はい、いまはじめて」
「うん。隣りの駅まで動いてくれてよかったですよ」
「隣り? そこにお住まい?」
「ここからだと、ちょっとあるけど歩けない距離じゃない。ま、それでいつ動くかわからない電車を降りて、どっかで一杯と思ったけれど、このへん全部閉まってましてね、駅前あたりにはファーストフードしかありませんし。ここの明かりが見えたんです。ほとんどもう閉まってますよ」

 カウンターにお座りになった彼。そばで見ると五十代。なのに精悍な印象で、明らかに若い頃はスポーツを・・引き締まった体型です。
「梅酒あります?」
「は? 梅酒ですか?」
「梅酒です。ははは、僕は酒がだめなので、唯一飲めるのが梅酒なんです。カミさんが梅酒は体にいいからって上手に作ってくれたんですよ」
「まあまあ、それはごちそうさま」
「いやいや、僕はこれからいただきますので」
「えっえっ?」
「じつは飯まだなんですよ、何かできますかね?」
「あ、はい・・うふふ、面白い方。お話がお上手だわ。奥様の梅酒の方が美味しいと思いますけど。それで梅酒はどうやって?」
「ロックで」
「はいはい、ご飯はお魚それともお肉? 焼きおにぎりとお茶漬けぐらいしかできませんが。それとも焼きそばとか? 白いご飯でよろしければありますけれど?」
「目玉焼きは?」
「は? うふふ、はいはいできますよ」
「きざみ海苔は?」
「それもありますけど・・」

 話術が巧み。次の言葉が聞きたくなる。
 そしたら彼、手をぽんとやっておっしゃいます。
「じゃ卵二個で目玉焼き。丼にご飯をよそって、きざみ海苔をのせるでしょ。醤油をちらちら。上に目玉焼きをかぶせて完成。これぞ特製、貧乏丼! あははは! 学生の頃から好きだったヤツですよ」
 面白い。言葉がよどみなくハッキリ言う。
「うふっ・・貧乏丼か。ほほほ! 奥様にも創します?」
「もちろん! 以前はね・・」
「以前は?」
「逝きました。ガンでした」
「・・すみません」
「いえいえ、なんもなんも! あははは!」
 そして彼はお店を見渡し・・。
「それとおかずに何か。煮物とか。ああ、ここカラオケないんですね?」
「お好きなの?」
「とんでもない。ダクレの歌なんぞ聴きたいもんですか、へったくそな音痴ッチ。はははっ」
「ダクレ?」
「ああ、飲んだくれのダクレです。まっぴらごめんのお許しください女王様だ」
「飲む人はお嫌いみたいね?」
「虫酸がすっぱい、口すっぱい。吐き気がしますよ」
「ま・・ふふふ」

「あ、いけね、ここは飲み屋さんか・・あははは! もとい!」
「え?」
「いまの話、嵐がうるさく聞こえなかった。耳だけ閉店してました。あははは!」
 変な人・・頭がキレる・・カンペキ変人。
 でもだから、私はちょっと惹かれていた。

 そして、彼の言う貧乏丼ができあがり、まあ見事にがつがつとたいらげて。それがまた若者の食べ方なんですね。
「しかし、お店としてはお金にならない客ですね」
「いいえ、かまいませんわ、そんなこと。お酒は売るもの、飲むものではありませんから」
「うむ、まったくです。でもママぐらい素敵だと飲まされるでしょ、色目使っていやらしく?」
「ふふふ・・さらりとお上手ね、新手の口説きなのかしら?」
「こりゃ心外、女なんてまっぴらですよ。人生は長くない。愛や恋やはさらに一瞬、ひたすら忍耐、男女関係ってね」
「奥様のことが忘れられない?」

 そしたら彼、ちょっとうつむいて笑うんです。
「はい」
「やっぱり・・」

 そして・・そのときになって私、あることに気づいたんです。
 カウンターです。氷の入った梅酒のグラスに露がつき、それと食べたものの周辺ぐるりと水一滴濡れてはいない。そういう目で見ていると布巾できっちり拭いている。
 性格の綺麗な人・・繊細で鋭くて・・だけど危うい感じがする。

「私は生別ですけど死別だと辛いわね、いいことしか覚えていない」
「ですね。ましてそれが女王様なら」
「女王様って?」 
 このとき私は、客商売にあるまじき目の色で探っていたと思うんです。
「僕は若い頃マゾでした。でもそれは性癖ではなく単にもたれていたいだけの甘えであって、彼女はそんな僕を叩き直してくれたんです。十歳上の女性でした。僕が二十歳、彼女が三十。そんな関係だったんです」
「そうですの・・それでいまはマゾじゃない?」
「行為では違います。それはもういい。でも心だけはMでいたいと思ってますよ。ただし、きっぱりとした女に対してだけ。そこらのちゃっかり女に対してはドSでしょうね、あははは!」

「ふーん・・きっぱり女とちゃっかり女か。わかる気がします。じゃあ女王様は、きっぱり女で厳しかった?」
「逃げ場を一切つくらない人でした。逃げ場だらけの僕でしたから、それは厳しくて、大切なことをたくさん教わり、命がけで惚れたんです」
「お子さまは?」
「いえ、どういうわけかできませんでしたね」
 彼ったら目を細め、奥様を想うような目の色で・・。

「私は? きっぱり? それともちゃっかり?」
 そしたら彼、ちょっと顎を引く素振りを見せて、カウンターに手をついて、中を覗いて足先まで見るような・・面白い眸をして言うんです。
「どうでしょう、確かめるテはありますが」
 穏やかに笑う彼。
「どうやって?」
「包丁持って出てください」
「包丁?」
「いいから包丁。試してみたいんでしょ?」
 私はちょっと挑戦されてる気がしたわ。女としての私に男としての彼が挑んでる。まっすぐ逃げない澄んだ目です。
 それで私、包丁を手にカウンターを出たんです。
 お店で私はそれなりのミニ、白いブラウス。仕事柄、ピンクの花柄ブラがあえて透けるブラウスを着る。

「包丁をカウンターに置いて、そこに立って。僕を見て」
「え? ええ・・」
「僕の心が届けばよし。もしも侮辱されたと思うのでしたら、包丁で僕をお好きなように」
「馬鹿なことを」
「いいからいいから。本気ですよ僕は。悪気があって挑んだりはしませんからね」
 見透かされていると感じました。

 そして目と目が合って、どちらも逃げずに視線が合って、彼の手がそっと下から忍び寄り、スカートの前を上げて入ってきます。
 だけどそのときも彼の目は微笑みをたたえて私の目を見つめたまま逃げようとはしなかった。
 パンティと、それからストッキングの上から、デルタにそっと触れられて、指先が忍び込み、私はなぜか少し脚を開いて受け入れて、かすかにアソコをこすられる。その間も目と目は合ったまま・・。
 
 かすかですが・・ほんのかすかなゾクゾクが全身に伝播して、だけど彼の手がすっと退いていき、私に触れた指先を彼は自分の口許に寄せていって、その指先にキスをする。ずっと私を見つめたままの行為です。

「失礼なことをしました。でも嬉しかった、素敵な人ですママは。嬉しかった。幸せです」
 私は混乱してしまい声も出せない。こんなヤツってはじめてだわ。
「さあ包丁を。どうぞ気の済むようにしてください」
「おちんちんを切るって言っても?」
「はい、約束ですから」
「ふふふ・・うふふっ! 私はきっぱり女かしら?」
「ええ見事に」
「あなたもきっぱり男よね」
「当然です、それが妻の教えですから」

 凄い・・この人に妻の教えと言わせてしまう、その妻はどんな人だったんだろう。泣きべそにとっての私に、私はとても自信が持てない。
 私はちょっと笑ってしまった。
「せっかく持った包丁ですから」
「はい?」
「メロンでも切ってあげますわ。サービスです」
「じゃあ僕はメロメロになりますか? あははは!」

 彼の腕が開かれて、私がすっと流れて寄り添って。
 そっと抱かれ、そしてそっと唇を奪われた・・。

「お休みは?」
「土日と旗日」
「うん。次の土曜、会えませんか。惚れました」

 胸が痛いぐらいの言葉です。
 抱かれるわ・・この人が好きになる。
 予感ではなく、きっぱりとした性の予兆がありました。