2016年11月16日

三人姉妹(二話)


二 話


 奥秩父の仙人とからかい半分に言われていても、安西宗太郎の棲家は人里離れた奥地というわけでもなかった。
 秩父湖の周辺には標高千メートルを超える高山も多い。そんな中、湖の南西側、標高およそ七百五十メートルあたりの森の中に、古くからある小さな集落というのか十数軒が集まった村があり、その外れにあった廃屋を宗太郎が買い取って住めるように直した家。秩父湖の湖水面で標高五百三十メートルであるから、まあ中腹といったあたりだろう。
 村では過疎が進み、年寄りしか残っていなかったが、村道も整備されてクルマなら秩父湖から三十分ほどで行ける程度の距離しかなかった。

 そんな家の裏手の山を歩いて十分ほど登ると、そこに焼き物をこしらえるアトリエと窯がある。宗太郎は、敷地そっくり山肌を分割するように買い取って、つまりは家の敷地ということになるわけだが、いつ見てもくたびれた作務衣姿で、ごましお頭は肩まである無精髪、そこらの木をぶった切った仙人のごとき曲がり杖をついて家との間を行き来する宗太郎に、ついた呼び名が奥秩父の仙人というわけだ。
 曲がり杖をつくのは年老いたためではない。あたり一帯、山の中には毒蛇もいて、悪さをする野猿もいれば猪もいる。熊の目撃情報も絶えないから、足下の草を探ったり、イザとなれば戦う武器が必要だからだ。

 宗太郎が移り住んだときには十数軒あった家々も、いまでは七軒までに減っていた。朽ちかけた家をそのままに年寄りたちが出て行く。人が減って家だけが残る、さながら廃村の景色にも似ていただろう。
 とは言え、森を縫う村道は一応舗装はされていたし、電柱が立って電気は来ている。水はポンプで汲み上げる村共有の井戸。ガスはプロパンなのだが、いまだに竈で薪を使う家もある。ともかく都会とは何もかもが違う森の只中。
 そんな森に世田谷ナンバーの白いクルマがやってきたのは、八月中旬のことだった。三人が休みを合わせるとなると盆休みぐらいしかない。三泊する予定を組んだ。クルマは世田谷に住む早苗のものだった。

「わぁぁ凄い森・・怖いぐらい・・」
 運転は早苗、助手席には姉を立てて亜希子が座り、妹の希代美が後席にいる。木漏れ日が瞬くような森を見渡し、希代美が言った。
 しかし亜希子とは険悪で、ここまでの車中まるで口をきいていなかった。今度のことも早苗が仲立ちをするかたちで、亜希子は嫌々ついてきていた。
 早苗が言った。
「希代美はじめてだっけ?」
「うん、はじめて。こんなところによく住むよ、カルチャーショックだわ」
 早苗と亜希子は一度訪ねたことがある。そのとき亜希子は二度と嫌だと言っていた。森の夜は漆黒の闇。動物の足跡もそこらじゅうに残っていて、都会育ちの亜希子は怖い。亜希子は子供の頃から闇を怖がる。心霊現象を信じていたから霊が集まると言われる山が怖い。
 早苗が言った。
「私も最初はそうだった。父さんがいるとは言っても・・だって、ガードレールさえないんだよ」
 ここまでの道筋のあちこちに深い谷があり、舗装されているというだけでガードレールすらない。
「だよね、転がり落ちればお陀仏だわよ」
 道筋は森を縫い、前にも後ろにもクルマがいない。周囲ぐるりと緑一色。それでもまだ人間界の森だった。宗太郎のアトリエはさらに山に分け入って、人間界より自然界に近い場所にある。

「熊とかいそうね?」
 と、希代美が問う。
「いるみたいよ。ときどき目撃情報が上がってるし、猿も怖いんだって」
 と、早苗。
「猿・・野生よね?」
「もちろん野生よ。猪もいるし鹿も出るし、毒蛇もときどき見るって父さん言ってた」

 このとき早苗も希代美も内心ではほくそ笑んでいた。亜希子がもっとも怖がる場所。しかし早苗は、高慢な姉に少しソフトになってほしいと思うぐらいで、希代美のように懲らしめようとまでは思っていない。
 希代美は日頃おとなしい性格で、どちらかと言えばうじうじタイプ。なのに残酷なところがある。子供の頃からゴキブリなんかを平気で踏みつぶし、ちょっと怖い子だなと早苗は思っていた。
 そんな希代美が暴走しないよう早苗は間に立つつもり。このときまではそうだった。
 クルマを家の横の空き地に停める。七軒しかない集落の外れであり、隣りもその隣りも廃屋となっていたから、姉妹がやって来たことに気づく者もなかっただろう。家々の間にも木が茂り、夏のいまはとりわけ葉が多くて覆い隠す。
 エンジンを止めると一切の音が消える。森を抜けるそよ風の青臭さ、姿のない鳥の囀り・・それ以外に音のない静寂の世界。

 見渡して、希代美が言った。
「静かね・・」
 早苗が笑った。
「都会がうるさいだけ。私は好きよ、こういうところ」
 希代美が言う。
「夜怖い感じがしない?」
 早苗が言う。
「真っ暗だし、このへんて昔はいろいろあったみたい」
 希代美が言う。
「湖のあたりって心霊スポットも多いんでしょ? 自殺の名所だって聞くから?」
 早苗が、ちょっと亜希子を横目にして、言う。
「それもあるけど、ほら、落ち武者狩りとかもあったようだし」
 希代美が、ちょっと亜希子を横目にして、言う。
「それでなくても山には霊が集まるって言うもんね。落ち武者の骨ぐらい埋まっていそうな森なんだし・・」

 亜希子が、ちょっと笑って森を見渡しながら言った。
「よく住むよ、こんなところに・・霊がいたって鈍感だからわからないんでしょ。陶芸陶芸って言っても道楽なんだし、世を拗ねてるだけじゃない」
 それに対して希代美が言う。
「あら、そうかしら。父さんらしい生き方だと思うけど。純なのよ。こういうところにいたほうが汚れないもんじゃない」
 そう言って、ちょっと怒ったような眼差しを早苗に向ける希代美。怒りを共有して欲しい。
 けれど、鼻で笑って亜希子が言う。
「まあいいわ、あんたたちとは質が違うの。こういうところはたまに来るからいいのであって住むなんて冗談じゃない。本来、人が立ち入っちゃダメな場所なのよ。あの人は変人だから」
 あの人・・亜希子は宗太郎を父とは呼ばない。ママもママよ、何がよくてあんな男を選んだの・・そうした思いがあったからだ。

 姉のこういうところが彼を遠ざけていると早苗は思った。強がりが過ぎる。素直さがない。

 しかしこのとき、早苗の中に微妙な変化が生まれていた。自分はよくても、父や母を悪く言われると許せなくなってくる。損な性格だから彼にだって振り向いてもらえない。私が男でも希代美を選ぶと早苗は思う。
 そこへいくと妹の希代美は父を嫌ってはいないし、実母のことだって悪くは言わない。この際、希代美と二人で姉を懲らしめてやろう・・着いていきなり父を悪く言われ、早苗はちょっとムッとしていた。
「さあ入った入った、難しい話はおしまいよ」
 早苗は二人の背を押して玄関へと押し込んだ。
 この家は古い。玄関は窓のない板戸の引き戸で、入ると土間。それなりに広い土間の片隅には、いまは使っていない竈があって、時代と同居するようにリフォームされた流し台。大きな冷蔵庫が置いてある。
 入ってすぐ早苗は冷蔵庫を開けてみる。
「ほら見て、父さん買っておいてくれたんだ」
 肉や野菜、ジュース、半分にカットされたスイカまで、娘らのためにぎっしり詰まっている。

「当然よね、買い物なんてできない場所なんだから」

 今度こそ早苗はカチンときていた。父の心を踏みにじられた気分だった。
 ここへの途中で買い込んだ食料を流しに置いた。できるなら姉妹で楽しくと思ったのだが、いきなりこれでは思いやられる。
 そんなとき打ち合わせたように希代美が言った。
「まあいいじゃん、もうやめよ。せっかくだからスイカでもいただいて、お茶にしない」
 言いながらチラと早苗に横目を流し、希代美は流しに立っていた。
 このとき時刻は夕刻までには間がある四時前。この時刻に着くよう計算して東京を出てきている。姉妹三人ジーンズ姿。
 希代美が流しに立つ間、早苗は外に出て、家の前後に二カ所ある石で組んだ竈に火を入れ、積み上げてある杉の生枝と、そのために栽培している青ジソの枝を毟って、一緒にいぶす。白い煙が湧き上がってたなびいた。深い森では煙が留まり、杉とシソの煙は虫を遠ざける役目をするし、動物たちも本能的に煙を嫌う。
 虫よりも猿と熊除け。家の中では蚊取り線香を使える。宗太郎に教えられたことだった。

 流しには希代美がいて、亜希子一人が部屋へと上がって座っている。

 希代美はイザとなると迷ったものの、先ほどからの姉の態度が気に入らない。
手伝おうともしないし、見下すようなことを言う。
 そしてそのとき外から早苗が戻ってくる。
「しばらく窓は閉めておいてね、煙が入るから」
 窓のそばにいる亜希子は、返事もしないどころか・・。
「結局エアコンなんだよね・・ふふふ・・どうせそんなもんなんだから」
 とっさに早苗が言う。
「動物と虫除けのためじゃない、匂いがすれば来ないから」
 結局文明・・父の生き方が間違っていると言われたようなものだった。
 チラと流しに横目をやって、それに希代美もちょっとうなずき、紅茶に睡眠薬を溶かし込む。

 スイカと菓子それに紅茶が、脚をたためる丸い卓袱台(ちゃぶだい)に並ぶ。卓袱台そのものが都会の生活からは消えてしまった日本のスタイル。亜希子はそれにも眉を上げて見下す素振り。希代美と早苗は実行を決断した。
 亜希子はスイカに手をつけない。子供の頃に食べたような、皮付きのままカットしたものだったからだ。亜希子は皮を取ってブロックに切らないと食べない。それもまた早苗を怒らせた。
 洋菓子と紅茶。せっかくの森なのに、心遣いに応えようとはしてくれない。亜希子は相変わらず口をきこうともしなかった。
 希代美が言う。
「ねえ、お姉ちゃん」
「・・何よ?」
 亜希子は厳しい目を希代美に向ける。彼を奪われた怒りが消えない。
「彼のことよ。言い寄ってきたのは向こうなのよ、私からじゃないんだから。お姉ちゃんのことも言ったけど、彼女は友だちだって言うんだもん」
「・・」
「ねえ、わかってよ、奪ったわけじゃないんだから」

 亜希子は卓袱台をバンと叩いた。
「よく言うよ! そうなるように仕向けたんじゃない、色仕掛けで! サイテーよ泥棒猫め!」
 早苗は横から穏やかに言う。
「それ違うって姉さん、考えすぎよ、疑心暗鬼だわ。友だちとして紹介した私の身にもなってよね。恋愛なんて好き好きなんだし、彼だって二人の間を気にしちゃって辛いんだから」
 亜希子の怒りに火に油。
「こうなるだろうと思ってた! そんな話のために二人グルでこんなところへ呼び出して! あたし帰る! 近くの駅まで送ってちょうだい! もういい、絶交だからね二人とも! こんなところに泊まれない! 汚いし臭いし、あんなの父さんだなんて思ってないから!」

 勢い込んで立とうとした足下がふらついた。膝が折れてへたり込む亜希子。
 希代美がにやりと笑いを浮かべた。
「いいわ、わかった、こっちこそもういい。おまえなんか壊してやる。二度とそんな口がきけないようにしてやるからねっ!」
 亜希子は腰が抜け、立てなくなってもがく、もがく。そのうち言葉までが呂律が回らなくなってくる。
「何よ・・あぅ・・どうして・・あたしに何したの・・ひどい・・どうして私が・・こんなめに・・うぅぅーっ」
 そんな姉に、早苗は冷めた眸で言い放つ。
「いっぺん壊れたほうが身のためよ。泣いて泣いて反省なさい! 父さんのことにしたって悪く言うなんて許せない!」

「脱がせちゃえ! きゃはははっ!」
 希代美の声と同時に、妹二人が亜希子を組み伏せ、脱がせていく・・。

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