2016年11月15日
首なしの家(終話)
終 話
不思議な手が背を押してくれていると感じていた。厚かった雲にも切れ間が生まれ青い空が覗いている。
私の中の雨雲までが去っていくと思わずにはいられない。竹林からの細道は久利が嫌というほど歩いた道。首なし人形となって見守られる多くの女たちも私の前を歩いたはず。幻影となって白い女体が前を行き、女たちは後ろからやってくる全裸の私を振り向いて、その中を私は追い越すように歩いている。
首のない骨となった人が背を押してくれていると感じていた。家の裏まで歩み寄ったときだった。謙傲が両手をひろげて待っている。それさえも幻影なのか実像なのかわからない・・。
全裸の加奈江は涙をためて、父親のような謙傲の胸に抱かれていった。抱き締められて乳房がつぶれ、裸身がしなる・・そのときになって加奈江は自分が全裸であることに気づいていた。不思議な力が羞恥を消し去り、まるで赤子が父に抱かれるように、安心しきって飛び込んでいける・・加奈江は泣いた。
「久利のようだ・・おまえは似ている。久利のときもそうだった。この道を裸でやってきて僕の胸に飛び込んだものだ」
謙傲は加奈江の肩をしっかり抱いて家へと導き、あの雛壇の前に座らせた。 首のない人形たちの間から、いまはまだ首のあるフランス人形を手にすると、首を引き抜いて加奈江に手渡し、それから首をなくした体をそっと壇に座らせる。
あのとき久利がかぶっていた黒い全頭マスク。しなやかな生地をひろげるように頭にかぶせ、加奈江は生かされたまま首を失った。
「・・果・・」
「はい? か・・?」
「姜果がいいか・・」
「きょうか・・ですか?」
「姜という字は美と女が合わさったもの。果は果てしなく。果てしなく美しい女を生きていく」
「姜果・・それが私?」
マスクの目は黒くて細かな網であり、こちらから見えても相手からだと見透かせない。
マスクを与えられ、姜果の名を与えられ、そしたらそのとたん、加奈江の中に沈殿していた汚物のすべてが流れて消えた・・。
私にはもう首さえない。
感じる体を持つだけの女・・いいえ、それはきっと・・牝だと思った。
マゾヒズムという感情とも違う気がする。
私のままの私は首に封じ込めてしまってあり、首を失ったと自覚した瞬間、体が私らしい性体となって濡れはじめる。
お墓の中のあの人もきっとそう。
いまでも体は濡れていて、女を諦めずに眠っている。
生きているのに女を諦める人がいるというのに、骨になってまで心を濡らす人がいる。
そういうことなんだろうと思ったときに、私はマスクの意味に気がついた。
見る。聞く。笑う。泣く。考えたいことだってたくさんあるわ。
そんな心の動揺をマスクに隠しておけるから私は牝に徹していられる・・。
這えとおっしゃる。
性器もアナルもお見せして、私は私を隠さない。
指がくる・・濡れるラビアにそっとキスをいただいて、私は淫獣となってお尻を振ったわ。
慰めろとおっしゃる。
オナニーじゃない。姜果という淫獣を喜ばせるため私がする心からの愛撫です。ぺちょぺちょといやらしい音がしたって、それは姜果の歓びであり、羞恥に赤らむ表情は隠しておける。
縛るとおっしゃる。
柱を背抱きにされて両足を頭の上まで引き上げられて、どくどくと淫水を垂らしながら、苦しくて苦しくて、なのに解き放たれて・・姜果はイク・・。
それはちょうどセックスのとき、眉間にシワを寄せて喘いでおきながら、最後の一瞬、ふ・・と微笑み、心が軽くなっていくようで・・。
そうなんだ・・快楽とは苦しみに耐えたことで与えられるご褒美なんだ・・。
ちょっとそう考えて笑ってみるけど、それさえもマスクに隠れて外には出ない。
涙を流し続けた苦しかった縄が解かれたとき、姜果は狂ったようにご主人様の勃起を求める。むしゃぶりついて・・それこそ獣が血肉を喰らうように・・初老の穏やかな勃起から放たれる樹液をいただく。
やさしく抱いていただいて、嬉しくて震えてしまう。
体のアクメより心のアクメが先に来て、痙攣するほど姜果は震える。
三木加奈江は失踪しました。実家に戻ってクルマを置いて、まるで手ぶらでふらりと出かけ、姜果と名を変え、ご主人様のおそばにいる。
鞭の痕が痛々しいけど、それはすぐに消え去って、すぐにまた欲しくなる。
本心を拒絶するのは首から上の加奈江であって、首のない姜果は一切を受け入れて、のたうち転げ、天をめがけて果てていく。
愛を考え、愛に苦しむ・・それも首があるからよ。
竹林の黒いステージで姜果は踊る。透き通った流れの中に熱い体が崩れ去ったとき、マスクの中の加奈江の顔は微笑んでいることでしょう。
私はいったい何者なのか。それにもきっぱり答えが出せる。
姜果は女体。体だけの生き物なんだと安心できるし、骨となって、それでも女を誇って眠っている彼女のように誇らしく生きている。
首のない姜果という生き方が好き・・私そのものだからです。
日本刀が普通だった時代のこと。処刑という恐ろしいシナリオをご主人様は描かない。そうじゃない。朽ちた体を灰にせずにそばに置く主の想い・・ご主人様はそう考えていらっしゃる。
女に生まれてお仕えしたい最高の男性・・そう思えてならないの。
森の中を裸でお散歩させられて、穏やかに見つめられていながら排泄だってできるようになっている。なのに私はマゾじゃないと言い切れる。
マゾヒズムなんて首から上が考えるこざかしい発想よ。首のない姜果には意味のない哲学でしかありません。
首のない人骨と眠れとおっしゃる。
ただしそのときマスクはいらない。穴の奥で人知れず加奈江に戻れる時間。
お墓の中に女同士で眠る・・漆黒の闇の底で。
私だっていつか没する。灰にされて消えてしまい、そのとき愛も消失する。
彼女のように、いつまでもいつまでも女の体を残しておきたい。
ムシロに眠る。
体中を可愛がってくださる手の感触。
濡れる・・濡れる・・イク・・私は果てる・・。
錯覚なのか・・夢なのか・・。
いいえ、加奈江は彼女に愛されているんです。恐怖なんて感じません。首のない私には恐怖さえないんです。
首から上があることが女を生きる怖さだから・・。
首なしの家(四話)
四 話
謙傲と久利という女の暮らしが心に焼き付いて消えていかない。父と娘のようでも主とM女の性関係は成立していて、愛奴という言葉がこれほど素直に受け取れる女の生き様はないのではないか。常識的なレールを滑る限り到達できない深い愛の世界を見せつけられたような気がする。
その夜、実家に戻った加奈江は、懐かしい自分の部屋にこもり、受け取った手書きの原稿をひろげていた。無機質なワープロ原稿ばかりを見慣れた加奈江にとって、ひどく古い作家の人と成りを読むようでもあり、謙傲のぬくもりが残る原稿用紙を撫でるように扱いながら物語の中に入り込んでしまっていた。
結婚できない女から物語ははじまった。幼い頃の女は群れている。仲良し三人組などというが、加奈江にも覚えがあった。大切な友だちだと思い女心を共有するように付き合っていたつもりが、一人に彼ができ、また一人に彼ができ、気づいてみたら自分だけが取り残されてしまっている。やがて友人たちは結婚し、そうなるとますます疎遠になって、女同士の友情がいかに便宜上の関係だったのかを思い知らされる。寂しいし口惜しいし、それまでの楽しかった時間が何だったのかと考えると虚しくもなる。
そんな残り物の娘が、あるとき離島へ旅をする。なぜか若い娘ばかりが暮らす南海の島なのだが、そこは性奴隷の牧場だった。船がないから逃げられない。夜な夜な屈強な男たちがやってきては一夜の女を奪い合い、獣のごとく女体を貪って帰っていく。女が島を出たければ一人の男に愛されて妻として迎えられるしかない。まさに現代女性への風刺だと思って読んでいた。
「おい新入り! おまえの名は!」
「はい・・加奈江です」
「加奈江・・そうか加奈江・・さっさと脱げ!」
「加奈江さん・・ねえ、加奈江さんよね?」
「うわっ・・は、はい?」
物語の中に取り込まれて歩いていて、後ろから声をかけられた。十日ほどが過ぎていた。品川駅。
「久利さん・・どうして?」
「いまちょっといいでしょうか?」
カフェ。竹林を背景に全裸で踊った首なし女が、今日は都会に溶け込んで、見違えるように若々しい。物腰のしなやかな人。こうして街中で会うと、ますます勝てないと感じてしまう。
謙傲のもとを出されてきた・・結婚するお相手のところにいると言う。
「今度こそ、ご主人様なんですよ。妻として生涯を捧げるお方・・」
微笑みに女の自信が満ちている。そう思うからかもしれないが、愛を得た女の顔だと思えてならない。
「やっぱりS様なんですね?」
「いいえ違う。M女の心で嫁ぐというだけで・・」
久利は二十九歳、二十四のときから五年を謙傲のもとで過ごし、躾けられて現世に戻った人。まるで物語の中の女を見るような気分になる。
「首のない五年は終わりましたの。首のない私をご主人様は見ていてくださる。それだけで充分ですわ・・」
それさえあれば生きていける。揺るがない女の顔・・首を失い、与えられた首は新しい首・・このときの加奈江にとって久利は、はるか遠くにいる存在のようだった。
「先生と言うと怒られますが・・ふふふ、先生ったら、新しいお人形をあの壇に飾っておられる。いまはまだ首のあるお人形」
加奈江はドキドキしていた。もしや・・。
「それは加奈江さん、あなたです」
怖気がした・・ゾッとする恐怖と、その何倍も感じはじめる女の体。加奈江は言葉も返せず、生唾を隠して飲むような気分になる。
「先生は・・いまはお一人?」
久利はうなずく。
「あの方は私といたってお一人ですのよ。孤独というより孤高でしょうか。でもそれは、とても届かない高みかと言えばそうでもなくて、すぐ隣にいてくださる不思議な孤高・・きっと先生の弱さだと思うんですけど」
謙傲への憧れ・・それは久利への憧れでもあり、あの山の中での暮らしへの夢でもある。加奈江は自分のM性を意識しながらもマゾだと思ったことはない。
行為ではない。M性とは、それを発動できる相手に巡り会えたとき蠢きはじめる女心・・女でいたいのに、そうはさせてくれない社会の中で、ほとんど使うことのない心の奥底にある心・・。
加奈江は、首を切り離した私がどうなっていくのかと思うと、たまらず謙傲に会いたくなった。見えない。聞こえない。声も失う。考えることもないに違いない。そうなったとき残るのは女体だけ。本能のままに動くしかない体だけ。
そしてその週末、加奈江はアポも取らず、前夜にはまた実家に泊まり、朝まだ暗いうちにハンドルを握っていた。
首なし人形の飾られる猟奇の家へ・・新調した真紅の下着を選んでいた。
草っ原に置かれた黄色のジムニーの隣にクルマを停めて歩き出す。今日は空が暗く、いまにも雨になりそうだった。降りだせば道はぬかるみ四駆でなければ脱出できない・・と言うか、このまま現世から消えてしまいたい気分にさせる、それほどの緑の世界。
見た目に廃屋そのままの家が見えだしたとき、謙傲は、焦げ茶の作務衣の姿で家の前の小さな畑でクワを振るっていたのだった。現代の仙人。まさにそんな姿に思えた謙傲。
加奈江は怖かった。帰れ。おまえの来るところではない。拒絶されそうな気がしたし、そんなことになったら私は自信をなくしてしまう。しかし顔を上げた謙傲は穏やかだった。
「どうやらまたスカートを間違えたようだね」
頬が燃えだす気分。ミニスカート。最初のあのときより短いものを選んで穿いた。女心を見透かして欲しかった。
背を押されて家へと入り、襖を開け放った板の間に飾られる人形のたちの隅に置かれた首のあるフランス人形に目を奪われる。
「久利さんにお会いしました・・ほんと偶然に・・」
「なるほど、それで来たというわけか」
「・・このお人形」
「さてね・・首のあるままにしておくか首なしにするのか・・しかしその前に見せたいものがある。ついておいで」
今日の加奈江は少し大きなスポーツバッグを持ち込んだ。バッグを置くと手ぶら。あのときのように謙傲の前に立って竹林へと歩かされる。一跨ぎの流れがあって、黒い暗幕がかかっていて、謙傲はその黒い背景の裏へと加奈江の背を押した。
鬱蒼とした竹林だったが、歩く道筋だけは草が刈られて整えられる。
その奥に、下草と枯れ竹の葉に埋もれるように斜めになった板戸のドア。古いものだ。地下に何かが隠されている。
「防空壕そのままの造りなんだが、こんな山に空襲などあろうはずもない。さあ入って」
斜めに観音開きとなるドアを開けて謙傲が先に入り、数段の階段を降りていくと、土だった穴が岩肌の洞窟となって奥へと続く。湿り気のあるかすかなカビ臭さが歳月を物語り、蝋燭だけの明かりに闇がゆらゆら揺れていた。
中の空気がいくぶん暖かい。ここは伊豆。岩盤の底で温泉と触れ合っているのかもしれない。それに、窓などもちろんない洞窟なのに空気が動く感じがする。岩盤の裂け目から外気が流れ込んでいるようだった。
謙傲は言った。
「ここを見つけたとき、明らかに隠してあった。竹をかぶせて葉っぱが覆い、何だろうと思ったものだ」
声が岩に響いている。
「ここは墓だよ」
「お墓・・」
洞窟は奥に深く、ところどころに置いてある燭台の蝋燭を灯しながら進む。
最後のところが行き止まりで、そこには板石が横たえられて・・最後の蝋燭に火をつけたとき、眠る者の姿が見えた。
首のない白骨死体。骨が茶色になるほど古いもの。
慄然とした。恐怖に身が竦み膝頭が震えてくる。人体模型ではない。
横たわる人骨の前へと歩いた謙傲は、掌を合わせて、それから言った。
「骨盤のところを見てごらん。股の穴が大きいだろう」
「では女性?」
「うむ女だ。警察にとも思ったものだが、しかし安らかな眠りを暴きあげては可哀想だと思ってね。どうして首がないのか・・昭和のこの頃は戦争の前後だったに違いない。軍属が隠れ住んだ家。主に殺されたのか、死んでから首だけを持ち去られたのか・・考えようはいくらでもあり、悲劇とは思いたくない。主の元に体だけを残して首は天へと召されていった。そうであってほしいと思う」
「それで首を・・?」
「ふふふ、パクリだよ、作家にあるまじき盗作だ。しかしごらん、首などなくても安心して眠っていると思わないか。着物は最初からなかった。全裸で横たえられて朽ち果てるまで主に見守られ、いまだに静かに眠っている。見つけたときバラバラだった骨を僕が綺麗にしてあげた。彼女は喜んでくれたと思う」
板石の下にはムシロが敷かれてあって、燭台と線香を供えることができるようになっている。骨の胸のところに少ししおれた花束が置かれてあり、花は山に自生する名もなき花。
「したがってここを離れられない。独りぽっちでは可哀想だからね」
「・・幸せだと思います、こうしてお花を飾ってもらって・・」
「だといいが・・だからね加奈江」
「はい?」
「久利もそうだが、新しい首を与えてくれるのは僕ではないのだよ。彼女がその澄んだ心で相手を見極め、女の歓びに満たされる顔をくれる。そう思っているんだが・・まあ、滅多に見せない秘密だ。ここを知る女たちは彼女に会うためやってきて、久利のように踊っていく。快楽の声は、骨となった彼女へ捧げる愛の声。さて・・では僕は遠慮しよう」
「え・・」
「しばらく彼女と話すことだ。女同士、心のままに。久利が言っていた。声に出して話しかけると応えてくれると。飾りを脱いで話すことだ」
謙傲は静かに歩み去り、蝋燭の揺らぐ闇の中に加奈江は全裸で正座をして向き合った。隠すものは何もない。女同士二人きりの空間に、もはや恐怖は感じない。
「怖いんです・・何もかもが。生きているのが怖くなる。友だちたちの誰かが幸せそうだと思うと妬んでしまい・・不幸だと聞くと心のどこかで笑ってる。待っているのに、何を待っているかもわからず・・自分勝手に寂しくなって泣いたりします。
私はひどく汚れていると考えると自己嫌悪に陥りますし・・そんな私を罰したくて自虐的になったりする・・高校の頃でした、針で乳首を刺してみて、ああ痛みだけは信じられると思ったの・・私はいったい何者なのかと考えてみたりした。そのうちには諦めて考えなくなっていて・・それもまた自己嫌悪。久利さんにお会いして悲しくなったわ・・羨ましい・・私じゃとてもムリって思いましたし、やっぱり妬みの感情が・・女は嫌です、どろどろだもん・・やりきれない。今日のことにしたって、いまどうしてここにいるのか・・何しに来たのかもわかりません。謙傲さんに躾けられて首のない私へ変わっていく・・そうは思っても、やっぱり怖くて尻込みしちゃう・・厳しくされたい・・なのにやさしくされたい・・私は私がわからないの。マゾなのか・・牝でいたいだけの淫乱なのか・・セックスって何・・妊娠して赤ちゃんを産んで・・そのうち抱いてくれなくなって・・わからないの・・どうして生きているかもわからない・・」
『お立ち』
声がした。確かに聞こえた。加奈江はゾーッとする恐怖を感じながらも、操られるように立ち上がった。
「ああ、そんな・・」
後ろから抱かれるような・・それは気配。体をつつむような誰かの腕の感触にハッとして、二つの乳房を見下ろすと、白い乳房の張りが揉まれるように蠢いている。
「嘘よ・・そんなことって・・」
恐怖の震えが性的な震えへと変化していく。気配は心に熱をくれた。
「抱いてくれるの・・私を抱いてくださるの・・?」
目を見開いて自分の乳房を見つめている。肌に指の跡が蠢いて、そのことが信じられない快楽を連れてくる。
「ぁぁ感じます・・震えちゃう・・」
裸身のすべてが震えだすようだった。溶けていく。涙があふれだして止められない。夢なのかと思っても、体中を撫でられる感触は現実の愛撫・・加奈江の心は山の緑のうねりのように、ゆらゆらと揺れていて・・信じられない心地よさにつつまれていたのだった。
抱きくるむやさしい抱擁が去っていき、加奈江は全裸のまま、下着をつけることさえ忘れたように、首のない女の墓を出たのだった。
ウグイスが啼いている。汚れを洗われた心に吹き渡る風のように、ウグイスの声が流れてきていた。
首なしの家(三話)
三 話
謙傲の小説に濡らした中学生の自分への回想、そしていま隣にその謙傲がいる不思議な感覚と、謙傲への複雑な感情。それらのすべてが一瞬にして吹き飛んだ。加奈江にもはや声はなかった。
黒いロングローブをまとって現れた久利は最初から裸足。首から上をすっぽり黒い全頭マスクで覆っていたのだが、そのマスクは伸縮するしなやかな生地でつくられていて、鼻の穴があるだけで目の穴さえもないものだった。近づくと目の穴には黒いストッキングを縫い付けたような透かし穴が開いていて、遠目には黒一色で目さえないように思えるもの。
そんな姿で久利は主と加奈江の間まで歩み寄ると、謙傲は「はじめなさい」と言いつけた。
「はい、ご主人様」
黒いローブを脱ぐ久利。加奈江は心臓が壊れたように脈動が狂っていた。
一糸まとわぬ全裸。陰毛さえ奪われた白いデルタに淫らな女陰が剥き出しとなっていて、久利は着痩せするらしく、腿も腰も、乳房も豊か。くびれて張る美しい体をしている。
乳首にも性器にも想像したようなピアスなどはされていなく、真っ白な裸身には鞭痕のようなものも皆無であった。全裸となった久利は、まず最初に加奈江の足下に平伏して言う。
「どうぞ私をお楽しみいただいて、お笑いいただければ幸いです」
それから謙傲の足下へと裸身を移し地べたに額をこするように平伏す久利。
「でははじめさせていただきます。ふふふ、嬉しいです、ご主人様」
久利は笑った・・どうして笑えるのか・・主への思慕の念を物語る久利の声に、加奈江は胸が熱くなる。謙傲は手を差し出して全頭マスクの頭を撫でる。
「うんうん、楽しんで踊りなさい」
「はい! では」
背を向けて、ほんの一歩の流れを渡って向こう側に立つ久利。背中にも尻にも傷らしきものはない。そして、そんな久利を見送るような謙傲の慈愛に満ちた面色に可愛い可愛いと書いてあるようで、それだけで加奈江は打ちのめされていたのだった。
流れを渡ってこちら向きになったとき加奈江は背景の暗幕の意味を悟った。艶のない黒背景に艶のない黒い全頭マスク。久利は首をなくした全裸の女体。首から下だけで存在する女のように見えるのだ。
「今日はお客様がおいでだ、いつもより激しく。乳首からだよ」
久利の黒い頭がうなずくのはわかったが久利は返事をしなかった。首がなければ言葉もないということか・・。
Cサイズアップの美しい乳房の先で、乳首が乳輪をすぼめて尖り勃つ。久利は両手で乳首をつまみ上げると、力を込めてツネリつぶし、乳首で乳房を吊るように引き延ばすと振り回し、そうしながら全身をしなしな、くねくね、S字を描くように揺れ踊る。
謙傲は言う。
「だんだん激しくなってきます・・ふふふ、踊らなければいられない。スプレーさせてないのでね」
ヤブ蚊の総攻撃。動きがちょっとでも止まると刺されてしまう。
「はぁぁ・・ンっンっ!」
痛いのだろう、恥ずかしいのだろう・・だけど感じて感じてたまらない。
調教された牝奴隷の声は最初から甘かった。
「もっとだもっと。尻を振って」
黒いマスクがうなずく。それからはセックスの腰使い。尻がすぼみ、肉がゆるみ、腰が回って裸身がしなる。
「あっ! ンンーっ!」
「いいのか? 嬉しいんだな?」
黒いマスクが大きくうなずき、けれども乳首が悲鳴を上げるようにツネリつぶされ、円錐に伸び上がった乳房が振り回される。
「女たちはこうして踊り、そのときマスクの中にあって僕にさえ見せなかった、もっとも美しい牝の顔だけを持ち帰って大切にしている。いまでもときどき訪ねて来ては、こうして踊って帰っていく・・」
濡れていた。加奈江はとっくに濡らしていた。
喘ぎ・・呻き・・よがり悶え・・裸身をまたたく間に汗だくにしながら踊り狂うマゾ牝、久利。方々からヤブ蚊に責められ、動きを止めるわけにはいかなかった。
「よし、乳を揉みしだけ」
大きく何度もうなずいて、両手で乳房を揉み上げる久利。脚を開いてバランスを取りながら、しかしときどき内腿をぴったりつけてこすり合わせる。クリトリスが刺激されて感じるからだ。もっと感じたいのに主は性器を嬲ることを許さなかった。
踊るというより飛び跳ねる・・左へ一歩、右へ一歩、素早く回ってくねくね踊る。
そうしなければヤブ蚊はますます増えていく。
ものの五分で球の汗・・。
「よし嬲れ」
何度もうなずく黒い頭。片手で乳房を揉みしだき、いよいよ片手がデルタの底へと忍び込み、そうなるともうガニ股となってしまい、狂った手指に犯される。
「あぅ! んっんっ・・ぅく・・ぅく・・うくーっ!」
言葉を封じられているからだろう。ぅく、ぅく・・それはイクイクという言葉。
加奈江はパンティを透かすほど濡れ出す自分の性器を感じていた。
立ったまま果てていながら倒れることを許されない。倒れて動きが止まったとたんヤブ蚊どもにボロボロにされてしまう。
全身が痙攣している。乳房も・・腹も・・たぷたぷ揺れる太腿も・・真っ白な尻肉もぶるぶる震えて痙攣している。
「よし、探れ」
待ちに待った主の声らしく、久利は透き通った流れに飛び込むと、体に水をかけて汗を流す。流れは浅い。
汗の匂いが薄らいで肌が冷えればヤブ蚊はいっとき遠のいてくれるもの。流れの中にしゃがみ込んで、水に両手を突っ込んで底をまさぐる久利。
あった! それは茄子のような形をしたすべやかな石。
久利はそれを主に見せると、ふたたび向こう側の岸に上がって、がに股に腿を開く。断面の丸い太い石が、いともたやすく膣に没した。
「はうぅーっ! ああぁーン!」
腰を使いながら右手に握った石のディルドを突き込む久利。牝らしい声が竹林に吸われて消えていく。
うくーっ、うくぅーっ・・イクイクと限界を告げる首なし女。それでも倒れるわけにはいかなかった。乳房をバウンドさせて踊りながら、尻を振ってもがく久利。
加奈江は涙をこらえていた。変態的な光景だったが、心の中にあるものは羨望・・ああして果てていければ幸せだろうと考える。
「キィィーッ! ぁキィィーッ!」
金属的な悲鳴に変わり、腰の動きが止まったとき・・。
「よし流せ」
ズボリと抜き取られた石のペニス。久利は流れに崩れるように踏み込むと、裸身を横たえて汗と愛液を流しきる。
朦朧としているのだろう。ふらふらになって流れを去り、主の元へと歩み寄る久利。謙傲は両手をひろげ、久利は声もなくしなだれ崩れて主の腕に抱かれていた。謙傲は体にローブを掛けてやり、黒い頭ごとすっぽりと抱きくるむ。
「ご主人様・・ああ、ご主人様・・」
「うむ、よくやったぞ、気持ちいいな?」
「はい溶けそう・・あぁ溶けそう・・」
口惜しい・・快楽の沼に沈んだような首なし女。
どうして私にはそんな快楽がやってこないのか・・口惜しさだけが加奈江にあった。寄り添って主に抱きかかえられるように歩く久利が羨ましい。黒い頭をすりつけて甘えている。
家に戻って、久利だけが板の間に倒れ込み、そばに座って膝枕をしてやりながら謙傲は言う。
「原稿はそこにある。しかし加奈江」
「は、はい・・」
加奈江・・呼び捨てにされたとき、加奈江はいきなり襲いかかる寒気を抑えることができなくなった。
「まだちょっと早いが、よければ久利と飯でもどうだね。そうだな久利?」
時刻はまだ四時前だった。
「はい・・ぜひご一緒に」
主の膝で顔を向けた久利。マスクを取れば笑っているだろうと思える口調。
加奈江は断れない。
「はい、ご迷惑でなければ・・ありがとうございます」
そのとき久利が言うのだった。
「先にお風呂にしますね、濡らしておいででしょうから」
カーッと燃え上がる羞恥。パンティを素通しにする粘液を早くどうにかしたかった。
謙傲が意地悪く微笑んで言う。
「だそうですよ。濡らしておいでか?」
加奈江は唇を噛んでうつむきながら言った。
「はい、すごく・・久利さんが羨ましくて・・」
謙傲は真顔でしばし見つめると破顔してうなずいた。
「では支度をさせましょう」
久利は言われる前に主の膝を離れて立って、奥へと消えていく。
謙傲が言う。
「女は女体の上に首がつくから苦しいもの」
「・・はい」
「気に入りましたよ、加奈江のこと」
誰に何を言われるよりも震えるほど嬉しかった。
この人だと心に決めた。
加奈江は用意された原稿をショルダーバッグにしまうと、手伝いますと言ってその場を離れた。一緒にいると、いますぐ責めて欲しくなる。
裏へ回ると、土間にある薪を使う古い廚とは別に台所が造られていて、その横から外に出ると風呂の小屋が建っていた。久利は風呂の焚き口に火を入れて戻ったところ。黒いマスクもローブも脱いで、あたりまえの女の姿に戻っていた。
「楽しんでいただけましたでしょうか?」
加奈江は、違う、そうじゃないと首を振り、はにかむような上目づかいで言うのだった。
「もうべちょべちょ・・困ったわ」
久利はちょっとうなずくと、すっと歩み寄って加奈江の頬にキスをした。
「ご主人様のおそばへ来て五年になります」
「ええ」
「ご主人様のお書きになるご本が好きで読み耽っていたんです。どうしてもお会いしたくなり、出版社に無理を言って合わせてもらった。だけどそのとき首のないお人形は三体だけ。決まった愛奴さんもいなかった」
「それは私も。中学の頃に読んだ宇宙エッチに笑い転げて、でもいつの間にか感動していた・・」
久利はうなずく。
「私は失踪した身」
「失踪・・」
「悲しいことがありすぎました。もう嫌・・たまらない。それでね、私が来てからなんですよ、お人形が増えだしたのは。人伝に聞いて・・あるいは私と同じように出版社に掛け合う人も多いようで。それまでご主人様は受け付けなかったものなんですが」
謙傲の本を出している出版社は、かつては他にもあって、この久利もルート違いでこの家にたどり着いたようだった。
「じつは私・・もうすぐここを出るんです」
「え・・」
「こんな私でもいいと言ってくださる方がいて、その方のおそばへ行くの」
「結婚?」
「そうです。ご主人様は、そのために私をそばにおいたと言ってくださって・・ほんとの父より父のようで・・」
女の人生を変えてくれる謙傲。やっぱりそうだ、物語に描かれる情愛を持った人。加奈江は心が騒いでいた。
首なしの家(二話)
二 話
初対面の加奈江の動揺を見透かしておきながら柔和に微笑む謙傲の眸。
しかし加奈江は凍ったように目がそらせなくなっていた。思春期の頃から自分のM性に気づいていたが、開花するも何も、それがマゾ花の蕾かどうかもわからなかったし、だいたいそれほどの男に出会ったことがない。
「あなたはいい眸をしているね」
「・・そうですか」
「それもまた久利に通じる」
それから謙傲はふたたび久利を呼び寄せた。どうやらいいようだから襖を開け放ちなさいと言う。田の字造りの古い家の造作は、入ってすぐの板の間が田の字の右下の空間。襖を開けると『田』の右上にあたる部屋がもう一間板の間で、左の上下が畳の部屋。この家は山の中の古い農家にしては一部屋が大きかった。
「さあ、こちらへ」
謙傲はもう一部屋ある板の間へと加奈江を誘う。一歩踏み込み、早苗はうすら寒いものを感じて・・と言うのか、悪魔的なものを見せられて、今度こそ震えがきていた。
「ここはその昔、ある軍属が隠れ住んだ家でしてね」
「軍属?」
「つまりは裏切り者というわけです。この山の中で農民となり、ひっそり生きて死んでいった。僕はここを友人の伝(つて)で手に入れたが、そのときはそんなことだとは知らなかった。まあ、いろいろとあるわけです」
「はあ・・」
そんなことは加奈江の耳には入らなかった。加奈江は呆然と立ち尽くし、震えだす膝頭を自覚しながらどうすることもできなった。
板の間の一方の壁際に雛壇がつくられていて緋毛氈が敷いてある。その段に、フランス人形に市松人形がちらほら混じる二十体ほどの人形が飾られてあったのだが、それらのどれもに首がない。首なし娘が大挙して飾られているようだった。
「この中の一体が久利というわけです。どういうことかは言いませんが、あなたも女性ならよく考えてみることですね。それと先に言っておきますが原稿はまだできていない。今夜にでも仕上げようと思っているから明日もう一度来てくれないか」
「・・はい、それはかまいませんが」
加奈江は背を押されて人形たちの前に立った。人形はどれも、そう古いというわけでもなくて、よく手入れされていて、首がないから粗末に扱われているわけではなさそうだった。
「あの・・」
「うむ? 何だね言ってみなさい」
どうして問いかけたのか、加奈江はしまったと思ったが、謙傲という男に魅入られてしまっていた。
「首は・・?」
「それぞれ女たちが大切に持っている。体だけをここに置いてね。久利の顔は久利が持つ。それは女たちの誇りであるから。では今日はここまでだ、明日またいらっしゃい。首のない体。その意味をよく考えてみることです」
加奈江は一刻も早くこの家を出たかった。不気味さと言葉にならない緊張。謙傲という男の怖さを凝縮したような空間であり、そんな世界に自分までが絡め取られてしまいそう。
久利と言う女にクルマを停めた草っ原まで送られて、クルマに乗ろうとしたときだった。
「明日きっと・・お待ち申し上げておりますね」
明日きっと? 逃げるなという意味なのか、明日きっとあなたは・・そんな意味が含まれているのか、加奈江はますます震えがくる。
明日きっとあなたは・・明日、私はどうなると言うのだろう。考えようによってはどうとでも受け取れる言葉。どこをどう走ったのかもわからないうちに、気づいたときには熱海の海を見つめていた。子供の頃から何かがあるとこうして海を見つめていたっけ。
加奈江は、自分の心が、いま激しく動いていると感じていた。
首のない人形、それはつまり、首のない女たち。
見ない。言わない。聞かない。頭がなければ考えない。しかし謙傲は首から上こそ女の誇りと言った。首はそれぞれの女たちが大切にして持っている。
肉体だけを謙傲に預けているということなのか?
そこに久利の体があるからには、あの多くの人形は性奴隷として謙傲が躾けた女たちの体だとでもいうのだろうか?
違うわ。そんなことで海を見ているわけじゃない。悪魔的なあの世界に私の首なし人形が飾られることになるのだろうか?
M性に気づいていて、しかしもちろん封じてきた性への想い。その封印が解かれようとしている。心の中に陽の出のような神々しい光が揺らいでいると感じるのだ。
進学で家を出るとき謙傲の本は捨ててしまった。単身暮らす。身を律しておかないとSMへ踏み込むことになりかねない。いま思えばそんな気持ちは確かにあった。
「・・あの人かも」
ふと呟いて、海の見える公園を後にした。
実家に泊まることになりそうだと最初から考えて、目の覚める赤のほか、黒の上下を持ち込んだ。下着。しかし実家の整理ダンスには白もあれば青の花柄も置いてある。
明日は迷うと考えた。色を訊かれて黒と言えば、自分を押し殺そうとしていると悟られる。
白を選んだ。昨年買って持ち込んで着ないまま置いてある。白のレース。買ってはみたけど、なぜか身につけようとはしなかった。
白を着た姿をドレッサーに映し、そのほか着替えに青の花柄をバッグに忍ばせた。下着を替えなければならない何かが起きる予感がした。
翌日も晴れていた。この週末は天気がいい。朝から夏のような気持ちよさ。
指定されたのが午後二時。昼食を済ませて家を出て、のんびり走って時間が余る。駐車場の草原に着いたとき、十五分前。昨日はあった黄色のジムニーがない。
クルマを停めて外に出ると、昨日は緊張していて気づかなかったが森の裏側からせせらぎの音がする。今日は少し風があり、すがすがしい緑の世界。鳥たちが囀っていた。
あたりを見回して微笑んで、時計を見る。十分前。まだ早い。もう一度クルマに乗ってシートを倒したそのときに、古いジムニー独特の音がした。
謙傲は昨日のままの濃紺の作務衣、久利もまた大差ないジーンズ姿で、こうして外で会うと父と娘のようだった。
そして加奈江も昨日とは違う白のジーンズミニ。それもまた不思議だった。またあの家へ行くのかと思うと怖いのに、一度は手にしたパンツを穿けない。迷ったけれど結局スカートで来てしまった。
それにしても穏やかな謙傲と久利。絶妙の間合いというのか、半歩退いて居並ぶ姿は夫婦のように自然に映った。
買い物だ。ジムニーの荷台にふくらんだレジ袋が三つ。それを謙傲が一人で持った。
「週に一度の街でしてね。久利とのデートも兼ねている」
冗談めいた笑顔に、久利のひっそりとした笑顔が加わった。
謙傲と加奈江が並び、久利が後ろを歩いてくる。それで家に入るのだったが家には鍵さえかかっていない。かかっていてもガタつく板戸では同じこと。都会では考えられない人の好い住みようが好ましい。
しかし・・。
家に入って謙傲は久利に言う。
「先に行っているから支度をしておいで」
「はい、ご主人様」
ご主人様・・主従の会話を明解に突きつけられて、加奈江は突き落とされた気分になる。やっぱりそうだ、SとMの関係。先に行くって、どこへ?
加奈江は息苦しいどころでない。乱れる息を整えようとし、かえって呼吸のリズムが狂う。
ショルダーバッグを置いて家の裏へと案内された。家のすぐ裏から竹林がはじまって、竹を抜いて整えた道筋がついている。竹林すべてを薄い下草が覆っていたが道筋には草もなく、渇いた土の細い道。人二人が横に並べず、加奈江は先を歩かされる。
歩くことでの息の乱れを装って、加奈江は熱い息を吐いていた。ミニスカートのヒップの蠢き、くびれるウエスト、そして淡いブルーのTシャツ越しにブラが透ける。全裸を透視されている気分。
「ほう・・白か」
ドキリとした。白いブラはシャツの上からでもうかがえる。
歩きながら振り向かず加奈江は言った。
「迷いました、黒にしようか・・ですけど・・」
「うんうん、言わぬが花。言わせる僕は朴念仁・・ふふふ」
続けて届く謙傲の声を加奈江は前を見たまま聞いていた。
「久利とは五年になりますか。久利はいま二十九で、僕は六十三でして、父と娘のようなものだが久利は愛奴。すでにご存じだとは思いますがね」
うなずくだけで声も出ない。胸郭が開くような呼吸になって、逃げ出したい気分がする。
「はじめの二年は涙した。けれどいまは静かです」
調教を経ていまの久利がいる・・そんなことだと考えた。
竹林をさらに少し行くと、なだらかな林床を丸く切り拓いた陽の当たるところがあって、そのほぼ中央を一跨ぎの水が流れている。沢とも言えないような森の中の流れ。斜面の上に湧き水があり、しばらくこうして流れ下って森の土に消えていくのだと言う。流れのこちらも向こうも剥き出しの土であり、こちら側には古い板で造った床几が置かれ、向こう側の空き地の背景の太い竹に、舞台で使う暗幕のように、黒く大きな布が太い竹に縛られてさがっている。
どう見ても舞台のよう。
手前側の床几のところまで来ると、謙傲はポケットから小さな防虫スプレーを取り出して加奈江に手渡した。
「ヤブ蚊だらけだ」
「・・はい、お借りします」
腿から足先、腕、首筋あたりにスプレーする。受け取った謙傲も同じようにスプレーする。
三人が座れる幅の床几の左右に分かれて座り込み、謙傲は、流れの向こう側を目を細めて見渡しながら言うのだった。
「首なし人形の数だけ、女たちはここで踊った」
「踊った・・ですか?」
「お人形の首だけを持って帰っていく。そんな中で久利がここに残ったというわけですよ」
加奈江は意を決して言った。
「・・じつは私」
「うむ?」
「謙傲さんのお書きになられるものが好きで中学の頃から読んでいました」
「ほほう? それはそれは光栄だ」
「最初に読んだのはバリラ様・・」
「ああ・・ふっふっふ、宇宙エッチにメロメロだもん? はっはっは」
「そうです。可笑しくて可笑しくて。ですけどそのうち、女の性(さが)に苦しんだ人妻が解放されていく姿に感動しましたし、女ってそういうものだろうなって子供心に思ってました」
謙傲の横顔は笑っていたが声はなかった。
「でも捨てちゃった」
謙傲が静かに振り向き加奈江を見つめた。今度は加奈江が竹林を見渡して謙傲を見ようとはしなかった。
「進学で東京に出たときです。一人暮らしになりますからね。そんな世界から私は私を守らなければならない。そんな気がして捨ててしまった。その頃から私はMだと思ってましたし・・どうなんでしょうね・・おかしな話だとは思いますが」
加奈江が謙傲へと眸をやると、今度は謙傲が竹林を見渡して微笑んでいた。
「・・中学生の白いパンツがねっちょりでした」
言えた・・親にも言えなかったことが言えたと加奈江は思った。
女の血を吸う邪(よこしま)な姿をした縞模様のヤブ蚊が一匹、白い腿に取り付こうとして薬品のガードに困っていた・・。
首なしの家(一話)
一 話
九月初旬の木曜日。
三木加奈江は、オフィスを定時よりも早く出て一旦世田谷にある自宅マンションに戻ってから、社用車ではない自分のクルマで熱海の実家を目指していた。 世田谷と熱海。距離はそれほどなくても東京で仕事を持つと、そう度々は帰れない。明日の相手先は中伊豆にある作家の家。その前夜に実家に泊まったほうが動きやすいし相手先に長くいられる。状況によっては週末をそのまま実家で過ごしてもいいと思っていた。
加奈江は二十五歳。大学を出て大手出版社に入ったのだが、志望した編集部とは違う販売関連のセクションへ配属されてしまい、一年ほどで退社。次が決まらず、さらに一年のフリーター暮らしを経て中堅出版社に中途採用されたのだったが、その出版社というのが、一般向けより、いわゆるアダルト。官能小説にも力を入れていて、まずはそこからということで、ともかく編集部に配属された。最初の頃はアダルト情報誌の編集ばかりだったのだが、この九月の移動で小説本を専門に扱うセクションに配置換え。女性スタッフの二人が結婚で退社してしまい手が足りなくなったからだ。
作家は都会にいるとは限らない。伊豆静岡方面を担当させるとき熱海に実家があればホテル代を節約できるということだ。本を読まない。読んだとしても紙の本より電子書籍。出版社はどこも苦しい。
夜の東名高速。厚木から小田原を経て熱海へ抜ける知り尽くしたルートだったが、加奈江は実家が近づくにつれて鼓動の乱れを意識していた。
明日訪ねる相手が思春期の頃から読み耽った作家。まさか会えるなんて思っていない。嬉しいのと怖いのと、胸騒ぎにも似た妙な感じ。それが性的な緊張が引き起こす女体の変化だと自覚していた。どんな人なのか想像するだけで鳥肌が立ちそうだった。
ペンネーム、謙傲常美(けんごう・つねみ)。六十代であると言う。
謙傲は、官能畑を幅ひろく書く男だったが、そのままエロ小説というわけではなかった。時代劇、ホラー、SFトーンと、一風変わったものばかり。そしてその中に必ずと言っていいほど女を責めるシーンが登場する。そのくせSM小説は書かないし、たいだいあたりまえの現代小説がほとんどない。
加奈江が最初に読んだのはバージンだった中学生の頃。『宇宙エッチにメロメロだもん』というふざけたタイトル。そこらの主婦が、ふと出会った宇宙人と不倫する。宇宙空間にネオンが輝く無重力ラブホでは体位フリー。笑ってしまうアクロバティック・セックス。しかも相手はペニスが七本ある宇宙人。ほとんど拷問のようなセックスに夢中になった人妻は、人間男子のつまらなさを思い知る・・といったようなストーリーなのだが、そこには男女の愛への問題提起や、深い人間愛が含まれていて、笑っているうちに泣けてくる、そんなような作風が好きになる。
謙傲は『僕はSだ』と公言していて、伊豆静岡への担当が決まった一週間ほど前、キュンとする作家の素顔を聞かされた。
「牝犬を飼っている?」
相手はでっぷり肥えた編集長。加奈江は呆然と立ち尽くす。
「まあ、はっきり言えば性奴隷だね。マジでサディスト。中伊豆の山の中にひっそり暮らし、若い女を調教している。それもあって彼の担当になりたがらないということだが、担当が男では追い返される」
聞かされたのはそこまでだった。
普通の女性なら近づきたくない。しかしあの謙傲のこと。彼なりの想いがあってのことだろうと考えると、ますます知ってみたくなる。
加奈江がなぜ謙傲に惹かれるのか。作品の中に必ず出てくる裸女を責めるシーン。中学生だったあの頃から加奈江は自分の中にはM女がいると思っていたし、謙傲の本を読むほどに女心が濡れてくるのを感じていた。恋人ができても物足りなく感じるのはそこだろう。けれどもそれは、そんな気がするというだけでSMそのものへの興味ではないのかもしれなかった。
久びさの実家。しかし加奈江は、あれほど読み耽った物語の作者がすぐそばにいると思うと興奮して落ち着けない。しかも性奴隷を飼っている。明日訪ねたときに、その奴隷がどんなスタイルで現れるのか・・妄想が妄想を連れてきて深夜になっても眠れなかった。
謙傲が指定する条件も面白い。かしこまった姿で来るな。下着はちゃんと着けて来い。言われなくてもそうするわ・・考えただけで笑ってしまう。
「バリラ様か・・ふふふ・・ダメだ眠れない・・」
バリラ様という宇宙の王子。地球では人の姿を借りていて、宇宙に出るとペニスが七本あるセックス魔神に化身する・・こんな台詞を覚えていた。
『一度の射精で10cc、だが一本あたり100ccのストックがあり使い切るまで勃起は萎えない。それの×7ということでよろしく頼む、わっはっは!』
よろしく頼むと言われても・・そんなん死んじゃうよっ!
笑い転げて読んでいて、瀕死のアクメに倒れた人妻が可哀想で可愛くて・・。
「はあ? どうしたんだよ、あたし・・」
中学生の加奈江。白い綿の子供のパンツが濡れていた。
女ってこうなるんだ・・濡れるという現象を思い知った瞬間だった。
翌日の加奈江は、一度ジーンズを穿き込んだのだったが、なぜか思い直してジーンズ地のミニスカートに穿き替えた。どうしてだかはわからない。中性的なスタイルより女として見て欲しいと思ったのか。運転席に座るとスカートが上がって赤いデルタまでもが見えそうだった。下着もまた不思議だった。誘うような真紅のブラパン。クルマに乗ってすぐ激しい後悔に襲われた。
本物のサディスト・・私は謙傲に認められたくてたまらないの? そんな馬鹿なことってある?
性ホルモンが暴れるようなトキメキを感じていると加奈江は思った。
中伊豆の温泉街を抜けて山へと入る。山といっても高山ではない。鬱蒼とした森に磯風が混じるような空気感。空は抜けるように青かったし、その家が近づいても淫らな声は聞こえない。夏の名残りの伊豆山中はすがすがしい。
昭和の初期にできた家。山に暮らした年寄りがいなくなり廃屋となっていた家と土地を譲り受け、いまでは仙人のように暮らしている。原稿はいまだに手書きで、欲しければ取りに来いと言うタイプ。
「ただし気をつけてね、最初の印象がすべての人なんだから。嫌われたらおしまいよ」
仲間の言葉が思い出された。怖くはない。怖い人ではないらしいが、審美眼というのか、心の中を覗かれてしまうと聞かされた。それもあってスカートを選んだのかも知れなかった。若い女性なんです、どうかお手柔らかに・・そういうことなんだろうと加奈江は思う。
「にしても短すぎか・・失敗したかも・・」
なだらかな登り斜面で森を縫う道筋を行くと、あるところで舗装が途切れ、ぺんぺん草が生えたような道になる。行き止まりが謙傲の棲み家であり対向車はまずないだろう。すれ違えない林道。コンパクトカーがやっと通れる道だった。
見えた・・古いトタン屋根、家の前には少しの畑と、敷地の周囲をぐるりと背の高い竹垣に囲まれて、背後は威圧するほどの竹林。畑のさらに手前に駐車場というのか草っ原があり、古いジムニーが置いてある。幌屋根のモデルで色は黄色。その横へクルマを滑らせてエンジンを止めた。
音が消えると森の静寂。野鳥が濃く、そこらじゅうで声がする。
さながら緑の海の浮島のような家。ここは時代がズレていると感じてしまう。
十メートルほどの農道を歩く。昭和初期そのままの道。スニーカーで来てよかった。こんなところにオフィスレディはミスマッチ。家の前の畑には菜っ葉ができて、人はいない。
背丈よりも高い竹垣の欠損から踏み込むと、そこでようやく家の全景が見えてくる。平屋。古い農家の造り。八十年ちかくを生き延びた森の家。傾きを丸太をつっかえて支えている・・つまりは廃墟をちょっと直して棲んでいる。
家の横に風呂小屋が別にあり、薪が積まれ、それとは別にプロパンガスの大きなボンベがダブルであって、細い電柱から電気だけは来ているようだ。水は井戸なんだろう。家の奥から電動ポンプの音がする。
「来たか」
「きゃあっ!」
あまりの景色に見とれていて気配をまるで感じなかった。夏の下草が薄くひろがり足音を消している。
背筋に電流の走る出逢いだった。森の中で魔物に出会ったような不意打ち。
このとき加奈江は全身にひろがる鳥肌と、尖り勃つ乳首、アナルがきゅんと締まる、ほとんど性感と言えるような感覚に戸惑っていた。
よれよれの茶色の作務衣に使い込んだ下駄・・黒より白が断然多い長い髪・・162センチの加奈江より若干高い170センチほどの背丈。しかしその面色は涼しくて整った顔立ち。小さな目が澄み切った謙傲だった。
「おーい」
「ハ?」
「ハじゃないだろう、しっかりせい。きゃあとは何だ、失敬な」
「は、はい! わ、私あの・・」
「わかっておる、聞かされてるよ、電話ぐらいはあるのでね。ふふふ、どうやら今度はいい子のようだ。さあ、お入り」
加奈江は震えていた。この人が謙傲常美。本名年齢ともに不詳。経歴さえも公開しない。面色はやさしくて、ちっともそれっぽく見えなかった。
憧れていた謙傲がSだと知り、その男に眸をまともに見据えられ、加奈江はゾッとして震えていた。いまにも濡れだしそうだった。
板戸の一段高い敷居をまたいで中へと入る。入ると土間は狭かった。
「おーい久利(くり)、出ておいで」
「はーい、ただいますぐに」
ハラハラした。まさか全裸? まさか鞭痕だらけで亀甲縛り?
しかし違った。どこにでもいそうな普通の女。歳は三十ほどかと思われたが、肌艶もよくスタイルがいい。あたりまえのジーパンTシャツ、それでスッピン。なのに雰囲気のある女性。ただ髪の毛が後ろを刈り上げたショートヘヤーで女としては短すぎる。美人とまでは言えなかった。
その女は、穏やかな微笑みをたたえて上がり框のところまでやってきて、きっちりと正座をし、上がってすぐの板の間に額を擦るように平伏した。
「東京からはるばるご苦労様です、さぞお疲れでしょうね、どうぞお上がりくださいませ」
「はい。ですけど今日は熱海から。実家がそこにあるもので夕べは実家に」
「そうですの? それで謙傲のご担当に?」
女同士、初対面の会話だったのだが、加奈江は、このしなやかさは何だろうと考えていた。流水という言葉があるが、まさに水のごとくさらさら流れる女らしさ。
とても勝てないと直感する同性。こんな人ははじめてだと感じていた。
靴を脱ぐ。少し高く広い板の間には、夏のいまは板を渡して塞いである囲炉裏が中央に造られて、正面にも左横にも襖があって閉ざされていた。見た目に古い家でも中はそれなりに整えられて現代の匂いがする。
古い家はだいたいそうだが、田の字造りと言って、部屋を四つ田の字に配置し、そのうちの一部屋が囲炉裏のある板の間にされることが多かった。この家もそうなっていて、その田の字に、台所やトイレ、風呂などがくっつく形になるわけだ。板の間に上がった加奈江は、板で塞いだ囲炉裏の前に座布団が用意されて正座で座ったのだが、腿根までが露出して、正面に来られるとスカートの奥が隠せない。今度こそ短すぎたと後悔した。古い家はほぼ和室。座るときは座布団だ。
膝にショルダーバッグを置くべきか、それとも覚悟して自然に振る舞うべきなのか。息をするのも苦しかった。
謙傲は久利という女に茶の支度をさせると、一度奥へと消えていき、先ほどのものより少し綺麗な濃紺の作務衣に着替えて現れた。
謙傲は正座をする女の客を静かに見下ろし、正面ではない右横へと座布団をずらして胡座で座る。加奈江は膝には置かず両手でスカートの前を押さえて座っていた。
名刺を出そうとすると謙傲が言う。
「いらんいらん、肩書きで付き合うわけではないのでね」
「はい。ではあの・・私は三木加奈江と申します。この九月からこちら方面の担当となりまして、謙傲先生とも・・はい?」
謙傲は言葉途中で手を挙げて遮った。
「先生もいらない。あがめられるほど偉くはなし、たてまつられるほど馬鹿ではなしという言葉があってね。僕は僕、あなたはあなた。それでよろしい」
静かだが威厳・・いいや孤高に生きる男の言葉だと加奈江は思った。
そのとき久利が鎌倉彫りの柿茶色の丸盆に茶を二つ持ち寄って、板で塞いだ囲炉裏の縁へ湯飲みを置いて去って行く。
謙傲が去ってゆく女へ視線を流して言う。
「久利と言います。女の利を久しく・・ということでつけてやった名前でね」
「女の利を久しく・・ですか?」
「この先ずっと女の利を楽しめるようにということです。まあ茶でもどうぞ」
「はい、では遠慮せずいただきます。それと、あの・・」
加奈江は一瞬唇を噛んでうつむいた。
「うむ? 何だね言ってごらん?」
「はい・・お気づかいいただいてありがとうございます」
「気づかうとは?」
「私あの・・スカートを間違えました。正面ですと・・ですからその・・」
「ふふふ、なるほどね。花とは愛でるものであり無遠慮に覗くものではない。今日の色は?」
寒気がした。この人の前で私は蛇ににらまれた蛙。
「・・赤です、真っ赤・・どうしてだかわからないの・・」
謙傲は柔和に笑んでものを言わない。
「では、そういうあなたに話しておきましょう。こんなことを言わせた相手は滅多にいない。久利とあなたぐらいのもの」
「・・はい?」
「僕の名ですよ。謙傲常美とは、謙虚さも傲慢も、それこそ常に人の美だという意味でね。それらはどちらも自分への嘘であり、後になって悔いることこそ美しいということです」
「・・」
「いまのあなたがそうでしょう。赤を隠して脱げばいい女なのに、さあ認めろと傲慢になる。それに気づいているから恥ずかしくてならず、今度は謙虚になってうつむいている。ふふふ、それを可愛さと言うのです」
身震いした。これほど怖い男を知らない。
加奈江は衝き上げてくる性感に震えていた。