2017年03月12日

絶望の愛(二話)


二 話


 それにしても正太郎は、弓枝が家に入ってからの一年の間にずいぶん話せるようになっていた。最初の頃は声を発するだけで言葉にならず、伝わらない思いに苛立って怒りだしたりしていたもの。
 弓枝は、哀しいまでに老いた白髪頭を撫でてやった。七十九という歳よりも寝たきりの暮らしが老いを進めているようだ。
「ぅぅむ・・たへろ」
「え? 耐えろって言った?」
 正太郎は少し動く頭を上げてうなずいた。長く看ていると不確かな言葉でも通じ合えるようになる。
「ねるっておら」
「狙っている?」
 ふたたびうなずく正太郎。
「この家を?」
 夫の事故から気が動転してそこまで考えてはいなかったし、弓枝にとってそんなことはどうでもよかった。

 そのことについては夫とも話していた。現代の東京に千坪ものまとまった土地を持てば資産価値は計り知れない・・と思うのが当然だろうが、それがちょっと難しいと夫は言った。
 千坪のうちの八割は昔からの里山であり、府中市の保存林に指定されて勝手なことはできなくされていたし、二百坪の家の敷地もその緑の只中にあり、東京の緑化が計画される時代にあって景観保護の観点からも逐一役所に報告しなければならないからだ。処分するとなれば市が買い取ることになるのだろうが、不景気のいま市の懐も豊かではない。

 しかし言われてみれば、あの狡猾な義兄夫婦ならやるだろうと思えてくる。
 義兄の康平は金銭への執着心がないようで相続を放棄していた。もっとも背負ったところで莫大な相続税がのしかかるだけ。切り売りしようとしても難しいなら身を退いたほうが得策だろう。
 そういうことまで実家の一切を弟に押しつけておきながら、旗色が変わったと思えば乗り出してくる。沼田留美などという子飼いの女を送り込んで・・と思ったとき弓枝はハッとした。迂闊に家を空けられない。留守中そこら中を探っているかもしれないからだ。
 家屋敷の権利証や預金通帳まで。それらは義父が倒れてから弓枝の夫が管理していて、弓枝は見たこともなければ置き場所も知らなかった。夫の実家ということで遠慮していたと弓枝は思う。

「そうね・・あの女が何してるかわからないわね」
 ところが正太郎はちょっと微笑んで言う。
「だいじぶ・・」
「大丈夫? どうしてそう言えるの?」
「ぎんこ」
「銀行?」
 そうか、銀行の貸金庫。夫はそこまで考えて大切なものは隠してある。安心して面色の変わった若い嫁に、正太郎は微笑んで言う。
「ゆいごむ」
「遺言? ねえお義父さん、遺言みたいなものが残してあるの?」
「わる・・びんごし・・」
「弁護士さんに預けてあるのね?」
 正太郎はうなずいて、穏やかだった眸を少し厳しくして言うのだった。
「こうへには・・やらん・・ゆるへん・・」
 康平にはやらん・・許せん。
「うみえは・・かぁいい・・すまむな・・」
 弓枝は可愛い・・苦労をかけてすまんと言っている。

 弓枝は涙の出る想いがした。結婚して家に入ったとき、正太郎は体がダメで言葉もダメ。最初のうちは知能もダメだと思っていたのだったが、頭そのものははっきりしていた。時とともに理解できるようになっている。
 それが嬉しい。私のすることをちゃんとわかっていてくれる。
「お義父さん、嬉しいよ私、啓史さんの嫁だってわかっててくれたんだね」
 正太郎はまたうなずいて言う。
「いいよむはんだ・・あらがと・・」
「お義父さん・・私の方こそ」
 いい嫁だ、ありがとう。このときの弓枝にとって何ものにも代えがたい理解者だった。夫がもし脳機能を失えば、この義父だけが頼りだと考えた。
 ところが正太郎は、またしても考えてもみなかったことを言う。

「もしものろき・・」
「うん? もしものとき、どうするの?」
「ひろむを・・たよら・・」
「ひろむ? 弘美さんを頼ればいいのね? 前の奥さんの弘美さんでしょ?」
 正太郎はうなずいた。長男の康平の前妻である。
「ひろむには・・べつのゆいごむ・・わらしてあろ」
「別の遺言を渡してあるの?」
「いいよめらった・・こうへのばかやろむ・・」
 いい嫁だった・・康平の馬鹿野郎・・。
 力強い言葉だ。それもまた弓枝にとっては救いだった。
 正太郎が生きているうちはいい。夫が死ななければいい。もしも両方を失えば独りで家を守っていかなければならなくなる。
 弓枝はできるだけ早く弘美に会っておこうと考えたのだが、相手が静岡ではこちらからは動けない。夫との恋人時代に何度か会ったことはある。穏やかでやさしい女性だ。

「ねえお義父さん、電話番号わかる? 弘美さんの電話よ?」
「むぅ・・そこら・・」
 古い家の奥の八畳には、古い整理箪笥、昔ながらの文机、そして亡き義母の三面鏡と古いものが置かれてあった。いくら留美でも、当人の前で家捜しするような真似はできないに違いない。
 正太郎は桐でできて木が黒く錆びてしまった整理ダンスへと視線をなげた。
「しらのひきらし」
「下の引き出しね?」
「てとうがあろ」
「手帳?」
 湿気を含んで動きにくい引き出しを開けると、きちんとたたまれた古い服の間に黒皮の長手帳がはさまるように置かれていた。
「これ?」
 正太郎はうなずく。
 ぱらぱらとめくっていくと、紙の黄ばんだ古い手帳から白く小さな紙がはらりと落ちた。まだ新しい紙だった。
 吉村弘美。あった、これだ。

 正太郎の前で即座に携帯を取って電話する。
 吉村弘美は、弓枝の夫より一つ歳下の三十八歳。二十九歳で康平と結婚するまでは大学病院に付属する薬局に勤めた薬剤師だったのだが、結婚して仕事を辞め、離婚してからは静岡は沼津にある実家の食堂を手伝っていた。
 電話の相手先の番号は食堂で、弘美が電話を受けたのだった。
「・・お義父さんがそうおっしゃられるのね?」
「そうなんです、いま義父のそばで喋ってます。じつは主人が事故で・・」
 事情を話すと弘美はひどく驚いたようだった。離婚した夫の弟なのだから当然だろうが、弘美は何も知らされてはいなかった。
「あの人たちならやりかねない、そういう人たちだから。ええ、確かに預かってますし弁護士さんのことも聞いてますから。そういうことなら、いまこんなことを言うのは気が引けますが、私にも遺産を少し分けると言ってくれて・・じつはすでに孫のためにってお金をいただいているんですよ」
 弓枝は携帯を耳にあてながら正太郎へと目をやった。携帯から声が漏れている。正太郎は微笑んだ。
「いまお義父さん笑ってます」
「ふふふ、ええ、わかりました、何かあれば連絡してね、私にできることはしますから」
 目の前が明るくなった気分がする。

 正太郎に軽く昼食を食べさせて、介護サービスがやってきて週に二度の入浴介助。さっぱりした正太郎は、今日はとりわけ顔色もよかった。七十九歳でぴんぴんしている人はいくらでもいる。脳機能さえ少しでも良くなれば正太郎は元気になってくれるはず。
 弓枝は介護用のベッドの背を倒して体をまっすぐ寝かせると、ベッドの左側に膝をついて、正太郎の体のすぐ横に頬を添えた。
 かろうじて動く左手も一年前よりはるかにしっかり動いてくれる。寝たきりの生活で骨の浮き立つ細い手がゆっくり動いて弓枝の頬を撫でている。
「お義父さん、心強いわ。啓史さんがもしって考えると、独りでどうしていいのかわからない。元気になってね、きっと」
「うむ、わしは死なむ」
 正太郎は穏やかに微笑んで、若い嫁の頬の感触を楽しむようにうっとりと目を閉じた。
「寝ちゃった?」
 返事がない。弓枝は年老いた子供のような義父にたまらない慕情を覚えた。枯れた手をそっと握ってTシャツの胸に引き寄せる。ブラの上から押しつけてみたのだったが指は少しも動かなかった。

「ごめんなさい、お義父さん、お荷物扱いする心がどこかにありました・・ごめんなさい・・」
 枯れ葉のような手をそっとベッドに置いてやり、薄いタオルケットをかけて部屋を出た。

 義兄の康平は、弟がいるから家には関わらない。父親がこんなで弟までがそうなれば・・つまりは小娘の嫁が一人。どうにでもなると思っているのだろう。
 沼田留美をよこすと聞いて、とりあえずほっとした自分が馬鹿だった。明らかに普通の人じゃない。人慣れしている。スレた感じは隠せない。
 弓枝はそれまで義兄夫婦の暮らしぶりなど無関係なこととして夫を通じて聞かされていただけだった。
 後妻の艶子という女・・義兄の弟子としてシナリオを学んでいるという沼田留美・・そしてもちろん義兄そのものもどういう人なのかよくは知らない。
 強い夫に守られていたことを痛感する。もしもいま独りになったら、この家にどこから手をつけていいかもわからない。そういう意味でも義兄の前妻と接点ができたことは大きかった。

 しかし、その夜。弓枝の運命を決める出来事が起こるのだった。

 夕刻になって古い家をつつむような緑の里山に薄闇が忍び寄る頃、沼田留美と、そして康平の後妻、艶子が二人してやってくる。
 留美は午前中のミニスカート姿とはうって変わった淡いブルーのショートドレス。しばらくぶりに見る艶子のほうは白いパンツスタイルだったが、金糸の刺繍も鮮やかなピンクのTシャツで、さすが元芸能人といったムード。しかも一見して格差のある態度・・若い留美を人形のように扱っていると弓枝は感じた。
 性的に躾けられた人形・・二人はレズ? どうしてそう感じるのか、そうとしか思えなかった。
 正太郎や弘美と話していたことで、どうしてもよそよそしくなってしまう。結婚したとき新しくした白いダイニングテーブルに紅茶を出して、弓枝は二人に立ち向かう。警戒する。弱みは見せられないと内心思った。

 なのになぜかドキドキする。性的な緊張だと自覚した。

 弓枝は女優だった頃の艶子を知らなかったが、さすがに垢抜けて、それでなくても美しい姿が次元の違う女性美に思えてくる。艶子はまだ三十二歳と若く、気品にあふれているといった感じ。背丈は百五十センチ台と小柄だったが、それだけに女らしくてクラクラするほど。やや赤い不思議な茶色に染めた長い髪。タイトフットの白いパンツがヒップラインを強調していて、胸元に金糸で刺繍の施された薄いシャツにレースの白いブラが透けている。
 魅入られるほど美しいとしか言えなかった。

 そしてまた沼田留美だ。午前中の留美には嫌なものを感じたが、艶子の前で留美は静か。あらためて見ると、こちらもまた美しい部類に入るだろう。艶子よりも背が高いのに小さく見える。艶子に可愛がられていることが一目で見抜けるほど、艶子の前で留美は可愛い女性になっている。淡いブルーのショートドレスも、タイトフィットでありながら嫌味はなく、一瞬にして弓枝は、布地に下着のラインがないことに気づいていた。
 二人揃って映画から抜け出たような洗練されたムード。しかしだから弓枝は構えてしまう。住む世界が違いすぎる。私だけではとても勝てないと弱気になる。

 艶子が言った。鈴が転がるような綺麗な声だ。
「ねえ弓枝さん」
「あ、はい?」
 艶子はテーブルに手をついて、ちょっと身を乗り出して、弓枝の二つの眸をまっすぐ見つめた。その手が真っ白で、爪もピンクに整えられて綺麗だった。
「誤解しないでね」
「誤解って?」
 見つめられることが恐ろしく、弓枝は傍らに座る留美へと横目をやった。留美もまた穏やかに微笑んでいる。
 艶子は静かな声で言うのだった。
「主人は主人なりに、私には私なりに、いろいろあった二人が一緒になった。お金じゃないのよ。この家をどうしようなんて思っていない。相続がどうのなんて面倒はごめんだわ。主人は長男なのよ。啓史さんがこんなことになって心配するのは当然でしょ。私たちだって家族です。若い頃からいろいろあって女独りの孤独がどういうものかは嫌というほど知っている。心配なのよ、あなたのことが。可哀想に若いのにこんなことになっちゃって・・それでね、主人とも話したんですけど、ここに住もうと思ってるの。主人はほら、お義父さんとよろしくないようだから世田谷の家にいるけれど、近いんだし、私と留美はここでもいいかなって思うのね」
 同居するということか。
「・・留美さんも一緒にですか?」
「あら、いけない? こう見えても留美はいい子よ。ずっと前から知っていて私が主人に紹介したの、シナリオやりたいって言うからさ。うまく言えないけど留美がいてくれないと私が困るの。寂しくなっちゃう。ここはお部屋がいくつもあるんだから一つぐらい使わせてくれてもいいんじゃない」

 寒気がはしる。ゾクゾクするほど美しい艶子に迫られては拒めなくなっていく。
 夫の康平は確かに長男だし、他人が聞けば当然のことだと思うだろう。

 艶子はちょっと笑って言った。
「それとも・・私たちがいては邪魔かしら? この家を乗っ取ろうとか、悪気があって乗り込んできたと思ってるでしょ?」
「いえ、まさかそんな」
 面と向かって言えるはずもない。
「じゃあ信じていただける? そうなさい、悪いことは言わないから。大変なのはこれからよ、お義父さんに加えて啓史さんが戻ってくる。あなた一人では厳しいわ。私を姉だと思ってちょうだい。長男の嫁なのよ私は」

 それ言われると返す言葉が探せない。弓枝は、自分でも理解に苦しむ性的な震えを覚え、うなずいているしかなかった・・。

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