2016年11月16日

獄死の微笑(一話)


一 話



「千鬼成願(せんき・じょうがん)ですか・・」

 岩城信茂には、それきり声もない。定年をすぎた岩城以上に年老いた老僧がうなずいて言う。
「しかし事なきを得るでしょうな。絵は九百九十九枚。一枚足りないし血だけで描いたものも、この写真を見る限りなさそうだ・・」

 一人の死刑囚が獄死した。西林恭子、五十三歳。
 いまからおよそ十六年前、連続惨殺事件の容疑で逮捕され、そのあまりの猟奇的犯行に人々は震え上がったものである。
 恭子は事件の一切を口にせず黙秘したまま死んでいった。当時の恭子にはまだ三歳の娘がおり、その子のためにも刑の執行を先送りにしていたのだったが、処刑される前に獄中で病死した。肺ガン。治療を拒んで死を望んだということだ。

 しかし恭子は、死に際し、思いを遂げたようなうすら笑いを浮かべて死んでいき、獄中で描き続けた九百九十九枚の鬼の絵が残された。顔だけの鬼もいれば全身を描いたもの、男の鬼、女の鬼と、さまざまだ。サイズはすべてB5。
 受刑者が獄死すると牧師が呼ばれることがあるのだが、牧師では理解できず僧侶が呼ばれた。しかるにその僧さえも理解できず、話を聞いた岩城が方々に手を尽くして、ようやく一人の老僧へと行き着いた。
 岩城は六十三歳。十六年前の事件当時、捜査を担当した刑事であり、いまは定年で隠居の身。けれども岩城は若々しい。
 恭子の遺体と対面できたわけではなかった。岩城がその老僧へ行き着くまでには時間がかかり、遺体は病死から数日後に一人残された遺族である愛娘に引き取られ、そのとき一緒に鬼の絵そのものも返されてしまう。
 受刑者の行動を記録するため、一枚描くごとにその絵を写した無数の写真を大きな会議テーブルに並べ、それと受刑者の記録を対照して判断する。

 老僧は言った。鬼の絵は『千鬼成願』という呪術のたぐいであり、本人が描いた千枚の鬼の絵を遺体とともに棺に入れて荼毘に付す。そうすれば死者の願いを聞き入れた鬼どもが願いを叶えてくれると言うのである。
 願いとは、すなわち復讐。それしかないだろう。
 馬鹿馬鹿しい・・いわゆる不可能犯罪で、霊や魔物のたぐいが復讐してくれるはずもない。現代の刑事でなくとも一笑に付すところ、岩城は気になってならなかった。

 恭子には、事件当時、捜査しきれなかった裏がある。最後まで動機を語らせることができなかった。惨殺に至る怨恨とは何なのか。思い半ばで逮捕され自分だけが罪に問われる理不尽さが無念でならず、そういうことを思いついたのかもしれない。
 一方を罰しておきながら一方を黙認するなど許せない。生涯を警察に生きた者として自身の人生そのものを決める出来事・・そう考えた岩城は、せめて真実を暴きだし恭子を弔ってやろうとした。すべては自分の力不足。岩城は恭子に対して顔向けできない思いでいた。

 西林恭子は幼くして両親を交通事故で亡くしている。右側面から大型トラックに突っ込まれてクルマは横転。左側後席のチャイルドシートにいた恭子だけが助かった。父は即死、母親も救急車の中で絶命する。そのとき恭子四歳。
 それから恭子は、父方の親戚筋に引き取られることになるのだが、恭子が殺害に及んだのはその育ての親の家族たち。育てられていく過程で何かがあったとしか思えないのだが、恭子は頑として口を割らない。

 十六年前の惨殺事件が起きるさらに三年ほど前、恭子が三十五歳のときに恭子は私生児を産んでいる。名を遙(はるか)と言い、認知されない一人娘であったのだが、おそらく恭子はその我が子を守ろうとして口をつぐんだ。
 それというのも、育ての親の一家には子息が三人いて、長女が小百合、生きていれば五十七歳。次が希代美と言って五十五歳、こちらは存命。残る末っ子は男で、名を保と言い、生きていれば五十三歳。
 つまり三兄弟を狙ったわけだが、次女の希代美を手にかける前に逮捕されてしまう。口を割れば娘が危ないとでも思ったのだろうか。恭子は黙秘したまま旅立った。

 岩城は歳月に薄れる記憶を呼び覚まし、当時の捜査ファイルとも対照して、もしも復讐するなら、いまだ存命の希代美、そして三兄弟の子供たち。そのために千鬼成願などという呪いをかけようとした。
 恭子に殺害された小百合には圭子と言う二十九歳になる娘がいて、同じく殺された末っ子の保には彰子という二十歳の娘、そして存命の希代美には健太郎と言う二十六歳になる息子がいる。

・長女 小百合、殺害当時四十一歳。現在二十九歳になる娘の圭子がいる。

・次女 希代美は存命で現在五十五歳。息子の健太郎は現在二十六歳。

・三男 保、殺害当時三十七歳。現在二十歳になる娘の彰子がいる。

・さらに、三兄弟の母親は没していたが、父の義介は八十歳で存命。

・その西林家に、当時四歳だった恭子は引き取られて育ち、五十三歳で獄死した・・。

 ということなのだが、それら一族のことごとくを葬り去ろうとして復讐を鬼に託した・・と考えられなくもないのである。
 恭子をそこまで追い詰めたものは何か。恨みの基点がどこにあるのか。岩城は確かめずにはおれなくなった。

 最初の殺しは、当時四十一歳だった小百合であった。凶器はアイスピック。全身に数え切れない刺し傷が残り、とりわけ腹部に、子宮に到達する刺し傷が集中していて致命傷がどれかも特定できない無残な殺し。出血多量によるショック死だった。
 次は末っ子の保。凶器はやはりアイスピックだったのだが、男の保に対して恭子は男性器の切断にまでおよんでいる。やはり出血によるショック死である。
 現場はどちらも血の海で、幾度も殺人捜査を経験した岩城ですらが寒気を覚えたほど。一目で怨恨とわかる常軌を逸した殺し方であり、恭子の恨みの深さが想像できた。
 裁判。いかなる理由があったにせよ残虐きわまりなく、本人の供述もないことからも情状酌量の余地はない。死刑を覚悟した恭子は、せめて娘だけは守ろうとして黙秘を続けた・・。

 しかしそれにしても・・九百九十九枚におよぶ鬼の絵。獄内では尖ったものは与えられず、すべてが筆書きだったのだが、鬼の全身の輪郭に墨の滲みにしてはぼやけ過ぎな微妙な滲みが認められる。
 老いた僧侶は岩城とともに刑務所を出て歩きながら、岩城にだけ告げたのだった。

「よくは知りませんが千鬼成願とは女人が用いる呪いの術。そしてその絵には決まり事がありましてな、女人の体液を混ぜ込んだ墨で描くのですよ」
「・・体液を」
「はっきり申し上げるなら愛液ということですし、千枚のうちの一枚だけは血そのもので描かなければなりません。血だけで描いたその一枚が見当たらない以上、呪いは成立しませんので」

 だとすれば、なぜ恭子は笑って死ねたのか・・想いを遂げた者の笑顔だとしか思えない。

 恭子が鬼の絵を描きはじめたのは入所から五年・・つまりいまから十年前になって突然はじめ、それまでは一枚たりと描いていない。文書の記録として残っていても当時のことを知る刑務官は定年や退官ですでにいない。
 岩城は、現職の刑事仲間にあたって調べさせ、圭子の入所当時を知る一人の男に突き当たった。
 星山京平、元刑務官。六十五歳。
 岩城はさっそく星山を訪ね、隠居生活を送る小田原へと出かけた。

「西山恭子・・もしや・・?」
「鬼の絵の」
「えーえー覚えてますとも。彼女に何か?」
「獄死しました。刑の執行ではなくガンだったのですが・・」
 岩城は千鬼成願の一部始終を星山に告げた。星山は見るからに人の好さそうな男だったが、岩城同様に若く見える。

 星山は即座に言った。
「覚えてますとも。あれは鬼を描きだしてからしばらくした頃だった。そのときにはもう百枚ほどを描いていたのですが、一枚をどうしても娘に送ってやって欲しいと言う。血の色をした絵の具をくれと言うもので、その一枚だけが赤い鬼。他はみな墨絵なのにね。赤い鬼は女の姿をしておりました」
 やっぱりそうか。
「それで、あなたは送ってやった?」
「もちろんですよ。気味が悪いというだけで留め置く必要もないのでね」
 それで千枚。赤の絵の具を欲しがって、そのじつ血だけで描いたもの・・口の中で舌先でもちょっと噛めば出血を悟られずに済むだろう。

 血の一枚はすでに描いて娘に送った。そして残りを描き上げ全部で千枚ということで、千鬼成願は成った。だから笑って逝けたのだ。
 そして岩城が星山の暮らす山の中の家を出たとき、携帯電話が鳴り出した。
 電話は、岩城の定年前に部下だった捜査一課の前川からだ。

「はい岩城・・おぅ、どした? ・・うん・・何ぃ、殺された・・惨殺・・」
「被害者は西林義介、八十歳。義介はご存じのように三兄弟の中で残された希代美と同居しておりますが、昨夜は普通に眠り、朝になっても起きてこないので希代美が見に行ったところ・・しかしそれが・・」
「どうした?」
 前川の声が震えている。
「部屋の中でバラバラにされて死んでいた・・」
「バラバラ・・切断か?」
「違います、まるでバケモノにでも引きちぎられたように手足も首もバラバラなんです。検屍にあたった医師でさえ見たことのない死体・・うまく言えませんが、まさに鬼にでも襲われたようなありさまで・・岩さん、マジでヤバいっす、呪いが本当なら連続殺人になりますよ」

 岩城は、とにかくまず娘の遙に会おうと考えた。
 千鬼成願は、前もって遙に託した血の一枚を九百九十九枚の墨絵と合わせて棺に収めて完成する。遙はそれを知っていた・・。
 遙そして恭子に呪術を授けたのは誰か・・その者に会って呪いを解かないと大変なことになる。

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