2017年01月13日

氷川冷子(一話)


一 話

 私は冷子。主人を亡くした翌月に四十になった。主人の氷川
は七十五で世を去った。くしくも氷の川に冷えた私は嫁いだの。
どれだけ私は冷たいのって可笑しくなるわ。
 短大を終えようとした二十歳の頃、父のやっていた町工場が
倒産しかけた。負債が五千万はあったらしい。そのほか家のロ
ーンなども含めると命と引き替える保険金でもまかなえる額じゃ
ない。
 取引先に氷川という資産家がいたのよね。二度も奥さんと別
れたようなどうしようもない奴よ。私と引き替えに負債分の五千
万、当座の運転資金としてさらに二千万用意する。それでどう
だ?
 私には妹が二人いて、すぐ下が高校を出たばかり、末の妹は
高校一年生。そうするよりしょうがなかった。父親よりも母に泣き
つかれたことがすべてだったわ。大好きだった母でさえ私を捨
てたということです。私が犠牲になれば一家は救われる。

 だけどそれにしたって相手は五十五。いいえ歳なんていいの
よね、愛せる人なら歳の差は気にならない。その歳にしては若
く見えたしハンサムな部類だった。しかしまあ、お金が有り余っ
てて見た目がよければ、ろくなもんじゃないでしょう。あの人はま
さにそんな男だった。子供なんて最初からつくるつもりもなかっ
たし、嫁ぐときこっそり避妊手術を受けていた。
 あの人には先妻二人との間にもちろん子がいて、当時、長男
が二十六、次女が二十四。それに腹違いの三女が十六よ。二
十歳の私がどうやって母親になれますか。
 皮肉そのもの、名前も氷川。それこそ冷え切った二十年だっ
た。七千万で売られた娘。避妊手術を受けて嫁ぐ二十歳の娘
の気持ちがわかる?
 父の工場は持ち直し、それからも度々融資を受けて、都合一
億近いお金を回して不況を乗り切ってきたのです。

 私は帰る実家さえなくしてしまった。父や母には会いたくもな
い。妹たちだって会えないわけではなかったけれど、一緒にい
ても笑えない。あの子たちは幸せな結婚をして子供にも恵まれ
ていた。手術をして、だから子供ができないなんて、私は誰にも
言ってなかった。
 その氷川がとうとう逝ったわ。妻としてしかるべきお金は手にし
ましたが、私は何のために生まれてきたの。氷川が死んで氷川
の家とも縁を切った。この二十年私につきまとったすべてをもの
をデータを削除するように切り捨ててしまいます。離婚すると金
銭的に不利ですから氷川を名乗っているだけなのよ。

 小淵沢の別荘地で廃屋同然だった物件を見つけて移り住ん
だ。ここだってそうだわ。どこかの小金持ちの所有だったものが
長い不況でうち捨てられた。
 でもロケーションは最高。別荘地の中でも自然のままの山に近
く、住んでる人もまばらだわ。都会はもう嫌、人の顔なんて見たく
ない。山の中の小さな家は、私にとって女を生き直す場所だった
のです。
 そしてあるとき買い物で街へ降りた私は、カフェで思ってもい
なかったものを見る。田舎のことですから表紙のむしれたような
古い女性誌が片づけもせず置いてあり、なにげに手に取ったの
です。
 ペットを飼う妻たち・・どこにでもいる普通の女が、じつは男を
飼って君臨している。そしてそれを望むマゾ男が増えているとい
うのです。雑誌は半年ほども前のもの。その頃ちょうど氷川が倒
れ、そう言えば雑誌なんて読んでなかった。

 頬を打たれたような気がしたわ。なんてひどいと思いながらも
息が詰まり、そのときになっていきなり孤独が襲ったの。二十年
もの間の救いがたい孤独です。
 家に戻って早速ネットを見渡した。それまで見たこともなかった
FEMDOMの世界の中にのめり込んでいったのです。
 私はまだ四十よ。女の炎は残っていたし、自由となれたこれか
らこそが人生なんだと思ったとき、心の底から黒い炎がごうごう
と燃え立った。男が憎い。いいえ相手が女でも同じこと。私は母
さえ憎んでいました。
 そうやってもやもやとネットを見ているうちに、世の中の女王た
ちが奴隷を探す掲示板に行き当たる。キイを打つ手が震えまし
たね。

  消えることができるなら 男でも女でも
  小柄なほうが私は好きよ 氷の魔女より

 氷の魔女・・最後にそれをタイプするとき、まさにそうだと思っ
たわ。私は怖い女です。ネットで見たSM的な言葉はどれもがう
まくハマらなかった。そうなのか違うのか、私には、私が何をした
いのかがわからない。
 メールはなかった。一日また一日と過ぎていくほど、メールな
んて来なくてよかったと思い直す。募集した意味が私の中で消
化されて答えとなって見えてきていた。失われた二十年への復
讐です。情や慈愛などは一切持てず、人を一人壊してしまう。
 そんなことにならなくてよかったと思うのですよ。

 一月ほどが過ぎていき、すっきりとした秋空に変わる頃、気持
ちの持ちようが変化したのか、もういいやと思えるようになってい
た。散歩した。近くにゴールデンレトリバーを飼う人がいて、マイ
ク君て犬ですけれど、どういうわけか私に懐き、楽しく遊んで来
たのよね。
 気分を変えて家に戻り、なにげにパソコンに目をやると、メー
ル着信のランプがチカチカ。

  僕のほうにもひとつだけお願いがございます。
  過去のことは訊かないでくださいね。
  本橋行孝、27歳。157センチと、とてもチビです。

 ご機嫌をうかがうような余計なことは書いてなかった。それだけ
にピンと来ましたね。この子は本気。そう思う。
 一度だけメールをやり取りし、そのとき写真貼付で返事が来て、
会うことに決めました。電車で小淵沢まで来るという。四人兄弟
の三男坊。知りたかったのはそれだけでした。彼が消えても彼
の家は困らない。
 その日は土曜日。小淵沢の駅で待ち合わせ、私はクルマの
中から駅を見ていた。電車が着いて駅から人が出てくると、そ
の子は申し合わせた通りの姿で現れた。黒と茶のツートンのナ
ップサックを肩にかけ、上下ジーンズ。髪の毛の中途半端に長
いいまどきの若者です。二十七では若者とは言えないかも知れ
ませんが、こうして外で見ると顔が小さく、チビで痩せ。全景がコ
ンパクトだから学生のようにも思えたわ。
 しばらく様子を見ていると、言葉通り一人で来たようで、道ば
たの縁石に座ってしまう。こちらは女が一人ですからね。用心す
るにこしたことはないでしょう。
 クルマの中から電話して、目の前のカフェを指示します。

「本橋君ね」
「あ・・はい」
 ふふふ、私を一目見て、えって言うような面持ちに。
 白いジーンズミニにジャケットを羽織っただけの普段着であり、
私も背は小さくて、百五十もありません。細身だし、胸は寄せて
上げてBがやっと。童顔で、とても四十には見えなかったことでし
ょう。
 この子ってそばで見ると鼻も口も顔の造作がコンパクト。男の
くせになまっちろく、華奢な印象。向こうもきっと同じことを考えて
いたのでしょうけど。
「はじめまして本橋行孝です、今日はお会いいただきありがとう
ございました」
 礼儀のきっちりできた子です。子供じゃないから当然ですけど。

「私を一目見てどう? イエスかノーかよ?」
「はい」
「お話ししたように無条件でいいのね?」
「はい」
「わかりました。それでいつから?」
「三週間お待ちください」
 丸いというより円らな眸・・こういうことの経験はないと言う。
「約束したように何も訊かない。でもそれはお互いによ。それと
ひとつ、これからのことは私の意のまま。誓えるから今日来たと
思っていいわね?」
 唇を噛んでうなずきます。意思のある面持ちでした。
「私の家、覗いてみたい?」
「いいえ、どうぞよろしくお願いいたします」

 その日はそれでおしまいでした。

 三週間。住むお部屋を引き払い、仕事も辞めて、携帯さえ解
約する。そのぐらいの時間はかかるでしょう。早い方だと思うわ
よ。それだけの覚悟はできている・・いよいよ明日というときにな
って、私はちょっと心が痛んだ。
 でもそれはすぐに消え去り、燃え上がる黒い炎に焼かれてい
たわ。

 平日の火曜日でした。昨日からずっと雨。別荘地のこのへん
は閑散としています。
 このあいだのナップサック、それに大きなスポーツバッグを提
げて現れた。荷物を二つともトランクに入れさせて、クルマをスタ
ートさせました。クルマはダークブラウンのゴルフGTI。このとき
の私はジーンズにジャケット。あの子はライトブラウンのコットン
パンツに、あのときのジージャンを合わせている。
 北へハンドルを切っていく。このあたりは県境が入り組んで山
梨と長野を行ったり来たり。クルマはいよいよ山の中に入って行
きます。

「しばらく見ることのない景色だわ、よく見ておきなさい」
「・・はい女王様」
 前を見て運転していて、女王様というその言葉にちらと横目を
流すと、静かで弱く、それでいて新しい生き方を受け入れようと
する潔い横顔だった。鼻筋は通っていても鼻が小さく、女装させ
ると女の子でもイケそうよ。

 雨で飛ばせない山道を三十分ほど。道はあちらへこちらへ枝
分かれして、あるところから舗装されていない家への道に踏み
込みます。舗装はなくても道はそれほど悪くなく、森の中へと延
びる遊歩道の感覚かしら。木々が茂り、夏の残るいまは下草も
はびこって、クルマはまるで陸の孤島へ走るよう。
「さ、ここよ、降りなさい」
「はい、素敵な別荘です」
「別荘だったのよ。私が一人で住んでるの」
 放置された薄汚れた白い洋館ふうの建物でしたが、外壁を茶
色にし、自然に溶け込むように手直ししていた。このへんには
外灯さえなく、夜になると闇に溶けて窓明かりでしか家があるこ
とがわからない。平屋に見えますが裏手が落ちくぼむ斜面にな
っていて一部二階建てというのがほんとのところ。
 荷物を持たせて家に入れ、すぐさまキッチン続きの板床に正
座をさせます。

 木のチェアを引いて私は座り・・このときは私の眸はもう恐ろし
いほど冷えていたと思うのです。
「行孝だからタカと呼ぶわね。奴隷部屋はそこ。ウオークインク
ローゼットだったところを改造したの。ドアには鍵がかかり、中に
は豆電球があるだけで窓さえなく、もちろんトイレなんてないか
らね。バケツを持ち込んでおきなさい」
「はい女王様」
「それからのことはおまえ次第ですけれど、ひとつ最初に・・」と
言いかけて、お喋りするよりはじめたほうが早いと思う。
「脱ぎなさい」
「はい女王様! 懸命に励みます、厳しく躾てくださいませ」

 恥ずかしいのでしょう、頬を上気させて脱いでいく。色が白い
から女の子みたいに頬が赤らむ。
 華奢な体。胸が薄く乳首が小さく、おなかなんて、少ししかな
い筋肉が浮いている。体毛の薄い子で陰毛も濃くはなく、脚に
も毛がありません。
「小さなペニスね、使い物になったのかしら」
「・・はい、コンプレックスでした」
「ふんっ、おまえみたいな者でも好きなった女がいたんだ? ほ
んと弱そうな男だわ。いいわ、お座り」
 正座をさせると萎えたペニスが股間に隠れてしまうほど。包茎
ではなく亀頭はちゃんと出ていますが、だからよけいに小さく見
える。お尻も小さく子供のようです。情けない姿だわ、男のクセ
に女にかしずく変態マゾ。
 私は早速、用意しておいた手製の首輪を手に首に回す。革
ではなく、小指ほどの太さの黒い綿ロープを三つ編みにしてお
いたもの。首に回し、長さを決めて、針と糸で縫い合わせてしま
うのです。丸い金輪がついていてリードだってつけられます。
「これでもう外せないから。最初はこれで充分よ、いい奴隷に育
ってきたら素敵な首輪に替えてあげます」
「はい!」

 それから・・素っ裸で裏のテラスに連れ出して、ハサミでザクザ
ク髪を切り、カミソリで剃り上げて・・もちろん陰毛も、眉毛までを
も処理してしまい、全身に毛のない化け物にしてやった。体中に
へばりつく毛の残骸をホースの水で吹き飛ばし、ふたたび今度
はテラスのコンクリートに正座をさせた。
「吐きそうな姿だわ、情けない変態男にぴったりよ」
「はい女王様」
 消えそうな顔色です。いい気味だわ。厳しく見据えてやりまし
た。
「言いかけたことだけど、よくお聞きね!」
「はい女王様!」
「髪の毛が肩に届くまで射精なんて一切禁止よ。溜まって漏ら
すのはしょうがない。おまえには快楽なんて一切やらない。寝る
ときもいじれないように後ろ手に縛っておきます!」
「はい女王様・・」
「言いつけにそむいてオナニーなんてしてるところを見つけたら
亀頭を煙草で焼きますからね。一切しないと誓いなさい!」
「はい女王様、一切の快楽は求めません、お誓いいたします」
「よろしい。しばらく食事は一日一度。身分をよく考えて過ごしな
さい」
「はい女王様!」
「わかったらクルマ洗ってらっしゃい。舗装がないから泥だらけ
なのよ。クルマはいつも綺麗にしておくよう。わかったわね」
「はい女王様!」

 すっ飛んで出ていく気味の悪い裸奴隷を、私はもう人間だと
思ってはいなかった。

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