2017年03月12日

絶望の愛(序章~一話)


序章~一話


 夫の不慮の事故が私の何もかもを変えていく。
 恐ろしくも淫らな日々がはじまろうとしています。

 私の夫は西条啓史(けいじ)、三十九歳。
 私とは十歳違いの、やさしくて逞しい人でした。
 建築技師です。大手建設会社に勤め、現場監督として大規模マン
 ションを造っていた。
 鉄パイプで組んだ足場が崩れて九階相当の高さから転落。
 ですけど運良くというのか、ちょうどその下に建築資材の柔らかな
 ゴムシートなんかが積み上げられてあり、多少のクッションとなった
 らしく命だけは取り留めましたが、脳へのダメージは深刻でした。
 きっと生涯歩くこともできず、話すことも普通に考えることもできない。
 いまはまだ集中治療室で人工心肺がなければ生きていけない彼。
 命を取り留めただけでも奇跡だと言われていました。

 東京、府中。夫の実家に住んでいます。
 いまどき7LDKのとんでもない戸建て。駅前の新しい街ではなく、
 駅からかなり離れた緑の中の古い家。家の敷地だけでも二百坪は
 ゆうにあり、その周囲をつつみこむ、まるで里山のような林までが
 西条家の私有地なのです。全体で千坪はあるでしょうか。
 古い家には七十九歳になる義父、正太郎が存命ですが、
 その義父も二年ほど前にくも膜下出血で倒れてからは寝たきりが
 続いている。

 私は西条弓枝、二十九歳。
 夫とは二年の熱愛の末に結ばれて、それから一年。結婚から間も
 なくて子供はまだいませんでした。新婚気分を楽しんでそろそろ
 いいかと思った矢先の夫の事故。恋人時代から寝たきりの義父が
 いることは知っていましたが、その頃は夫の兄の前妻が家に通って
 義父の面倒を看てくれていたんです。
 いまから一年ほど前でしょうか、私たちが結婚するちょうどその頃、
 義兄夫婦は離婚。一人いる娘さんはいま四歳。母親が引き取って
 実家のある静岡に暮らしている。

 夫の兄は、西条康平と言って、夫より五つ上の四十四歳。
 夫と兄の間にもう一人女の子がいたそうですが生まれてすぐ亡く
 なった。それで歳の離れた兄弟となってしまう。
 義兄は、古い家を嫌がって早くから家を出ていた。いまは亡き母と
 いう人が厳し過ぎたようですね。
 康平さんはシナリオライターという職業柄か自由を好み、テレビ界
 にも通じていますから普通の人よりは派手なほう。大学進学を口実
 に家を出たきり実家のことは弟に押しつけて生きてきた人なんです。
 住まいは世田谷のマンションで府中からならそう遠くはないのです
 が、義父が倒れるまではほとんど寄りつかなかった人。

 ですけどその奥さんの弘美さんは穏やかな人で、ときどき実家を
 覗いてくれていた。弘美さんは私の夫より一つ下の三十八歳で、
 十年ほど前に義兄と結婚。それにしては子供が遅く、娘さんは
 四つになったばかり。そんな妻を義兄は捨てたということです。
 離婚の原因は義兄の放蕩だと夫は言います。ふらりと出て行くと
 一月だって帰ってこない。酒好き。そこら中に女がいてひどいもの
 らしいのですが、あんなにいい奥さんと一人しかいない可愛い娘を
 捨ててまで別の女にはしった男。夫は義兄をひどく嫌っていました。

 結婚してすぐ私は西条の家に入った。
 寝たきりになっていた義父のことを夫と二人で守ってきていた。
 だけどその夫までが・・いまはまだ病院ですが、退院したって寝た
 きりでは、私一人では限界がありますからね。
 家は大きい、庭は広い、義父は病気の後遺症でいまだ言葉もおぼ
 つかず、加えて夫がそんなことではやっていけない。

 そんな私の窮状を見かねたのか、義兄は、離婚から一年としない
 うちに再婚した後添いの艶子さんと、義兄のお弟子さんのような
 シナリオライターの卵、沼田留美をよこしてくれたのですが、その
 二人というのが、どちらも普通の人たちではありません。

 女としての本能的な恐怖。それは性的な熱を持つ妖しい眼差し・・。

 いっそ夫が消えてしまえば家を出られたものを。そう考えてしまう
 私自身に自己嫌悪を覚えていた。いまはダメでも奇跡的な回復が
 あるかもしれない。少しでもいいから以前の彼に戻してあげたい。
 生きている主人を捨てるなんて、とても私にはできません。
 愛した主人の子供を残してあげたい。人工授精という手段が残され
 ているはずですから・・。


 スコール。猛烈な雨と夏空が交互にくる狂った空・・六月の末になって雨雲は去り、じとじとする梅雨らしい梅雨もないままに、いよいよ真夏の太陽が照りつけた。

 東京、府中。

 買い物から戻っても、西条弓枝には息をつく暇もなかった。
 いまふうに言うなら7LDKのとんでもない家に、寝たきりとなった義父の正太郎がいる。七十九歳。二年ほど前にくも膜下で倒れ、いまなお言葉もおぼつかない。右半身がまるで動かず、残った左半身も手が少し動くぐらいで脚が動かず、おそらくこのまま回復することはないだろうと言われていた。
 目が離せないというほどでもなかったが、長く家を空けるわけにはいかない。 今日は午後から介護サービスの入浴介助。それまでに済ませてしまおうと午前中に買い物へ出かけた弓枝だった。

 夫の事故から十日ほどが過ぎていた。

 弓枝の夫は西条啓史、三十九歳。大手建設会社の建築技師。
 横浜にあるマンションの建設現場で足場が突風に煽られて崩れ、九階相当の高さから転落。運良く下に積み上げられた資材の上に落ちたことで奇跡的に命は取り留めたものの脳へのダメージは深刻で、生涯寝たきりとなるだろうと言われていた。
 しかし、ちょっと病院に行こうにも横浜では遠すぎて、また、いま行ったところで面会謝絶。十日が過ぎても集中治療室で生命維持装置につながれている。義父の面倒も看なければならず、救急搬送された最初の病院を出られるまでは会えないと思っていた。容態が安定すれば近くの病院に転院させることもできるだろう。

 絶望だった。広すぎる家。年老いた義父は寝たきりで、そのうちには退院して戻ってくる夫との二人の介護。二十九歳の新妻が背負いきれるものではなかった・・のだが。

「お帰りなさい」
「はい、ただいま」
「別に変わった様子はありませんよ」
「そうですか、よかったわ」
「これからずっと家においでですよね?」
「ええ、そのつもりです。今日はもういいわよ、ありがとう」
「いいえ。私も一度出ますが夕方にはまた覗きますから」

 この女、沼田留美と言う。歳は二十七だと言うが、どことなく人慣れした・・はっきり言ってスレた感じ。
 弓枝の夫、啓史の兄はシナリオライター。名を康平と言って四十四歳。いまから一年ほど前、弓枝が結婚したちょうどその頃、前妻と離婚。半年もしないうちに次の妻を迎えていた。
 二人目の妻は艶子と言って元は女優。まさにエロスの塊のような美しい女性なのだが、この留美は、艶子がなぜか目をかけていた女であり、いまでは康平のアシスタントとしてシナリオを学んでいる。
 啓史の事故があって、弓枝一人ではたいへんだろうとよこしてくれていたのだが、弓枝はいい気分はしなかった。

 まつわりつくような性的な眼差し。小柄ながら胸も尻も張った豊かな女体。
 常に女のシルエットを誇るようなスタイルで、今日も下はマイクロミニ。
 あたりまえに生きてきた弓枝からすれば本能的に危険と判断するタイプの女だったからだ。
 それに、実の弟の事故にもかかわらず、兄の康平も、その妻の艶子も一度も実家を覗いていないことにも腹が立つ。その場しのぎに手下を送り込まれたような気分になる。
 留美が出て行き、広い家に一人になると、弓枝はむしろ気が楽だった。留美が兄夫婦とどんな関係なのかはともかくも、他人に入り込まれていては気が抜けない。

 いまどきの東京にはあり得ない7LDKの古い家。西条家はこのあたりの地主であって、明治の頃から受け継ぐ古い家。古いといってもいまふうにリフォームされて暮らしやすくはされていた。
 一階に広いLDKと四部屋。二階に三部屋。加えて一階には三畳ほどの物置き部屋。正確に言うなら8LDKということになる。
 庭も広い。敷地で二百坪はあるだろうし、泉水があって昔は鯉も泳いでいた。
家長の正太郎が倒れてからは次男にあたる啓史が家を継ぎ、面倒だった鯉も処分して、いまでは広い芝生の庭とされていた。
 そんな家の一階、奥の間に、介護用ベッドを入れて正太郎が横たわる。
 買い物を整理すると、弓枝はさっとシャワーを浴びて汗を流し、部屋着に着替えて奥の間を覗いていた。ジーンズミニに白いポロシャツ。まったくの普段着で色気のないスタイルだと思うのだが、正太郎はパンツスタイルだと機嫌がよくない。

「お義父さん、戻りましたよ」
「むぁ・・ふふふ、かぅわいい・・」
 可愛いと言って笑ってくれる。弓枝は、この正太郎が憎めなかった。寝たきりになって言葉もおぼつかず、それだからか、まるで子供に戻ったように純真に笑ってくれる。
「お部屋暑くない?」
「うぬ、だいぞぶ」
「大丈夫? ならいいけど」
 こちらの言うことはわかってくれる。暑くないと首を振り、かろうじて動く左手を差し出して、その手を弓枝が握ってやると安心したように顔がほころぶ。
 背を少し起こした介護用の電動ベッドに横たわり、嫁の手を握って微笑む義父。弓枝は可愛い人だと感じていた。
「おぉしっこ」
「おしっこ? はいはい、ちょっと待ってね」
 医師は導尿管を使えと言うが弓枝がシビンに切り替えた。合理的過ぎる介護では可哀想だと思うからだ。パイプにつながれて生きている夫のようにはさせたくない。

 寝間着をはだけて紙オムツを脱がせると、静かに老いた白い陰毛に埋もれるように穏やかなペニスがある。そっと手をやりつまんでやると、正太郎はうっとりと目を閉じて、そのとき少し動く左手でミニスカートにつつまれた弓枝の尻をそろりと撫でる。
「ぅン、もうっ・・エッチなんだからぁ」
 目を閉じたまま微笑む老爺にいやらしさなどは微塵もなくて、ただただ老い先の歳月を諦めるように撫でている。老いても男なのだと思い、この人は私に女を感じてくれていると実感できる。そんなことが嬉しくてならなかった。
「ンふ・・ゆむえ」
「あははは、ンふって何よぉ、可愛いんだからぁ」
 尻を撫でる手を拒もうとは思わない。寝間着を替えるときなんて、前のめりになったことで触れる乳房に頬を擦りつけてくる子供のような老人を憎む気持ちにはなれなかった。

「留美さんにはやさしくしてもらえなかった?」
 正太郎の眼差しが厳しくなる。
「ううぬ、いらむ、嫌いら」
「いらん? 留美さん嫌いなんだ?」
 それもまた弓枝には嬉しい。他の女では受け付けない。私だけを見ていてくれると思えるから・・。

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