2016年11月15日

首なしの家(四話)


四 話


 謙傲と久利という女の暮らしが心に焼き付いて消えていかない。父と娘のようでも主とM女の性関係は成立していて、愛奴という言葉がこれほど素直に受け取れる女の生き様はないのではないか。常識的なレールを滑る限り到達できない深い愛の世界を見せつけられたような気がする。
 その夜、実家に戻った加奈江は、懐かしい自分の部屋にこもり、受け取った手書きの原稿をひろげていた。無機質なワープロ原稿ばかりを見慣れた加奈江にとって、ひどく古い作家の人と成りを読むようでもあり、謙傲のぬくもりが残る原稿用紙を撫でるように扱いながら物語の中に入り込んでしまっていた。

 結婚できない女から物語ははじまった。幼い頃の女は群れている。仲良し三人組などというが、加奈江にも覚えがあった。大切な友だちだと思い女心を共有するように付き合っていたつもりが、一人に彼ができ、また一人に彼ができ、気づいてみたら自分だけが取り残されてしまっている。やがて友人たちは結婚し、そうなるとますます疎遠になって、女同士の友情がいかに便宜上の関係だったのかを思い知らされる。寂しいし口惜しいし、それまでの楽しかった時間が何だったのかと考えると虚しくもなる。
 そんな残り物の娘が、あるとき離島へ旅をする。なぜか若い娘ばかりが暮らす南海の島なのだが、そこは性奴隷の牧場だった。船がないから逃げられない。夜な夜な屈強な男たちがやってきては一夜の女を奪い合い、獣のごとく女体を貪って帰っていく。女が島を出たければ一人の男に愛されて妻として迎えられるしかない。まさに現代女性への風刺だと思って読んでいた。

「おい新入り! おまえの名は!」
「はい・・加奈江です」
「加奈江・・そうか加奈江・・さっさと脱げ!」

「加奈江さん・・ねえ、加奈江さんよね?」

「うわっ・・は、はい?」
 物語の中に取り込まれて歩いていて、後ろから声をかけられた。十日ほどが過ぎていた。品川駅。
「久利さん・・どうして?」
「いまちょっといいでしょうか?」
 カフェ。竹林を背景に全裸で踊った首なし女が、今日は都会に溶け込んで、見違えるように若々しい。物腰のしなやかな人。こうして街中で会うと、ますます勝てないと感じてしまう。
 謙傲のもとを出されてきた・・結婚するお相手のところにいると言う。
「今度こそ、ご主人様なんですよ。妻として生涯を捧げるお方・・」
 微笑みに女の自信が満ちている。そう思うからかもしれないが、愛を得た女の顔だと思えてならない。
「やっぱりS様なんですね?」
「いいえ違う。M女の心で嫁ぐというだけで・・」

 久利は二十九歳、二十四のときから五年を謙傲のもとで過ごし、躾けられて現世に戻った人。まるで物語の中の女を見るような気分になる。
「首のない五年は終わりましたの。首のない私をご主人様は見ていてくださる。それだけで充分ですわ・・」
 それさえあれば生きていける。揺るがない女の顔・・首を失い、与えられた首は新しい首・・このときの加奈江にとって久利は、はるか遠くにいる存在のようだった。
「先生と言うと怒られますが・・ふふふ、先生ったら、新しいお人形をあの壇に飾っておられる。いまはまだ首のあるお人形」
 加奈江はドキドキしていた。もしや・・。
「それは加奈江さん、あなたです」
 怖気がした・・ゾッとする恐怖と、その何倍も感じはじめる女の体。加奈江は言葉も返せず、生唾を隠して飲むような気分になる。
「先生は・・いまはお一人?」
 久利はうなずく。
「あの方は私といたってお一人ですのよ。孤独というより孤高でしょうか。でもそれは、とても届かない高みかと言えばそうでもなくて、すぐ隣にいてくださる不思議な孤高・・きっと先生の弱さだと思うんですけど」

 謙傲への憧れ・・それは久利への憧れでもあり、あの山の中での暮らしへの夢でもある。加奈江は自分のM性を意識しながらもマゾだと思ったことはない。
行為ではない。M性とは、それを発動できる相手に巡り会えたとき蠢きはじめる女心・・女でいたいのに、そうはさせてくれない社会の中で、ほとんど使うことのない心の奥底にある心・・。
 加奈江は、首を切り離した私がどうなっていくのかと思うと、たまらず謙傲に会いたくなった。見えない。聞こえない。声も失う。考えることもないに違いない。そうなったとき残るのは女体だけ。本能のままに動くしかない体だけ。
 そしてその週末、加奈江はアポも取らず、前夜にはまた実家に泊まり、朝まだ暗いうちにハンドルを握っていた。
 首なし人形の飾られる猟奇の家へ・・新調した真紅の下着を選んでいた。

 草っ原に置かれた黄色のジムニーの隣にクルマを停めて歩き出す。今日は空が暗く、いまにも雨になりそうだった。降りだせば道はぬかるみ四駆でなければ脱出できない・・と言うか、このまま現世から消えてしまいたい気分にさせる、それほどの緑の世界。
 見た目に廃屋そのままの家が見えだしたとき、謙傲は、焦げ茶の作務衣の姿で家の前の小さな畑でクワを振るっていたのだった。現代の仙人。まさにそんな姿に思えた謙傲。
 加奈江は怖かった。帰れ。おまえの来るところではない。拒絶されそうな気がしたし、そんなことになったら私は自信をなくしてしまう。しかし顔を上げた謙傲は穏やかだった。

「どうやらまたスカートを間違えたようだね」

 頬が燃えだす気分。ミニスカート。最初のあのときより短いものを選んで穿いた。女心を見透かして欲しかった。
 背を押されて家へと入り、襖を開け放った板の間に飾られる人形のたちの隅に置かれた首のあるフランス人形に目を奪われる。
「久利さんにお会いしました・・ほんと偶然に・・」
「なるほど、それで来たというわけか」
「・・このお人形」
「さてね・・首のあるままにしておくか首なしにするのか・・しかしその前に見せたいものがある。ついておいで」
 今日の加奈江は少し大きなスポーツバッグを持ち込んだ。バッグを置くと手ぶら。あのときのように謙傲の前に立って竹林へと歩かされる。一跨ぎの流れがあって、黒い暗幕がかかっていて、謙傲はその黒い背景の裏へと加奈江の背を押した。

 鬱蒼とした竹林だったが、歩く道筋だけは草が刈られて整えられる。
 その奥に、下草と枯れ竹の葉に埋もれるように斜めになった板戸のドア。古いものだ。地下に何かが隠されている。
「防空壕そのままの造りなんだが、こんな山に空襲などあろうはずもない。さあ入って」
 斜めに観音開きとなるドアを開けて謙傲が先に入り、数段の階段を降りていくと、土だった穴が岩肌の洞窟となって奥へと続く。湿り気のあるかすかなカビ臭さが歳月を物語り、蝋燭だけの明かりに闇がゆらゆら揺れていた。
 中の空気がいくぶん暖かい。ここは伊豆。岩盤の底で温泉と触れ合っているのかもしれない。それに、窓などもちろんない洞窟なのに空気が動く感じがする。岩盤の裂け目から外気が流れ込んでいるようだった。
 謙傲は言った。
「ここを見つけたとき、明らかに隠してあった。竹をかぶせて葉っぱが覆い、何だろうと思ったものだ」
 声が岩に響いている。
「ここは墓だよ」
「お墓・・」
 洞窟は奥に深く、ところどころに置いてある燭台の蝋燭を灯しながら進む。
 最後のところが行き止まりで、そこには板石が横たえられて・・最後の蝋燭に火をつけたとき、眠る者の姿が見えた。

 首のない白骨死体。骨が茶色になるほど古いもの。
 慄然とした。恐怖に身が竦み膝頭が震えてくる。人体模型ではない。
 横たわる人骨の前へと歩いた謙傲は、掌を合わせて、それから言った。
「骨盤のところを見てごらん。股の穴が大きいだろう」
「では女性?」
「うむ女だ。警察にとも思ったものだが、しかし安らかな眠りを暴きあげては可哀想だと思ってね。どうして首がないのか・・昭和のこの頃は戦争の前後だったに違いない。軍属が隠れ住んだ家。主に殺されたのか、死んでから首だけを持ち去られたのか・・考えようはいくらでもあり、悲劇とは思いたくない。主の元に体だけを残して首は天へと召されていった。そうであってほしいと思う」
「それで首を・・?」
「ふふふ、パクリだよ、作家にあるまじき盗作だ。しかしごらん、首などなくても安心して眠っていると思わないか。着物は最初からなかった。全裸で横たえられて朽ち果てるまで主に見守られ、いまだに静かに眠っている。見つけたときバラバラだった骨を僕が綺麗にしてあげた。彼女は喜んでくれたと思う」

 板石の下にはムシロが敷かれてあって、燭台と線香を供えることができるようになっている。骨の胸のところに少ししおれた花束が置かれてあり、花は山に自生する名もなき花。
「したがってここを離れられない。独りぽっちでは可哀想だからね」
「・・幸せだと思います、こうしてお花を飾ってもらって・・」
「だといいが・・だからね加奈江」
「はい?」
「久利もそうだが、新しい首を与えてくれるのは僕ではないのだよ。彼女がその澄んだ心で相手を見極め、女の歓びに満たされる顔をくれる。そう思っているんだが・・まあ、滅多に見せない秘密だ。ここを知る女たちは彼女に会うためやってきて、久利のように踊っていく。快楽の声は、骨となった彼女へ捧げる愛の声。さて・・では僕は遠慮しよう」
「え・・」
「しばらく彼女と話すことだ。女同士、心のままに。久利が言っていた。声に出して話しかけると応えてくれると。飾りを脱いで話すことだ」

 謙傲は静かに歩み去り、蝋燭の揺らぐ闇の中に加奈江は全裸で正座をして向き合った。隠すものは何もない。女同士二人きりの空間に、もはや恐怖は感じない。
「怖いんです・・何もかもが。生きているのが怖くなる。友だちたちの誰かが幸せそうだと思うと妬んでしまい・・不幸だと聞くと心のどこかで笑ってる。待っているのに、何を待っているかもわからず・・自分勝手に寂しくなって泣いたりします。
私はひどく汚れていると考えると自己嫌悪に陥りますし・・そんな私を罰したくて自虐的になったりする・・高校の頃でした、針で乳首を刺してみて、ああ痛みだけは信じられると思ったの・・私はいったい何者なのかと考えてみたりした。そのうちには諦めて考えなくなっていて・・それもまた自己嫌悪。久利さんにお会いして悲しくなったわ・・羨ましい・・私じゃとてもムリって思いましたし、やっぱり妬みの感情が・・女は嫌です、どろどろだもん・・やりきれない。今日のことにしたって、いまどうしてここにいるのか・・何しに来たのかもわかりません。謙傲さんに躾けられて首のない私へ変わっていく・・そうは思っても、やっぱり怖くて尻込みしちゃう・・厳しくされたい・・なのにやさしくされたい・・私は私がわからないの。マゾなのか・・牝でいたいだけの淫乱なのか・・セックスって何・・妊娠して赤ちゃんを産んで・・そのうち抱いてくれなくなって・・わからないの・・どうして生きているかもわからない・・」

『お立ち』

 声がした。確かに聞こえた。加奈江はゾーッとする恐怖を感じながらも、操られるように立ち上がった。
「ああ、そんな・・」
 後ろから抱かれるような・・それは気配。体をつつむような誰かの腕の感触にハッとして、二つの乳房を見下ろすと、白い乳房の張りが揉まれるように蠢いている。
「嘘よ・・そんなことって・・」
 恐怖の震えが性的な震えへと変化していく。気配は心に熱をくれた。
「抱いてくれるの・・私を抱いてくださるの・・?」
 目を見開いて自分の乳房を見つめている。肌に指の跡が蠢いて、そのことが信じられない快楽を連れてくる。
「ぁぁ感じます・・震えちゃう・・」
 裸身のすべてが震えだすようだった。溶けていく。涙があふれだして止められない。夢なのかと思っても、体中を撫でられる感触は現実の愛撫・・加奈江の心は山の緑のうねりのように、ゆらゆらと揺れていて・・信じられない心地よさにつつまれていたのだった。

 抱きくるむやさしい抱擁が去っていき、加奈江は全裸のまま、下着をつけることさえ忘れたように、首のない女の墓を出たのだった。
 ウグイスが啼いている。汚れを洗われた心に吹き渡る風のように、ウグイスの声が流れてきていた。

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