2016年11月15日

首なしの家(一話)


一 話


 九月初旬の木曜日。
 三木加奈江は、オフィスを定時よりも早く出て一旦世田谷にある自宅マンションに戻ってから、社用車ではない自分のクルマで熱海の実家を目指していた。 世田谷と熱海。距離はそれほどなくても東京で仕事を持つと、そう度々は帰れない。明日の相手先は中伊豆にある作家の家。その前夜に実家に泊まったほうが動きやすいし相手先に長くいられる。状況によっては週末をそのまま実家で過ごしてもいいと思っていた。

 加奈江は二十五歳。大学を出て大手出版社に入ったのだが、志望した編集部とは違う販売関連のセクションへ配属されてしまい、一年ほどで退社。次が決まらず、さらに一年のフリーター暮らしを経て中堅出版社に中途採用されたのだったが、その出版社というのが、一般向けより、いわゆるアダルト。官能小説にも力を入れていて、まずはそこからということで、ともかく編集部に配属された。最初の頃はアダルト情報誌の編集ばかりだったのだが、この九月の移動で小説本を専門に扱うセクションに配置換え。女性スタッフの二人が結婚で退社してしまい手が足りなくなったからだ。
 作家は都会にいるとは限らない。伊豆静岡方面を担当させるとき熱海に実家があればホテル代を節約できるということだ。本を読まない。読んだとしても紙の本より電子書籍。出版社はどこも苦しい。

 夜の東名高速。厚木から小田原を経て熱海へ抜ける知り尽くしたルートだったが、加奈江は実家が近づくにつれて鼓動の乱れを意識していた。
 明日訪ねる相手が思春期の頃から読み耽った作家。まさか会えるなんて思っていない。嬉しいのと怖いのと、胸騒ぎにも似た妙な感じ。それが性的な緊張が引き起こす女体の変化だと自覚していた。どんな人なのか想像するだけで鳥肌が立ちそうだった。

 ペンネーム、謙傲常美(けんごう・つねみ)。六十代であると言う。

 謙傲は、官能畑を幅ひろく書く男だったが、そのままエロ小説というわけではなかった。時代劇、ホラー、SFトーンと、一風変わったものばかり。そしてその中に必ずと言っていいほど女を責めるシーンが登場する。そのくせSM小説は書かないし、たいだいあたりまえの現代小説がほとんどない。
 加奈江が最初に読んだのはバージンだった中学生の頃。『宇宙エッチにメロメロだもん』というふざけたタイトル。そこらの主婦が、ふと出会った宇宙人と不倫する。宇宙空間にネオンが輝く無重力ラブホでは体位フリー。笑ってしまうアクロバティック・セックス。しかも相手はペニスが七本ある宇宙人。ほとんど拷問のようなセックスに夢中になった人妻は、人間男子のつまらなさを思い知る・・といったようなストーリーなのだが、そこには男女の愛への問題提起や、深い人間愛が含まれていて、笑っているうちに泣けてくる、そんなような作風が好きになる。

 謙傲は『僕はSだ』と公言していて、伊豆静岡への担当が決まった一週間ほど前、キュンとする作家の素顔を聞かされた。
「牝犬を飼っている?」
 相手はでっぷり肥えた編集長。加奈江は呆然と立ち尽くす。
「まあ、はっきり言えば性奴隷だね。マジでサディスト。中伊豆の山の中にひっそり暮らし、若い女を調教している。それもあって彼の担当になりたがらないということだが、担当が男では追い返される」
 聞かされたのはそこまでだった。
 普通の女性なら近づきたくない。しかしあの謙傲のこと。彼なりの想いがあってのことだろうと考えると、ますます知ってみたくなる。
 加奈江がなぜ謙傲に惹かれるのか。作品の中に必ず出てくる裸女を責めるシーン。中学生だったあの頃から加奈江は自分の中にはM女がいると思っていたし、謙傲の本を読むほどに女心が濡れてくるのを感じていた。恋人ができても物足りなく感じるのはそこだろう。けれどもそれは、そんな気がするというだけでSMそのものへの興味ではないのかもしれなかった。

 久びさの実家。しかし加奈江は、あれほど読み耽った物語の作者がすぐそばにいると思うと興奮して落ち着けない。しかも性奴隷を飼っている。明日訪ねたときに、その奴隷がどんなスタイルで現れるのか・・妄想が妄想を連れてきて深夜になっても眠れなかった。
 謙傲が指定する条件も面白い。かしこまった姿で来るな。下着はちゃんと着けて来い。言われなくてもそうするわ・・考えただけで笑ってしまう。
「バリラ様か・・ふふふ・・ダメだ眠れない・・」
 バリラ様という宇宙の王子。地球では人の姿を借りていて、宇宙に出るとペニスが七本あるセックス魔神に化身する・・こんな台詞を覚えていた。
『一度の射精で10cc、だが一本あたり100ccのストックがあり使い切るまで勃起は萎えない。それの×7ということでよろしく頼む、わっはっは!』
 よろしく頼むと言われても・・そんなん死んじゃうよっ!
 笑い転げて読んでいて、瀕死のアクメに倒れた人妻が可哀想で可愛くて・・。
「はあ? どうしたんだよ、あたし・・」
 中学生の加奈江。白い綿の子供のパンツが濡れていた。
 女ってこうなるんだ・・濡れるという現象を思い知った瞬間だった。

 翌日の加奈江は、一度ジーンズを穿き込んだのだったが、なぜか思い直してジーンズ地のミニスカートに穿き替えた。どうしてだかはわからない。中性的なスタイルより女として見て欲しいと思ったのか。運転席に座るとスカートが上がって赤いデルタまでもが見えそうだった。下着もまた不思議だった。誘うような真紅のブラパン。クルマに乗ってすぐ激しい後悔に襲われた。
 本物のサディスト・・私は謙傲に認められたくてたまらないの? そんな馬鹿なことってある?
 性ホルモンが暴れるようなトキメキを感じていると加奈江は思った。
 中伊豆の温泉街を抜けて山へと入る。山といっても高山ではない。鬱蒼とした森に磯風が混じるような空気感。空は抜けるように青かったし、その家が近づいても淫らな声は聞こえない。夏の名残りの伊豆山中はすがすがしい。

 昭和の初期にできた家。山に暮らした年寄りがいなくなり廃屋となっていた家と土地を譲り受け、いまでは仙人のように暮らしている。原稿はいまだに手書きで、欲しければ取りに来いと言うタイプ。
「ただし気をつけてね、最初の印象がすべての人なんだから。嫌われたらおしまいよ」
 仲間の言葉が思い出された。怖くはない。怖い人ではないらしいが、審美眼というのか、心の中を覗かれてしまうと聞かされた。それもあってスカートを選んだのかも知れなかった。若い女性なんです、どうかお手柔らかに・・そういうことなんだろうと加奈江は思う。
「にしても短すぎか・・失敗したかも・・」
 なだらかな登り斜面で森を縫う道筋を行くと、あるところで舗装が途切れ、ぺんぺん草が生えたような道になる。行き止まりが謙傲の棲み家であり対向車はまずないだろう。すれ違えない林道。コンパクトカーがやっと通れる道だった。

 見えた・・古いトタン屋根、家の前には少しの畑と、敷地の周囲をぐるりと背の高い竹垣に囲まれて、背後は威圧するほどの竹林。畑のさらに手前に駐車場というのか草っ原があり、古いジムニーが置いてある。幌屋根のモデルで色は黄色。その横へクルマを滑らせてエンジンを止めた。
 音が消えると森の静寂。野鳥が濃く、そこらじゅうで声がする。
 さながら緑の海の浮島のような家。ここは時代がズレていると感じてしまう。
 十メートルほどの農道を歩く。昭和初期そのままの道。スニーカーで来てよかった。こんなところにオフィスレディはミスマッチ。家の前の畑には菜っ葉ができて、人はいない。
 背丈よりも高い竹垣の欠損から踏み込むと、そこでようやく家の全景が見えてくる。平屋。古い農家の造り。八十年ちかくを生き延びた森の家。傾きを丸太をつっかえて支えている・・つまりは廃墟をちょっと直して棲んでいる。
 家の横に風呂小屋が別にあり、薪が積まれ、それとは別にプロパンガスの大きなボンベがダブルであって、細い電柱から電気だけは来ているようだ。水は井戸なんだろう。家の奥から電動ポンプの音がする。

「来たか」
「きゃあっ!」

 あまりの景色に見とれていて気配をまるで感じなかった。夏の下草が薄くひろがり足音を消している。
 背筋に電流の走る出逢いだった。森の中で魔物に出会ったような不意打ち。
 このとき加奈江は全身にひろがる鳥肌と、尖り勃つ乳首、アナルがきゅんと締まる、ほとんど性感と言えるような感覚に戸惑っていた。
 よれよれの茶色の作務衣に使い込んだ下駄・・黒より白が断然多い長い髪・・162センチの加奈江より若干高い170センチほどの背丈。しかしその面色は涼しくて整った顔立ち。小さな目が澄み切った謙傲だった。

「おーい」
「ハ?」
「ハじゃないだろう、しっかりせい。きゃあとは何だ、失敬な」
「は、はい! わ、私あの・・」
「わかっておる、聞かされてるよ、電話ぐらいはあるのでね。ふふふ、どうやら今度はいい子のようだ。さあ、お入り」
 加奈江は震えていた。この人が謙傲常美。本名年齢ともに不詳。経歴さえも公開しない。面色はやさしくて、ちっともそれっぽく見えなかった。
 憧れていた謙傲がSだと知り、その男に眸をまともに見据えられ、加奈江はゾッとして震えていた。いまにも濡れだしそうだった。
 板戸の一段高い敷居をまたいで中へと入る。入ると土間は狭かった。

「おーい久利(くり)、出ておいで」
「はーい、ただいますぐに」

 ハラハラした。まさか全裸? まさか鞭痕だらけで亀甲縛り?
 しかし違った。どこにでもいそうな普通の女。歳は三十ほどかと思われたが、肌艶もよくスタイルがいい。あたりまえのジーパンTシャツ、それでスッピン。なのに雰囲気のある女性。ただ髪の毛が後ろを刈り上げたショートヘヤーで女としては短すぎる。美人とまでは言えなかった。
 その女は、穏やかな微笑みをたたえて上がり框のところまでやってきて、きっちりと正座をし、上がってすぐの板の間に額を擦るように平伏した。
「東京からはるばるご苦労様です、さぞお疲れでしょうね、どうぞお上がりくださいませ」
「はい。ですけど今日は熱海から。実家がそこにあるもので夕べは実家に」
「そうですの? それで謙傲のご担当に?」
 女同士、初対面の会話だったのだが、加奈江は、このしなやかさは何だろうと考えていた。流水という言葉があるが、まさに水のごとくさらさら流れる女らしさ。
 とても勝てないと直感する同性。こんな人ははじめてだと感じていた。

 靴を脱ぐ。少し高く広い板の間には、夏のいまは板を渡して塞いである囲炉裏が中央に造られて、正面にも左横にも襖があって閉ざされていた。見た目に古い家でも中はそれなりに整えられて現代の匂いがする。
 古い家はだいたいそうだが、田の字造りと言って、部屋を四つ田の字に配置し、そのうちの一部屋が囲炉裏のある板の間にされることが多かった。この家もそうなっていて、その田の字に、台所やトイレ、風呂などがくっつく形になるわけだ。板の間に上がった加奈江は、板で塞いだ囲炉裏の前に座布団が用意されて正座で座ったのだが、腿根までが露出して、正面に来られるとスカートの奥が隠せない。今度こそ短すぎたと後悔した。古い家はほぼ和室。座るときは座布団だ。
 膝にショルダーバッグを置くべきか、それとも覚悟して自然に振る舞うべきなのか。息をするのも苦しかった。

 謙傲は久利という女に茶の支度をさせると、一度奥へと消えていき、先ほどのものより少し綺麗な濃紺の作務衣に着替えて現れた。
 謙傲は正座をする女の客を静かに見下ろし、正面ではない右横へと座布団をずらして胡座で座る。加奈江は膝には置かず両手でスカートの前を押さえて座っていた。
 名刺を出そうとすると謙傲が言う。
「いらんいらん、肩書きで付き合うわけではないのでね」
「はい。ではあの・・私は三木加奈江と申します。この九月からこちら方面の担当となりまして、謙傲先生とも・・はい?」
 謙傲は言葉途中で手を挙げて遮った。
「先生もいらない。あがめられるほど偉くはなし、たてまつられるほど馬鹿ではなしという言葉があってね。僕は僕、あなたはあなた。それでよろしい」
 静かだが威厳・・いいや孤高に生きる男の言葉だと加奈江は思った。
 そのとき久利が鎌倉彫りの柿茶色の丸盆に茶を二つ持ち寄って、板で塞いだ囲炉裏の縁へ湯飲みを置いて去って行く。

 謙傲が去ってゆく女へ視線を流して言う。
「久利と言います。女の利を久しく・・ということでつけてやった名前でね」
「女の利を久しく・・ですか?」
「この先ずっと女の利を楽しめるようにということです。まあ茶でもどうぞ」
「はい、では遠慮せずいただきます。それと、あの・・」
 加奈江は一瞬唇を噛んでうつむいた。
「うむ? 何だね言ってごらん?」
「はい・・お気づかいいただいてありがとうございます」
「気づかうとは?」
「私あの・・スカートを間違えました。正面ですと・・ですからその・・」
「ふふふ、なるほどね。花とは愛でるものであり無遠慮に覗くものではない。今日の色は?」
 寒気がした。この人の前で私は蛇ににらまれた蛙。
「・・赤です、真っ赤・・どうしてだかわからないの・・」
 謙傲は柔和に笑んでものを言わない。

「では、そういうあなたに話しておきましょう。こんなことを言わせた相手は滅多にいない。久利とあなたぐらいのもの」
「・・はい?」
「僕の名ですよ。謙傲常美とは、謙虚さも傲慢も、それこそ常に人の美だという意味でね。それらはどちらも自分への嘘であり、後になって悔いることこそ美しいということです」
「・・」
「いまのあなたがそうでしょう。赤を隠して脱げばいい女なのに、さあ認めろと傲慢になる。それに気づいているから恥ずかしくてならず、今度は謙虚になってうつむいている。ふふふ、それを可愛さと言うのです」

 身震いした。これほど怖い男を知らない。
 加奈江は衝き上げてくる性感に震えていた。

トラックバックは許可されていません。

コメントは許可されていません。