2016年11月16日

花嫁の森(三話)


三 話


 朝から空は青かった。時刻は九時になろうとした。

 怖いほどの原生樹林・・それまでにも似たような景色を知らないわけではなかったが、背筋の冷えるようなこの恐怖は何だろうと脇田は思った。

 かろうじて舗装された村道からいよいよ私有林へと踏み込んだ。その入り口に『私有地 立入禁止』の立て札。そしてその立て札を境に道は砂利道に変化して、しかもクルマ一台が通れる程度の林道へと変わってしまう。
 手つかずの森の只中へ。頼りない道筋は山のうねりに合わせるように右へ左へカーブが続き、踏み込むと前へも後ろへも見通しがきかなくなって、周囲ぐるりと森また森。さながら緑の海原に浮かぶ小舟のようでもあり、こんなところでパンクでもしようものなら遭難すると思えてくる。樹木が濃すぎて林床に光が届かず、ハンドルを握る目の高さから下にはほとんど下草が生えていない。
 これとよく似た景色を仕事柄見せられたことがある。青木ヶ原樹海。倒木が腐り、苔が覆う火山岩がそこら中に転がって、そんな中で無残な白骨死体が発見される。それに似ていると脇田は思い、進めど進めど奥へと続く道筋が怖くてならない。私有林は芦ノ湖の西側に広がって、静岡側から入るなら白き館のあるあたりまで地図上の直線距離で数キロはあるはずだった。

 それにしてもおかしい。芦ノ湖スカイライン側からなら、ほんの百メートルほどの距離なのに、なぜそちら側にルートがないのか・・。
 白き館は桐原エリーの祖父の代、昭和二十年代に造られている。芦ノ湖スカイラインの開通が昭和三十七年。しかしその頃ならともかくも、近い方へ道ぐらいは拓けたはず。
 舗装されない曲がりくねったこの道にも作為を感じる。外界への拒否。しかしなぜ? 樹海の恐怖に警察官としての直感的な疑念も加わって、脇田は独りで来たことを後悔していた。

 時速30キロ程度でおよそ二十分かかっているから距離にすれば10キロほどか。道筋がほぼ直線となる最後の森を抜けたところで、正面に白い洋館が見えてきて、ほどなく路肩の右側を拓いた砂利敷きの駐車場に到着した。
 大型の茶色のランドビークルが一台入っている。雨でも降れば道はぬかるみ四駆でなければ危険。街乗りのつもりでコンパクトカーで来たことも間違いだった。今日は捜査車両ではなく脇田の赤いツーボックス。ここへの途中、斜面がそれほどでもなかったので、急な登坂路を避けるために道がうねっていたのだろう。

 クルマを置いて歩き出すと、館が迫ってくるあたりから芝生を敷き詰めた道と言うのか庭先というのか・・広大なガーデンへと踏み込んで、館の玄関へとつながっていく。双眼鏡で綺麗に思えた館だったが、こうして近づいてみると古さは否めない。築六十年以上の木造にしては外観は白くて綺麗。広大な庭もよく手入れされていて、ところどころに配置された赤煉瓦で造った花壇に色とりどりの花が咲き誇っている。
 庭には東屋のように屋根のある場所が二カ所あり、脇田が訪れたとき、その双方でくつろいでいる五人の若い娘たちが一斉に視線を寄せて微笑んだ。
 娘たちは皆が白いロングドレス。髪の毛も皆が黒髪。茶髪があたりまえの外界から紛れ込むと鹿鳴館の時代へスリップしたようだった。

 ・・と、玄関の白いドアが開く。
 背丈の倍ほどもある大きなドアで、さながら中世ヨーロッパの邸宅のようでもある。白い洋館は二階建てであったが、外見では三階程度の高さがあり、これほどの森の中にあるにしては恐ろしく大きな建物。桐原エリーがいまだに莫大な財を抱えていることが想像できた。

 ドアが開き、まさに貴婦人という姿の桐原エリーが現れる。目の覚める真紅のロングドレスにシルバーラメのヒールサンダル。長い髪は色が浅く、光を受けて金色に輝いていた。顔立ちはイギリス人とのハーフにしては日本的で、抜けるように色が白い。背丈は脇田とほぼ同じ、百六十五センチほどかと思われた。
 そしてそのエリーの背後に、総白髪の男が一人・・しかしこちらは燕尾服などではなくて、ミスマッチとも言えるようなジーンズスタイル。背丈はエリーと並ぶほどで男としては小柄で華奢。歳は六十代の半ばあたりか。
 今日の脇田は、ベージュよりは茶色が強い夏のパンツスーツに淡いピンクのブラウスを合わせ、意識して警察色を消していた。規則で髪を浅くできず、濃い栗毛の肩までのヘヤー。足下はグレーのパンプスだった。

 数段の石段を経た玄関から、背後に男を留めたまま一人で庭へと降りたエリー。脇田がそれに歩み寄る。
「ようこそ、脇田さんでしたわね」
「こちらこそはじめまして。今日はプライベートですので」
 エリーは穏やかに微笑んでうなずくと、庭の二カ所でくつろぐ娘たちに言う。
「お客様です、はずしてちょうだい」
 娘らが一斉に立ち上がり、一人ずつ、ドレスの裾をちょっと開いて腰を折る欧米式の挨拶で微笑んで、館の中へと去っていく。
 娘らは皆すらりと背が高く、エリーよりものびやかな肢体をしている。一人ひとり綺麗な子ばかりだと脇田は思った。さぞ身分のある家の才女ばかりかと思われた。
 娘らが立った白いガーデンチェアへと脇田を導き、そのときエリーは、玄関前で控えていた初老の男に言うのだった。
「村木、お紅茶とお菓子でも」
「かしこまりました、ただいまお持ちいたします」
 村木と呼ばれた男は人が好さそうに微笑むと、娘らを邸内へと招きながら最後に中へと消えていく。

 そうした映画のようなシーンから、エリーは脇田を振り向いてちょっと笑った。
「村木と言います。父の友人で、この館を守ってくれていた。歳は七十三歳、生きていれば父と同じよ」
 七十三歳・・若く見えると脇田は思った。世間の狭間を離れて森に暮らすと老けないのかもしれない。
「警察の方なら、あるいはお調べになったかとは思いますが、私の父は芝崎孝志、母はシンディと申しましてイギリス人。どちらもとっくにおりません」
「はい、それは」
 と応じながらも、脇田は、すぐそばで見るエリーに驚嘆していた。同い年の四十二歳。エリーは若く、爽やかな色香にあふれている。スタイルがいい。聡明であることが物腰でうかがえる美しい女性であった。真紅のドレスがよく似合い、日本的な顔立ちからハーフだとも思えなかった。

「そして私は桐原と結ばれましたが夫もすでにおりません。当家はなぜか早死にする家系のようで、いまでは私一人が残ってしまった。私には子供もなく、
それで寂しくなって、村木が守ってくれていたこの館に住むことにしたんです」
「では、その頃からお嬢様方を?」
「いえいえ、それは二年ほど前からよ。現代に毒されない娘にしたいということで、あるお方のお嬢様をお預かりしたのが最初。預かると言いましても学校ではありませんから・・そうですね、長くて半年、短ければ三月ほどかしら。マナーやエチケットや、そんなことより、これほどの森ですからね、悠久の時を生きる自然の息づかいを感じて欲しくてはじめたもの・・あら」
 あら・・と、エリーは館の横へと眸をなげた。エリーの瞳は横から光線を透かすと濃いブルーに煌めいている。ハーフらしい宝石のような眸であった。

 黒光りする体毛・・引き締まった精悍な体つき・・しかし眸のやさしい二匹のドーベルマンがそろそろと歩んでくる。大きな犬だ。
「ふふふ、お客様がめずらしいみたい」
「綺麗な犬ですね」
「そうでしょう。彼らも大切な家族ですから」
 二匹の犬はエリーの足下まで近づきかけて、数歩前で立ち止まり、静かに寝そべってエリーを見つめる。主と目が合い、言われる前に控える姿になったのだ。よく躾けられた二匹である。
「左がソクラテス、右にいるのがナポレオン。勝手につけた名前ですけど」
 エリーが笑い、ちょうどそのとき村木がシルバートレイを運んでやってくる。アップルティとビスケット。
「どうぞ。ビスケットは私が今朝焼いたものですのよ」
「はい、では遠慮なくいただきます」
 ドライフルーツを練り込んだ生地をオーブンで焼いている。脇田もビスケットは作るから見当はつくものだったが、サクサクしていて味がいい。

「早速ですが、お話の方を先にしちゃいましょうね」
 エリーはティーカップに口をつけると、『見て』と言うように周囲の森へと手を流した。
「モイラだった頃の私は、天に向かって畏敬の念を持ち、授けていただいたこの女体をお楽しみいただくために全裸で踊った。大自然と心でつながり、女に生まれた体を慈しむように踊っていた。自然は神々そのものよ。神々と交信することで女の欲望は清められていくのです」
「・・はい」
「ですけど、いまの私は違います。森の男たちに捧げるため、呼ばれる方へと導かれ、森の男たちに視姦され、陵辱され、あられもない声を上げて果てきって、その場所に赤い下着を捧げてくる。私の下着が見つかるのは、つまり人々が入れる側の森だから。スカイラインに近いでしょ。ここまでおいでになられた道筋の側は森が深すぎて滅多に人は入りませんから、それで見つからないだけですの。でも、それでもしばらくして行ってみると下着は持ち去られて消えている。森の男たちが喜んで持っていくものと私は思うの」
「・・はい、なるほど」

 常識的な発想・・というより、誰も考えない特異な感覚。前衛芸術とはそうしたものだと理解しつつも、脇谷にはわからない世界であった。
 私有林の中で何をしようが、大衆の目に触れなければ問題はないだろうし、先ほどの娘らの穏やかな笑顔を見ていても事件性は感じられない。
「だけど・・うふふ・・していることはオナニーよね。昼夜、森は姿を変える。明るい森には神が棲み、闇の森には悪魔が蠢く。森の男たちはその都度違う。粗暴に犯す者もいれば、やさしく抱いてくれる者もいる。女の性を自然に捧げて生きていたい。そう思ってこの館に移り住んだのです」
「不思議なお話ですわね・・私などそこらの主婦ですので難しくて・・」
 するとエリーは目を丸くして笑うのだった。
「それをおっしゃるなら、私だってそこらの女よ。寂しがり屋で弱い・・脆い・・だから捧げるのです。求めようとするから女はどんどん苦しくなる。どうぞ犯してと森の男に性器を晒し・・でもそうすると男たちは守ってくれる。たとえば・・ほら」
 と言って、エリーはドレスを大きくまくり上げた。

 真っ白な腿には傷もない。
「夏の森よ。ヤブ蚊もいれば毒虫もいる。蛇だってもちろんいるでしょうし、イバラだってそこら中にあるものよ。なのに私はごらんの通りで虫刺されの痕もないわ。森の男たちは精霊です。精霊の女ですもの、邪悪な者どもには手が出せない。そしてね脇田さん」
「はい?」
「お預かりしたお嬢様方にも、そうした感性を授けてあげたい。心を捧げれば怖いものなんてない。それこそ愛だと思いませんか」
 理解できないわけではなかった。それほど純になれれば幸せだろうとは思うのだったが・・。
「では娘さんたちも森で?」
「いいえ、それはありません。そういう境地というのか、はっきり言って特殊な感受性がないと受け留めきれない世界でしょうし。ごく希に、森の男たちはこの庭に私を呼びます」
「・・え?」
「すがすがしい朝であることが多いのですが、そのとき娘らは、全裸でのたうち果てていく私を見ている。嬉しくて嬉しくて泣きながら際限のないアクメに狂う私を見ている。それだけで皆には充分だと思っておりますが・・」

 紅茶を飲み終わる頃になって、エリーは言う。
「せっかくお見えになられたんです、館の中もごらんになってくださいな。そうすればおわかりいただけると思うから」
 疑うことは何もないと感じて立ち上がろうとしたときだった。
「この館は父が母のためにこしらえたもの。母には特殊な力がありましてね、はっきり申し上げて、私の母は魔女でしたのよ」
「・・魔女・・とおっしゃいますと?」
「愛の魔女であり、父もそうだし村木もそうなのですが、二人は母の僕(しもべ)でした」
 にわかには理解できない。
「透き通った女心を相手の心に送り込んで虜にしてしまう。いまふうに言うのなら女王様なのでしょうがSMではありません。精神的な支配と言えばよろしいのでしょうが」
「それでこのお屋敷を?」
「そうです、何人たりと邪魔できない愛の場を隔絶されたこの森に造ったということで・・」
 沈黙しつつ探る脇田にエリーは言う。
「父も村木も精神的にはマゾでした。母に尽くすことでしか生きられない素敵な男性・・ふふふ、もちろん私は違いますよ。違いますけど、そんな母を尊敬するし、それ以上に母に捧げた二人の男性を尊敬する。それで村木がここに残ったというわけなんです」

 よくわからない・・しかし、自分の中で妙に乱れはじめる何かに脇田は戸惑う。
 それが突然襲いかかった性への欲求だと自覚できていたからだ。

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