2016年11月09日

色無地

「ちょっと香苗さん、萩の間のお座布、また傾がっててよ! お座布積むときは角々を合わせてきっちりって言ったでしょ! そういうところの乱れが評判につながるの。何度言ったらわかるのかしら!」
「申し訳ございません、以後きっと、ちゃんとしますので」
「ほんとよ! お願いしますね! いちいちお尻拭いてまわってるようじゃたまったものじゃありませんから! 仲居は見た目だけよくてもダメなのよ! 美人だからってお高くとまってるんじゃありませんこと!」


 俺は身震いするものを感じていた。そのとき風呂上がりで浴衣姿。たまたまそこを通りがかった。仲居同士の立ち話。心ならずも物陰に隠れているしかなくなった。
 目下の不始末をただ注意したというだけでなく、その言いようには陰険な響きがあり、虐められていると感じてしまった。仲居は女同士。どろどろとした感情もあるのだろう。


 この旅館の仲居には二通りの装いがあり、いまの様子からも、どちらが格上なのかははっきりしている。若草色の色無地を着た女性と藤色の色無地の女性。美しく楚々としたその人は若草色。叱りつけていた方が藤色の着物。そう思って見渡してみると、かならずしも年嵩ということでなく、若草色の着物は多く、藤色が少ない。

 それはともかく、俺は胸が痛かった。この俺が彼女を見間違えるはずがない。
 見つけた!
 こんなところにいたなんて・・横顔を一目見て、だから俺は隠れているしかなくなった。

 北陸。金沢で生まれ育った俺が就職したのは十年も前になる。三十二になったいま昇進の話があり、そのため東京本社に半年間の研修に送り込まれていたのだった。
 それが二月ほど前のこと。支社と本社の温度差にも慣れ、ひさびさの三連休を手足をのばして過ごしたく温泉を思いついた。同僚が一緒だと仕事の延長であり、といって上京から二月足らずでは友だちもいなかった。

 万座。一人旅は気ままだが、いま思うと、なぜこの地のこの宿を選んだのか・・温泉地などいくらでもあるというのに。
 そしてそこで彼女に再会。もはや縁だとしか思えなかった。

 あれから二年・・早いものだ。

 二年前、俺は恋人をガンでなくした。香澄。進行の早い肺ガンで、見つけたときには手遅れだった。わずか十日で逝ってしまった。
 香澄と出会ったのは彼女がまだ二十歳の頃。そのとき俺は二十八で、八つ下の恋人だった。俺はすでにいまの会社に勤めていて、その夏の海で出会った。
 一目惚れ。美人というより可愛い子で、二年ほど付き合って彼女の卒業を待って結婚するつもりでいた。
 もうすぐ・・あと少しで一緒になれる。

 しかし運命は残酷だった。
 それから二年が過ぎ、俺はいまだ独身だったが、俺の中でアイツは死んではいなかった。

「こらこらエッチ! おっぱいタッチ一回十円! あはははっ!」
 明るい声がいまでも聞こえてくるようだ。
 愛していた。いまだ途切れることなく愛してきていた。

「末期ガン・・そんな・・」
 あのときのことが歳月など存在しないように瞼に浮かぶ。
 香澄どうしてだ? 悲しいよ香澄・・嘘だ・・嘘だろ?

 夏に知り合い、秋口になる頃に、彼女の家に呼ばれたんだ。お父さんは長く海外赴任。それでアイツ、実質母子家庭でお母さんと二人で暮らしていた。

「ママ、茂樹さんよ、いいオトコでしょ!」
「茂樹です、はじめまして。あ、あ、あ・・ええー?」
「あははは、びっくりしてるびっくりしてる、あはははっ! ママはね、十八で私を産んだのよ。だから娘二十歳でママは三十八。姉妹みたいに見えるでしょ」

 瓜ふたつ。ぞっとするほどそっくりだった。うまく言えないが、双子のお姉さんのようなお母さん。
「はじめまして、母の香苗です。私の名から一字をとってつけたのよ娘の名。可愛い子でしょう」
「は、はい!」
「あははは、カチンカチンになってるー、アソコみたいー。あはははっ!」
「これ香澄、何ですか女の子が! あぁんもう、何てこと言うのよ! うぷぷ、あはははっ!」


 そのお母さんが失踪した。父親のいない間の子供の死の責任は母にある。なぜもっと早く気づいてやれなかったのか・・苦しみもがいて家を出た人だった。

 香澄の死から二年。お母さんは四十二歳になるはずだったが、まるで何も変わっていない。長かった髪を切り、心なしかやつれたようにも見えてしまうが、しかしやはり若く美しく・・俺にとっては、愛した香澄がもう一人いるようなものだった。

 この宿を選んだのも香澄の意思に違いない。ママを助けてあげて。そんな香澄の声が聞こえたような気がする。

 あれから二年も過ぎて、にもかかわらず座布団を積む程度の初歩的なところで叱られているということは、流れ流れてこの地へやってきたのかも知れなかった。
 香苗さんは失踪し、その後、家がどうなったのか、それからのことはわからなかった。離婚したのか・・きっとそうだと思うのだが、苦労されていることは想像できた。嫁ぎ先を飛び出して、おそらく実家にも戻れずに・・そう思うと俺は震える。身震いする。


 しかし・・ここで下手に声をかければ彼女は去ろうとするだろう。香澄を愛し、その母に対して泣いてまで嫁さんにしたいと言った。
 新妻となるはずだった恋人を奪った、どうしようもない母親だと考えるに違いない。

 どうしよう・・どうすればいい。
 香澄、おまえだよな? おまえがここへ連れて来たんだ。


「ママを助けて。ママは悪くない、お願い助けてあげて」


 聞こえたよ・・ああ確かに聞こえたぜ!
 香澄はいまでも俺から離れずにいてくれる。 

 それで俺は、ともかく部屋に戻って着替え、宿の通用口を見渡せるところにクルマをまわし、時間をやり過ごしていたのだった。
 この旅館は山峡にあるにしては大きな宿だが、高級なところではない。それとなく探ってみたところ、大勢いる仲居の中には過去を背負って流れてくる女もいて…寮に住む者もいればアパートを借りる者もいるらしい・・それより深いところは訊けなかった。

 八時を過ぎて通用口に四人の女が現れた。仲居の着物の上に一枚羽織った姿。若草色が三人と藤色が一人。
 通用口を出たところで、また何やらいちゃもんをつけられているようで、若草色の三人がしきりに頭を下げて謝っている。

 クルマを降りて尾けてみる。藤色の一人はすぐに消えていなくなり、若草色の三人のうちの二人は、少し歩いたところの古くて大きな家に入って行く。そこは寮だと考えた。そして残った一人が、さらにその先へと歩いて行く。
 香苗さんはアパート暮らしをしているようだ。夜の山風が寂しげに流れていた。

 五分ほど尾けみて、そしたらそこに古くて汚いアパートがあったんだ。木造モルタル二階建ての八軒長屋。建物の大きさから察するに、よくて六畳一間、狭ければ四畳半かと思われた。
 彼女は二階。錆びついた鉄の階段を上がって行って・・俺はそっと後を追い、階段を上がった角から二軒目のドア・・茶色のドアの化粧板が雨風で板がうねってひどいものだ。いまどき学生でも敬遠するひどいアパート。ガチャガチャ鍵を回してやっと開く・・そんな暮らしだったんだ。


 そしてドアが開いたとき、俺は意を決して立ち上がり、歩み寄った。

「香苗さん」
「ぁ・・」
「僕です、茂樹です」

 このとき、なぜ香苗さんと呼んでしまったのか・・直前までお母さんとしか俺の中に言葉はなかった。

「茂樹さん・・どうしてここがわかったの?」
「偶然です、偶然ですが、アイツの声がしたんです」
「帰って・・帰ってください、お願いだからそっとしといて」
「いいえ、それじゃ香澄に顔向けできない、失礼しますよ!」
「あっ! 茂樹さんダメ!」
 白い細腕をつかんで俺が先に入り込み、部屋の中に引きずり込んだ。

 そのときふと手先を見ると、白くて小さな手ががさがさに荒れていた。
 俺は・・なぜかしら腹が立ってしかたがなかった。あの素敵なお母さんが何でこんな暮らしをしなければならないのか・・そんなような、わけのわからない怒りだった。

 狭い部屋だ。六畳一間に風呂などはなく、トイレと半間幅の申し訳程度のキッチンがついてるだけ。風呂は帰り際に宿で済ませてしまうのだろう。
 粗末で寂しい暮らしだったが、そこには切ないまでの女の匂いが満ちていた。香苗さんが二十ワットダブルの古い蛍光灯の紐を引いて明かりをつけて、そしたら壁際に置かれた小さな化粧台の上に、赤くて可愛いフォトスタンドにおさまった香澄が笑っていたんだね。


「やっと来たねー、この愚図ぅ! あはははっ!」 


 ああ声がする。ここにも香澄はいると実感できた。
 香苗さんは押し黙り、赤茶けた畳の上に座布団をすすめると、湯を沸かしてお茶を支度してくれた。

「香澄が夢枕に立ったんです」
「・・」
「それで何となくこの宿を予約して・・二泊で」
「引き会わせてくれたのかしらね、あの子が」
「そうですよ。これからは僕が守ります、守ってみせます」
「茂樹さん、あなた何を言ってるの。私なんて・・私なんて、あの子を殺して・・」
 言いかけた言葉を叩きつぶしてやった。言わせてはいけない言葉なんだ。
「それは違う! 香苗さんの中にはアイツがいる! 瓜二つだし・・それに香苗さんと僕は一回りしか違わない。僕ももう子供じゃありません。悲しいですよ香苗さん、香澄が好きで好きで・・僕はもうあなたの家族じゃないんですか」
「茂樹さん・・じゃあ、ご結婚はまだなの?」
「これからです! あなたとです! 離婚がまだなら引き裂いてやっても僕がもらう!」


 声の消えた長い時が流れていった。


「馬鹿な・・そんなことがどうしてできるの、おばあちゃんなのよ私なんて」
「でしたら香澄と一緒に暮らしましょう」
「え・・」
「香澄のところへ一緒に行ってほしいんだけど、そんなことをすれば向こうでアイツに殺される。香苗さん、僕を信じて僕の香澄に生まれ変わって!」


 香苗さんは立ち上がり、背を向けて着物を脱いでいく。

 真っ白でやさしい、香澄そっくりの裸身・・そして振り向いたとき・・涙を溜めて俺のプロポーズを受けてくれた、あのときの若い香澄がそこにいた。

「こんな女よ私って…それでもいいの?」


 あのときの香澄と同じ言葉を、あのときの香澄と同じように涙を流し、香苗が言った・・。