2016年11月14日

螺旋の舌(一話)

一 話


 あのことが私を不幸にしたわけではなかった。それどころか、男に対して早い時期に醒めた目を持つことができたから、暴走することなくいい結婚ができた気がする。
 あんなこと忘れられるはずがない。忘れようとも思わないし、むしろ処女だった頃の記憶として体験そのものはほんのり胸に残っている。
 私はいまアラフォーと言われる歳になり、一人いる娘が、ちょうどあの頃の私の歳になっている。娘というものは子供からいつか女へと変身し、母親をライバル視するようになるのかもしれない。母親の私だって娘のことは女だと思っている。男性をめぐって争うライバルではなく、女対女の探り合いのようなものなのでしょう。

 そんなことはいい。母と娘のどこにでもある姿。それより私は、娘があのときの私の歳になったことで、私自身の衝撃的な体験が昨日のことのように蘇り、娘の体に私の想いを重ねて、身も火照る想いがしていた。
 あの場所のことなんてほとんど覚えていないけど、赤く塗られた螺旋階段の映像だけは消えていかない。あのとき私はその階段の先にあった狂った色彩を一目見て、ここに集まる人々は狂っているに違いないと考えた・・。

「お父さん大丈夫なの。もう若くないんだから」
「なあに平気平気、明後日には戻るから」
 七十歳になる父。名を誠一と言いますが、月に一度こうして山の仲間と出かけていきます。男三人女五人の山のサークルをやっている。十年ほど前、一緒にはじめた友だちの一人が亡くなっているというのに父ときたらピンピンしている。七十なんて、ものすごく遠い別世界のように思いますが、自分が四十になってみると、父は若い頃と何も変わっていなんだと気づかされる。私だってそうなんだし。こちらの目が変わらなくても相手の見る目が変化していく。加齢とはそういうものだと思うんですね。
 男の数より女の数が二人も多い。山といってもハイキングの延長で、行けば山小屋に一泊してきます。いったい何をしてるのやらと考えると、やんちゃな小僧を見るようで父が可愛くてなりません。

 私は藤倉流美(るみ)。いまは旧姓に戻っています。昭和四十年生まれで四十歳。それが私。
 夫と別れて娘を引き取り、私の母を亡くした父が不憫でならず一緒に暮らすようになっていた。父は定年までの年月を小学校の教師として生きてきた。六十歳で定年となるその年に私の母を病気で失い、またちょうどそのときに、私より五つ上だった夫と離婚。けれど夫に対してはいい思い出しか残っていない。夫は写真家。作品づくりのためカナダに住みたがり、私は独りぽっちの父を残してとてもついて行けなかった。それだけの離婚です。

 そんなことで、いま振り返るといい結婚だったと思えるのかも知れません。当時五歳だった娘の小絵(さえ)を連れて父のいる実家に戻った。若い頃厳しかった父も定年で教師ではなく、小絵に対してデレデレですから、それもあって私に厳しく言わないものだと思っている。可愛い孫に言い争うところを見せたくはありません。
 小絵はいま十五歳、じきに十六となる歳です。162センチの私より2センチ背が高くなり、お風呂のときチラと見ると、素敵な女性の体に育ってくれた。
 私だってあの頃はいい体をしていたわ・・それだから、あのときの螺旋階段が思い出されてしまうのです。

 いまから二十五年ほど前・・私はちょうどいまの小絵の歳で十五から十六への狭間でした。その頃の父は教師という仕事柄もあってか厳しすぎ、私も私で反抗期・・というより、あんな父では誰だって反抗する。ちょっとスカートが短いだけでガミガミですから、たまったものではありません。
 グレてやる・・とは思いながら、まあちょっとワルだった時期もありますが普通に育ってきたつもりです。

 あの出来事を除いては・・。


「これは・・この部屋は何だ・・」
「狂ってますね・・」
 品川のビルの谷間に取り残された小さな倉庫。そこは戦後間もなく造られて、すぐそばが海だった。当然、海運のための倉庫として造られたものだったが、埋め立てが進み陸に取り残されるカタチとなる。周囲に近代的なビルが建ち、結果としてできあがった時代の遺産のようなもの。

 昭和五十六年、春のことだった。ビルの谷間の古い倉庫は持ち主が頑として手放さず、陸運のための小物の倉庫へと変化していた。
 上下二層の造りなのだが、それもおかしい。一階は天井が高く、ごく普通の倉庫であって中二階に管理室が設けられる。しかしなぜか、一階の奥に鍵のかかるドアで仕切られたスペースがあり、そこには血の赤に塗られた螺旋階段。地下へと降りるものだったが、降りた先に一階の半分ほどの広さのコンクリートの空間が広がって、その色彩が狂っている。
 血の赤、鮮やかな青、黄色、黒、毒々しい緑・・と、さながら絵の具をぶちまけたような壁・・天井・・床。ともかく、色の幾何学模様に迷い込んだような不思議な世界。前衛アートなのかも知れなかったが、いったいいつ頃できたものなのか。当時としては、まさに狂った感覚だった。

 その空間に、それもまた、黒、赤、黄色、三色の妙なパイプ椅子が並べて置かれ、それとは別にクッションのついた切り株のような丸椅子がいくつもある。
 パイプ椅子は椅子なのかどうかもわからない。ジャングルジムの一部分を切り取って、座面に白い化粧板が置かれている。その板がなければ、鉄パイプを組み合わせたオブジェのようにしか見えなかったことだろう。
 何らかの集まりのための空間であることは明白だった。
 そしてそんな場所で一人の老人が倒れ、救急車が出動した。

 ところが・・救急隊員は、そのあまりの異様さに悪魔的な匂いを感じて警察に通報した。
 倒れた老人は心臓麻痺で結局死んだのだったが、吐血しているわけでもなさそうなのに歯茎に血がこびりつく。さらに部屋の床のあちこちに、老人のアクシデントがあって慌てて掃除したのだろうが掃除し切れず、おびただしい精液と、飛び散った血液が見てとれた。救急隊員がそんな異常を見逃すはずもなく通報されたというわけだ。

「ほう・・この倉庫は借りているだけで事情は知らない? 地下はもともと別の誰かに貸していて、あなたはドアの鍵も持っていないというわけですな? その誰かの出入りを条件としてここを借りたということで?」
 倉庫の借り主はでっぷり肥えた中年男。倉庫は借り受けたものだった。持ち主の老人は生きてはいたが老人ホームに暮らしていて、ここしばらく出ていない。息子夫婦はイギリス在住の外交官で近々の帰国はなかった。
 倉庫には裏口があって鍵は共有とされていた。地下への螺旋階段がある区画へのドアの鍵だけが別管理だったということだ。
 しかしこの当時、監視カメラなどは行き渡っておらず、倉庫も古く裏口はビルとの隙間ということで、出入りを追う手がかりは得られない。

 鑑識の結果はすぐに出た。
「血は経血・・歯茎にこびりついた血も胃から検出された血も、つまりは生理の血だった・・胃からは女性のものらしき陰毛まで・・それも血は三種類の血液型。男性の体液のほうも、とても一人のものとは思えない・・おそらく数人・・」
 担当の梶村警部補は、当然ながら性犯罪を疑った。
 梶村とともに最初に踏み込んだのは、大学を終えて刑事課に配属されて間もない二十三歳の女性巡査、安本朋子。
 刑事課へやってきた鑑識の女性が去ってから、梶谷と安本は目を見合わせて沈黙した。
 若い安本は、おおよそを察してちょっと恥ずかしい。生理の血が陰毛とともに胃の中から検出された・・床に飛び散った多くの男性の体液・・あの場で何があったかは想像できる。

「しかし係長、老人の死因はあくまで心臓麻痺であり、他に死体が出たということでもなくて、さらに訴えとか被害届のようなものも出ていませんし・・」
「うむ、そうなんだよ。事件なのか、いわゆる変態どもが集まっていただけなのか・・ふふふ、わからん。どうすりゃいいのさ、この私・・けっ。おまえに任せる」
「えー、そんなぁ!」
 安本は困った。こんなことでは捜査にならない。と言って通報があったからには動かないわけにはいかない。

 倉庫の裏口のある路地は、古い街と新しい街の狭間であって、ちょうどいい抜け道として使われている。周辺を聞き込んだところで都会の路地は人通りが多く、他人のことには干渉しない。深夜ともなれば死角となって目撃者などいるはずもないことだった。
 しばらく張り付いてみたものの収穫はなく、相変わらず訴えもなく、どこかで死体が出た知らせもない。言ってみれば事件によく似た性的な何か・・それきり尻すぼみで消えていったことだった。


 私がその女性を見かけたのはプールでした。娘の魅力的なヌードを見ているうちに私もどうにかしないとと思うようになっていた。
 肥ってはいませんがタルんでることは確か。それで近くのスポーツ施設にあったプールに目をつけた。泳げるつもりでいたのですが、水着になるなんて何年ぶりのことでしょう。施設のスタッフは男性も女性もほとんどが若者で水着姿を見られることが恥ずかしい。
 あーあ、いつの間にかこんなになっちゃって・・というのが正直なところ。ちょっと泳ぐと筋肉痛で立つのも辛い。
 奮起しました。ウチの娘を目指して頑張るぞって。

 ですけどそこで、私は心の置き所というのか、自分の心が微妙に変化していることに気づいたんです。女は人前で肌を露出するといやおうなく性を意識する。夫と別れて十年あまり、そう言えば男性には目もくれずに生きていた。仕事でもすればよかったのでしょうが、父の退職金と母の生命保険とで働かなくてもやってこれた。私は娘を立派な女性に育ててやりたく、娘のことばかりを見つめてきたの。
 その小絵も高校生。パンティだってかなりなエロだし、下手に口を出すと言い負かされてしまいます。
 そろそろいいわ、私の人生を見つめ直そうと思ったときに、真っ先にタルんだヌードが気になった。もう一度恋ぐらいしてみたい。母親から女へと心がシフトしていたようなんですね。

 栗原朋子。私より七つ上の四十七歳らしいのですが、とてもそんなふうには見えません。背は低くて小柄でも乳房は張って、くびれてボン・・小悪魔的な肢体を持つ素敵な女性。色が白くて綺麗な方で、息子さんはすでにお嫁さんをもらっている。
 栗色に染めた長い髪。ジーンズでも穿いていれば、後ろからなら学生に見えるほどスタイルがいい。羨望です。あたしもそうなりたいと思ったわ。
 プールサイドを歩く彼女を私が見つけた。どきりとするほどハイレッグな競泳水着がよく似合い、女を誇るように堂々と歩いている。泳ぎが上手で見とれてしまった。彼女とはすぐに仲良くなりました。出会ったその日にお茶して帰った。

「高校大学と剣道で一応二段。泳ぎは警察学校だった頃に覚えたの」
「警察学校?」
「こう見えても刑事だった。もっとも五年ほどでしたけどね」
「結婚して辞めた?」
「そう、できちゃった婚だったしね、あははは!」
 屈託なく、明るく、奔放・・そんな彼女のイメージと職業が微妙に合わない。
「性格を改造したの」
「どういうこと?」
「嫌なものをいっぱい見てきた。人の裏側・・腐った死体も見たくない、吐きそうだったし・・」
「・・うん、それはそうかも」
「それまでの私はクソ真面目でつまらない女だった。空回りする正義感だけで生きていたようなもの。仕事を辞めたのも、そんな自分に嫌気がさしていたからよ。のびのび生きよう、こんなになったらおしまいだって・・殺されて埋められた白骨死体を見て思ったわ。そのとき素敵な彼がいて避妊せずにやっちゃった。ははは、それでいまの私がある」

 想像できます。普通の人が目を背けて済むものを、彼女はたくさん見せつけられてきたはずで・・。

「だけどアレね、流れる美で流美っていい名」
「そうかしら・・いまの私は、美が流れて消えちゃった」
「あっはっは! オモロイ! あなた好き! あっはっは!」
「・・そんなに笑わないでよ・・ふふふ」
 どんどん惹かれていく感じ。七つ上でこの美貌。女の先輩として尊敬できる生き方だと思ったし。

 またたく間に三ヶ月が過ぎていき、私は朋子と一泊の旅に出た。朋子流美と呼び合う仲になっていた。彼女のクルマで北陸は能登の温泉へ。いつもいつも父ばかりが泊まりがけで遊んでいます。
 女同士二人の旅なんて、考えてみればなかった気がする。行くなら大勢でわーっと出かける。大人が二人のしっとりとした旅。朋子は奔放でもレズではなかったし、ほんと普通の旅でした。
 温泉旅館に入ってのんびり。そんなとき朋子は言ったわ。

「流美って、ちょっと可哀想よね」
「あら何が?」
「言っていいのかどうか・・だってエッチないでしょう? オナニーでごまかしてる?」
 いきなりの直球。いつかそんな話になると思っていました。
「・・娘のことで精一杯よ」
「わかる。そうだと思うわ」
「そう言う朋子は?」
「滅多にないね・・旦那とは終わったよ。だって息子が結婚していないのよ。その歳になってニャンコしてたら気色悪いでしょ。女ってそんなものよ。だけど私は光ってる。あははは!」
 まさか不倫・・?

「違う違う、そうじゃない。いまさら決まった男なんてめんどくさいだけだもん。よかったら一度おいで。目からウロコなんだから」
 流美は息が苦しくなった。二十五年前のあの体験が、くっきり焦点を結んで蘇ってきたからだ。

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