2016年11月16日

花嫁の森(二話)


二 話


 翌日は梅雨の尾が空を覆って、降ってはいなかったが蒸し暑い一日となっていた。脇田は朝から気分が悪い。念のため田村を連れて現地へ行く。そのとき松崎警部の言った『芦ノ湖観光ご苦労さんね』という一言がひっかかってならない。まさに嫌味な上司である。
 パトカーではない捜査車両を若い田村に運転させて脇田は助手席。今日も二人は同じような服を着ていた。
 芦ノ湖界隈は小田原署の管轄。それで電話を入れたところ・・。

「あーあー、わざわざ申し訳ありませんね。以前の駐在さんが定年でして・・それでまた受けたウチのほうでも・・」
 湖畔にある交番と言うのか駐在所と言うのか、その巡査長が退職して交代し、したがって不慣れだった。それで所轄署へ連絡したのだが、そのとき受けた小田原署の人間も移動で来たばかりの新人。昼さがりでベテランたちが外出していて、困り果てて県警本部へつないだということだった。
 森で見つかった下着は、毎度のことでもあり事件性もなさそうだということで、単なる遺失物として現地の駐在所に保管されていると言う。
 助手席で脇田が言う。
「それでまた、それを受けたウチにも問題アリよね。起きてしまった性犯罪を捜査するなら防犯課ではないでしょう」
「まったくすね・・たらい回しだ」
 生活安全課は主として防犯指導が仕事であって、犯罪捜査にあたる刑事課ではない。所轄署からの通報を受けた本部の人間がつなぐ先を間違えているということだ。
「馬鹿ばっか・・」
 運転しながら吐き捨てる田村が可笑しくて、脇田はちらりと横を見た。
「いまはいいけど滅多なことは言わない方がいいわよ、若いんだから」
「わかってますって・・あーあ、見ると聞くでは大違い」
「刑事ドラマの見過ぎなんだよ」
「・・かも。ははは」
 横顔などまだまだ子供。可愛いものだと脇田は思った。

 芦ノ湖湖畔の駐在所。問題の遺失物は、下着の上下を別々のビニル袋に入れられて保管されていた。指紋をつけないように白い手袋をしてひろげる。
 目の覚める真紅のパンティ、そしてブラ。思ったとおり総レースのフランス製。
「ワオ・・いいかも・・」
「ばーか。いっぺん撃つよ・・」
 田村は手袋をしてみたものの触れることはしなかった。脇田はトップよりもボトムに目を光らせる。レースの下着は脱がれると極端に縮んで小さくなる。
 脇田はパンティを裏返し、二重になったその部分に目をやった。
「ほらごらん」 と、なにげに横を見ると、田村はにやけて笑っている。
「ほらほら真面目に!」
「へへへ、はい」
「・・ったく。ここの裏地のところ綺麗でしょ」
「そうですね・・はい・・」
「新しいってことよ。長く穿いたものでもないし洗濯されたものでもない。洗濯したって、どうしたって汚れてしまう部分だからね」
「はぁ・・なるほど・・へへへ」
「こら小僧! ・・ったくもう。特徴が同じだわ、毎回同じ。ちょっとヘンだと思わない? 新しい下着をわざわざおろして、森で脱いで捨てて行くわけ?」
「ですね・・レイプとかでもなそうだし」
「もちろん違う、そういうことではないでしょう。とすると・・?」
「持ち主が自ら脱いで置いて行く・・」
「何のために? その同じ森に若い娘が多くいる。それとの関係は?」
「エリーという人のものだとは考えられませんか?」
「そこなのよ、これほどの高級品をちょっと穿いて捨る・・素直に考えればエリーが怪しい・・だけど何のため?」
「・・SMとか?」
「そうなのよ性的な趣向のため」
「なるほど。しかしだからといって、事件性としてどうなのか?」
「そういうこと。だから我々は手を出せない。出せないけれど・・これは私の勘なんだけど、あの洋館には何かある」

 そして田村は言った。

「集めた娘たちに・・性的な何か・・」
「もしやね。性的な躾け、あるいは調教・・あるいは何かの儀式のようなものだとか、考えようはいくつかある」
「でも係長、娘らは楽しそうにしていたんですよね?」
 脇田はそこで眉を上げる素振りをし、遺失物を袋に戻して椅子を立った。
 クルマに乗り込んでから、現場へ行ってみようと言う。
「ほんと言うと一度エリーに会ってみたい。洋館も見てみたいし・・」
「越境すよ?」
「個人的によ。どうにも釈然としないことと・・知ってみたい好奇心もあるけれど」
「いっそ休みを合わせて張り込んでみますか? 週末だと人が多くて面倒でしょ?」
「うまくいけばね」
「いきますよ。係長の休みがわかれば僕がツーリングに出ればいい」
「じゃあ三日後。そこ代休」
「三日後・・えーと、木曜日すね?」

 そんな話をしながら芦ノ湖スカイラインを北上する。
 道筋のほとんどが県境の静岡側を通っているが、ちょうど問題の森のあるあたりに、ごくわずか県境が道を渡って神奈川側にある場所がある。
 越境と言っても、はっきり捜査でない限り問題はないだろうし、休日に個人的に入るのならば、要は見つからなければいいわけで。
 今日のところは下見程度。梅雨の雨で林床を覆う下草はびっしょりだった。
 あのときのように道筋の路肩にクルマを停めて、なだらかな下り斜面へレンズを向ける。
「ほら、ちょっとだけ見える」
 双眼鏡を手渡すと、向きを合わせて田村が覗く。
「ありますね・・屋根の一部しか見えませんが」
「春先なら葉が少ないから。前に張り込んだのは四月だった」
 芦ノ湖スカイラインを使えば近いはずが、神奈川側から館への道はない。わざわざ遠い静岡側から入るということ。それもまた人を遠ざけようとしていると思えてならない。

 ところが、そうして三日後の約束をした夜のこと。
 田村にだけ教えたスマホのメアドに着信。時刻は十時を過ぎていて、そろそろ寝ようとしたときだった。
『フェイスブックにあります! エリー桐原!』
 その程度のことは、あのときもちろん試みていた。
 エリー桐原、42歳・・脇田は同い年だとは思ったが、職業そのほか公開されてはいなかった。姓名を逆にしてアカウントを取っているが、それもすでに試していた。新たにつくったページのようだ。

 トップの画像は緑に抱かれる白き洋館。真紅のドレスをまとったエリー自身の写真、そして同居している若い娘たちの写真を堂々と公開している。
 あのときの張り込みでは双眼鏡レベルで顔の細部まではわからなかった。くっきり映るエリーを凝視し、脇田は直感的に、どこかで見た顔立ちだと考えた。
 女は化粧で印象が変わってしまう。
「エリーの母はシンディか・・シンディ・・うーん・・」
 脇田は目が冴えて眠れない。喉に小骨が刺さったように記憶がひっかかっているようだ。

 うとうとした。深夜になって目が開いて、キッチンでお茶を飲む。
 そしてそのとき、テニスをしている息子が撮った山中湖越しの富士の写真が目に入る。秋の富士は透き通り、湖が青く美しかった。
「湖・・そうだわ・・そうだわモイラよ! 小田原署!」
 脇田は即座に田村にメールを入れておく。
 翌朝また田村と二人で小田原署。今日は嫌味な松崎が代休でいなかった。
 芦ノ湖を管轄する小田原署には、もちろん十年前の記録が残されている。

 前衛舞踊家、モイラ。

 モイラとはギリシャ神話で運命の女神を言う。
 エリーはいまから十年ほど前、芦ノ湖湖畔で全裸で踊り、猥褻物陳列で逮捕されていた。そのときは観衆も多く、芸術を認めない貧相な文化に批判が集まり物議を醸した。
 湖を背景に、霧のように薄い真紅のクロスをひらひらさせて、十歳若い全裸のエリーが踊っている。血のような赤は女の性だとモイラは語る。
 田村が言った。
「これでわかりましたね」
「おそらくね。森の中でヌードで踊り、下着を残していく・・」
「私有地でもあり、目に触れなければ犯罪にはならない。だいたいアートだ。犯罪であるはずがない。だとしたら正面切って訪ねてみたらどうでしょう?」
 それがいいと脇田も思った。下手に探るような真似をして不審者として向こうの署にでも通報されたら面倒なことになる。

「なんか面白くなってきましたね」
「あのね、推理小説じゃないんだから・・でもいいわね、それ。連絡してみる価値はある」
 フェイスブックにエリー本人のメールアドレスが書かれてあった。PCへのメールである。

『ほほほ・・この方は正直だわ。わたくしの下着が遺失物ですって・・ほほほ・・お招きしましょう』
『しかしマダム、明日には一人・・』
『かいません、わかるはずもないこと・・拒めば疑われるということもありますからね』

 その日の夕刻になって脇田のスマホに返信が。

 それに違いございませんわ かつての私はモイラ
 いまはその名は忘れましたが お騒がせして
 申し訳もございません 下着はどうぞお捨てください
 くわしいことはお逢いして・・桐原エリー

 ただひとつ 館は男子禁制としておりますので
 それだけはご了承くださいね


「ですって」
「ちぇっ!」
「あははは、残念無念? いいわ私だけで行って来る。納得できればすっきりするし、そのとき私は警官ではないんだから気も楽よ」
 田村は口惜しそうにちょっと笑った。

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