2016年11月16日

獄死の微笑(二話)


二 話



 西林恭子が逮捕されたとき一人娘の遙は三歳から四歳への狭間。恭子に身寄りのないところから、いっとき横浜にあるアマンダ・ホームに預けられたものだった。アマンダ・ホームは、戦後すぐ戦争遺児たちを救うためアメリカ女性のアマンダ・マクレーンによってつくられ、その後二度の代替わりを経て、いまは本橋千鶴という日本女性に引き継がれている。
 母親が投獄されて、遙は一年ほどをホームで暮らすが、幸運にも里親が見つかって長野へ移住。現在の遙は十九歳。引き取ってくれた里親の父が亡くなり老いた母と二人で信州は安曇野に暮らしていた。

 と、そういうことで、遙は高校を卒業後、安曇野は梓川のほとりにある老人のためのグループホームに勤め、家族にうとまれてやってくる年寄りたちの面倒をみていた。物心ついたときには母親がいない。育っていく過程で母の身の上を知っていき、それだからか、年老いた人々にやさしくできる心を持った。
 すらりと背の高い美しい娘。いまどきの娘らのように髪を染めず、絹糸のような黒髪も美しかった。

 定年を過ぎた岩城には昔のように刑事仲間はいない。岩城は単身、遙を訪ねた。
 梓川でも上流にあたり流れは透き通って美しい。施設のすぐそばからはじまる斜面がそのまま背景の山々へとつながって、鬱蒼とした緑がうねるように折り重なる、そこはまさに別天地。恵まれない境遇の遙に神が与えた景色のようだ。 

 グループホーム、梓川青山苑(せいざんえん)。
 岩城が訪ねたとき遙はちょうど留守だった。
 年寄りたちにすればめずらしい男一人の来訪。七十代後半からの入所者であって九十代の年寄りにすれば息子が訪ねて来たようなもの。岩城は皆のいる広びろとしたリビングルームで待たされた。遙は買い物。すぐに戻るという。
「ほうほう、鬼っ娘(おにっこ)に会いに来たか。ほうかほうか」
 岩城にとって母親のような老婆がすぐそばに寄って来て言う。外の世界が懐かしいのだろう、人々は皆人懐っこい。
「鬼っ娘ですか? 遙ちゃんはそう呼ばれて?」
「ほうじゃよ。そこの山に鬼塚洞(おにづかぼら)というのがあってな。仙人のごとき老爺がおるそうじゃが、あの子はそこが好きでよく行くのじゃ」
「老爺・・それはどのようなお人なので?」
「ようは知らんが・・何でも若い頃は修験者であったらしい。山伏じゃよ。でその洞に棲み着いた。歳は七十・・八十か・・それじゃが脚が良くての、いまだに山を歩き回っているらしい」

 直感的にそれだと思った。
 修験者の中には特殊な術を体得する者もいるという。
 鬼塚洞・・鬼の神・・つながると岩城は思う。

「あらら、お婆ちゃん、デートかしら・・あははは!」
 言っているそばから遙は戻り、ちょっと出ようと目配せで言う。
 ホームには職員が数名いて、遙は仲間の一人に浅く頭を下げて岩城を外へと連れ出した。遙は溌剌として若かった。ブルージーンに職員お揃いのピンクのトレーナー。背が高く、胸も張って、すがすがしいほど美しい。
 かつて一度会ったことはあっても、そのときの遙は子供だったし記憶にない。
 美人だった母親の恭子より遙はさらに美しく、はじけるような若さがある。
 施設には広大な庭があり、初秋の安曇野に森から流れる山風が樹々の香りを運んでいた。
 白いベンチに並んで座る。

「岩城と申します」
「もしや母のことでしょうか?」
「ええ。十六年前あなたのお母さんを逮捕した刑事の一人です。いまはもう定年で刑事ではありませんが」
 遙の横顔がちょっと笑って、目を細めて山々を見渡している。
「岩城さんにとっては終わったことですよね?」
 と、つぶやくように遙は言った。
「いいえ終わっていません。私はお母さんに顔向けできない。お母さんに凶行におよんだ理由を語らせることなく捜査を終えてしまった。さぞ無念、さぞ口惜しいに違いない」
 しかし遙は静かに言った。
「母は逝きました。いまさらそれを言ったところでどうなります?」
 岩城は辛い。幼い娘とその母親を引き剥がしてしまった逮捕。しかし言わなければならないことがある。
「西林義介ですが・・」
「はい?」
「殺されました。体をバラバラに引き裂かれたような惨殺だったそうです」

 そこでようやく遙は横に座る岩城へと視線をやった。
 岩城は言う。
「私の方で手を尽くしてあるお坊さんを呼んだのですが・・千鬼成願・・遙さん、あなたはかつてお母さんから送られてきた赤い鬼の絵を九百九十九枚にもおよぶ墨絵の鬼と合わせて棺に入れた。よもやそんな馬鹿げたことはないだろうと思ってましたが、あるいはお母さんはこうなることを予見して恨みを鬼に託して死んだ・・私はお母さんに顔向けできない。もっとよくお話を聞いてあげればよかった。思い残すことなく死なせてあげたかった。申し訳ない思いでいっぱいなんです。ですけど遙さん」

 そのとき遙がベンチを立った。
「いまはダメ、仕事中です。後ほど四時にいらしてください。今日私は早番だから。でも岩城さん」
「はい?」
「私はあなたを恨んでなんていませんよ。母だってそれはそうだと思います。それ以上のことは後ほどまた・・」
 別れ際、背を向けかけた遙に岩城は言う。
「早く呪いをとめないと」
 遙かは、その声を背で聞いて、振り向くことなく歩み去った。

 そして四時。岩城は遙が運転する軽に乗せられ、グループホームのある裏手から山道へと分け入った。
 運転しながら遙は何も話さない。仕事のスタイルからトレーナーを替えただけのジーンズとジャケット。長い髪をポニーテールにまとめていた。
 山道を二十分ほどだったろうか。山の中の道筋に山火事に備えた地区の消防の小屋がある。その前にクルマを停めると、遙が先に森へと踏み込み、人一人がやっと歩ける道を登る。数分行くと緑の山に黒い岩肌が目立ちはじめ、直立する岩盤が斜めに裂けたような洞窟の口が見えてくる。
「鬼塚洞です」 と、遙は言った。
 岩の裂け目は見上げるほど大きくて、鋭く尖った岩肌に足を取られながら中へと入る。時刻は四時半を過ぎていたが夏の残るいまならまだ明るい。
 洞窟の口から土が積もったような細い道が続いていて、時折天が割れて青空が覗いている。

「寿斎(じゅさい)様・・私です」
 天が厚い岩に閉ざされて、洞窟の岩肌が滑らかでいびつなドーム状に拡がったところで、遙は立ち止まってそう言った。
 しかし声はない。出かけているようだった。
「お留守みたい。ここでお待ちしましょう、きっとすぐ戻られます」
「寿斎とおっしゃるか・・こんなところにお住まいなので?」
「いまはね。いまはここに暮らして山を愛し、ここが死に場所だとおっしゃっておられます。母のことをお話しましょう」
「はい、ぜひ」
「その前に・・千鬼成願は、願いがかなうと鬼を留めるすべはないと聞いています。女が命を賭けた鬼への願い。でもまさか・・私だって信じてはいませんでした。母が可哀想。せめてと思って言われたとおりにしてみただけで・・」
 丸い岩肌に腰掛けて話していた。
 遙は薄闇の中にいて、このとき例えようもなく妖艶に微笑んだ。

 遙は言った。
「西林の家に引き取られた母は、女二人男一人の兄弟の中にいて、それは虐待されて育ったそうです。年頃になってからは性奴隷。とても言えないような辱めを受けて耐えていた。義介です・・母をおもちゃにした張本人。兄弟たちより惨い仕打ちを重ねていた。母は美人よ。二人の姉妹はそれも許せず、一人だけ男だった保は・・精液のトイレのように母を蔑んだ」

「しかしそれでも恭子は耐えておったのだ」

 いつの間にそこにいたのか、修験者そのままの白衣を着た老人が立っていた。一見して八十代。思いのほか小柄、総白髪の長い垂れ髪、痩せ細った面色、シワ深い小さな顔の中で眸だけがギラギラ輝く。
 白木でこしらえた長い八角棒をついていた。
「こちらは東京から・・ママを逮捕した刑事さんなんですけど、千鬼成願のことでお話したいと・・」
「うむ・・動いたようじゃな」
 遙が言い、まさに仙人そのままの寿斎が応じて吐き捨てるように言った。
「西林義介が殺されました。それこそ鬼に体を引き裂かれたような惨い殺しであったそうです」
 岩城の言葉に寿斎はうなずきもせず、孫娘のような若い遙の肩を抱いて座り込む。

「あの頃この子は八つだったが九つだったか・・幼いこの子を連れて拘置所に会いに行ったのだが、あまりに哀れで見ておれぬ。この子の顔を見たとたん身をよじるように泣きだす恭子・・恭子の運命を変えてしまった一族が許せない。千鬼成願は、わしが教えた」

 岩城はただ黙ってうなずきながら涙をためて聞いていた。

「恭子は言った。遙のことでだ。この子は私生児、父親に認めてもらえない哀れな娘。その遙に対し、誰の子だかわからない犬畜生の子を産みやがってと、産ませた張本人が言ったそうだ」
 遙は握り拳を膝に置いてうつむいている。
「奴隷の分際で・・兄弟三人、加えて父の義介にまで罵られ、生まれたばかりのこの子さえも虐待しようとした。恭子は遙を抱いて逃げ出した。横浜の港で身投げしようとするところをアマンダ・ホームに救われた。いまアマンダ・ホームをみている本橋千鶴はわしの娘よ」
 岩城は声もなく涙を流して寿斎を見つめた。
「許せぬわ・・しかし、いくらなんでも千鬼成願は恐ろし過ぎる・・そう思って教えることをためらっていたのだが、あのときの泣きじゃくる恭子を見ていて、わし自身に鬼どもが乗り移ったのよ。許さん・・もう許せん。わしは教えた」

 寿斎は泣きだした遙を横抱きに抱き締めながら言う。
「可哀想に・・惨い・・惨すぎるわ・・」
 岩城は言った。
「しかし呪いをとめなければ・・」
「無駄じゃよ。ひとたび動き出した鬼をとめる術はない。千鬼成願は鬼の妻・・あるいは鬼の奴隷となることを誓う儀式ぞ」
「・・鬼の妻?」
「ゆえに、もっとも女らしい愛液で溶いた墨を用い、血の誓いの意味を込めて一枚だけを血で描く。恭子が描いた血の鬼は女の鬼じゃった。男の鬼なら妻となる誓い、女の鬼なら奴隷となる誓い。恭子は奴隷を望んだということじゃな。鬼どもの世界には時はない。いまごろ恭子は鬼の世界で時を遡って生き返り、若い女の裸身をもって鬼どもに嬲られているじゃろう。未来永劫、奴隷の日々。そうまでして仕える誓いをたてた女に、鬼は一つだけその願いを聞きとどける。ゆえに無駄じゃ、もう遅い」

「私の父は西林保・・もしくは義介・・わからないの・・わかりたくもない・・」

 呟くように遙は言った。
 愕然とした。岩城はとっさに遙を見つめた。
 血がつながらない兄弟の子・・もしくは父が娘に産ませた子・・犯され続けた恭子の日々が想像できた。だから恭子は保の男性器を切断した・・放っておけば義介もそうされていただろうし、希代美もまた女の性の根源をアイスピックでめった刺しにされただろう。

「申し訳ない・・もっともっと話し相手になってやれれば・・申し訳ない・・」

 母を逮捕した刑事の手を、遙は握って、泣いていた。

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