2016年11月16日

獄死の微笑(終話)


終 話


 鬼塚洞からの帰り道・・。

 岩城は、穏やかな面色で運転する遙の横顔を見ていて、なんとなくだが記憶にへばりつくように残っている陵辱のシーンが蘇ってくるのだった。
 カヅラという女の鬼のほかにもう一人、別の鬼の娘に出会ったような記憶があって、遙の母親の過去を見せつけられたような気がする。曖昧な記憶でも、遙自身の口から義介の子かもしれないと聞いた記憶は鮮明だった。現実と悪夢の入り交じった不思議な感情に支配され、岩城の心は定まってはいなかった。

「母が夢枕に立ったんです。亡くなった日のことでした」
 前を見て運転しながら遙は言う。
「千鬼成願を私が成し遂げたことで母は笑っていましたね。これで私は救われると言って旅立って行ったんです」
「鬼たちに会ったことは?」
「いいえ、ありません。寿斎様にお願いしても許してはくれなかった。見なくていいものは見なくていい。遙らしく生きろとおっしゃってくださって」

 母親の悲惨なシーンを見ていない・・よかったと岩城は思い、遙は父親が誰かも聞かされてはいないと感じた。
「そのとき寿斎様はおっしゃいました。遙を守るのは鬼ではない。仏であり神であると。おまえの母は鬼が守る。それこそが千鬼成願というものだって。私にはよくわかりませんが、鬼がなぜ鬼なのかを聞かされて妙に安心できたんです」
「ほう? それは?」
「鬼の世界には時間がない。一瞬にして相手の過去も未来も見通すことができるそうです。取り繕っても嘘をついても鬼たちには通じない。人の汚さを知り尽くしているから鬼は人に対して鬼なのだと言われました」
「・・なるほど」
「ママを虐待した人たちは地獄に落ちて、未来永劫、鬼たちに責めらるそうですよ。私ね、ママには悪いけどもう忘れようと思ってるの」
「そうですか、よくわかりました。そうなさったほうがいいでしょう。あなたの人生はあなたのもの。恨みとは泥のようなものですから流してしまったほうがいい」

 空虚なことを言っていると岩城は思いつつ、またしても正論を話してしまう自分自身に嫌気がさしていた。幼い頃から虐待され続けた恭子の気持ちを思うと復讐するもやむなし・・そう思ってしまう自分がいる。俺はもう刑事ではない。もっともらしいことを言う必要がどこにあるのか・・なのにまた正論を言っている。
 岩城は自分が何者なのかがわからなくなっていた。
 街へ戻り、遙とは別れてみても、すぐに帰る気にはなれなかった。
 心が重い。とにかく身を横たえて眠りたい。
 小さなホテルに飛び込んで、体を投げ出すようにベッドに崩れた・・そしてそのとき携帯電話が鳴り出した。

「ああ岩城さん、やっとつながった」
 後輩の前川刑事。
「西林希代美が惨殺されました。見るも無惨・・これって、いったい何なんでしょうね・・マジで鬼?」
「もういい、忘れろ」
「忘れろ?」
「無駄だよ。人知のおよぶ話じゃない」
 電話を切った。どうでもよかった。

 うつらうつら。目眩のように景色が揺れて暗くなる。

 オレンジ色の妙な光線・・夢か・・夢の中で目を開けたとき、青鬼の娘がそこにいた。天井に触れそうな長身・・獣の女体・・しかし鬼は穏やかな眸をしている。
 それにしても妙だ。無機質なホテルの部屋がゆらゆら揺らぐベールにつつまれてしまっている。
「・・アミラ」
「言ったはずだよ、鬼には時間も距離もない。イワキの時間はどうにもしてやれる。鏡を見ろ」
 ハッとして飛び起きてベッドサイドのドレッサーを覗くと、そこには三十歳の男がいて、アミラを抱いた記憶がリアルなものとして戻っている。
 熱い膣の感触までも・・。
 どうやら夢ではなかったようだ・・。
 岩城は、いまこの瞬間、確かにそこにいる青鬼の娘を見た。
「会いたくなれば会いに行く。そのときのイワキは若い。ふふふ・・いいものを見せてやろう」

 ホテルの空間がぐにゃりと歪み、揺らぎのベールをくぐったとき、高層マンションの一室にいた・・見たこともない男が見たこともない女を激しく叱責しているのである。
『なぜだ! 馬鹿なことを!』
『わからないの・・何がなんだか・・』
『ふざけるな、いかにもせこい! 万引きとは情けない!』
 万引き・・?
『教師の妻のやることか! バレたらおしまいなんだぞ!』

 呆然として岩城は言う。
「・・これは?」
「恭子が殺った西林小百合の娘よ。圭子と言って二十九だ。我らは手を下さない。我らは亡者を送り込み・・ふふふ、人間どもは悪霊と呼んでいるがな。生涯この女から離れない。生涯幸せになることはないだろう」
 小百合と旦那、親同士の大声に、そばで幼児が泣いている。
「圭子も、その子も、末代まで亡者は祟る。ふっふっふ・・恨みとはそういうもの。
恭子の恨みは我ら鬼が背負うのだ。それこそが千鬼成願」

 そしてまた景色が歪み、次にはラブホテルの一室だった。全裸の女がベッドにいて、シャワーの音。男がシャワールームにいるらしい。
 女が携帯で話している。
『いまはダメだって・・ちょっと待ってよカモなんだから。結婚を餌にがっぽり貢がせてやるからさ』
 アミラは言う。
「西林希代美の息子。健太郎と言って二十六さ。性悪女にひっかかって気づかない。心底惚れてる馬鹿野郎。取り憑いた亡者が亡者を呼んで生涯苦しみ生きていく。遺産など底をつく。生涯成功することはない」

 そしてまた景色が揺らぎ、いきなり陵辱のシーンとなる。若い娘が寄ってたかってレイプされ、娘は泣きじゃくって犯されている。
 アミラは言う。
「西林保の娘、彰子よ。二十歳となるが、これからは淫欲の日々となるだろう。亡者どもが取り憑いて淫夢から解放しない。狂ったように男を求め、先のない人生を送るのだ」
 岩城は魂を抜かれてしまったように、まったく無感情にそんな光景を見ていた。女の恨みの恐ろしさを思い知り、しかし復讐を否定しようとも思わない。
 ただ呆然と見つめるのみ。警察に生き正義に徹したつもりの自分の半生が虚しくなる。

 最後に景色が揺らいだとき、ホテルの部屋に戻っていて、岩城はベッドに腰掛けて、目の前にアミラが立っていた。
 アミラはちょっと微笑むと、腰に巻いた獣の皮を脱ぎ去った。鬼の前で人間の男は無力。岩城は、若返ってだぶだぶになってしまった服を脱ぐ。
 大きなアミラが丸太のような腕をひろげ、子供が母にすがるように裸の岩城は抱かれていった。岩城は激しく勃起させていた。
「すぐ勃てる可愛い奴・・ふふふ・・人間の男が恋しくなるなど狂っている。イワキに抱かれ勃つものを体の奥に迎えたとき、あたしは震えた。まっすぐな精液を受け取って不覚にも達してしまった・・」
 岩城は鬼娘の圧倒的な乳房にくるまれて、あのときそのままの無情の安堵を感じていた。

 アミラは、犬爪を男の肌に立てぬようにイワキを撫で回し、イワキは大きな女体を這い上がるようにして口づけを求めていった。
 浅い口づけ。アミラは言った。
「もうひとつの景色を見せてやるのはたやすいこと。イワキが死した後、若返らせてそばに置く。そのときに奴隷となるか愛玩物でいてくれるか。ひとたび鬼の世界を知ったからには逃さない。イワキが去ればあたしは呪う。女とはそういうもの。抱いてイワキ・・会いたくなればいつでも行く・・」
「アミラ」
「うん?」
 アミラは、はるかに小さな人間の男の両肩に手を置いて、岩城の眸をじっと見つめた。
 岩城は笑った。
「鬼塚洞へ訪ねていくよ」

「イワキ・・ああイワキ・・抱いて」

 ものすごい力で引きずり込むようにアミラはイワキに押し倒されてやっていた。


 ・・このとき俺はとんでもないことを考えていた。
 刑事でも人。いいや、そこへ行くまでにも殺してやりたいと思った奴・・男もいたし、俺を裏切った女もいた。
 復讐する力がないから人は復讐を否定する。しかもそのとき俺は老いて死んでいて、アミラのもとで若返って生きている。

 俺も鬼だと考えた。
 アミラの中へ射精しながら・・。

獄死の微笑(四話)


四 話


 三十歳に若返った岩城。その頃すでに刑事だったが、そのおよそ十五年後に西林恭子などという殺人犯に出会おうとは思っていない。
 体も記憶も三十余年前の岩城に押し戻されてしまっていたし、いまどうして鬼娘の腕の中にいるのかさえもわからない。
 岩城は、これは悪夢だと思っていた。

 アミラに抱き上げられて鬼塚洞の揺らぎのベールをくぐったとき・・鬱蒼とした森・・都会の風景・・波濤が寄せる大海・・そして星空と、さまざまなシーンが、まるでスクリーンに映し出されるグラフィティのように揺れるベールの向こうに見えた。
 揺らぎのない実在の世界は岩ばかりの荒涼としたもので、揺らぎの外からやってくる不思議な光の滲みにつつまれているのである。

 全裸の岩城は、身の丈二メートル三十はあるかと思われる青鬼の娘に抱き上げられて、そのメロンのような二つの乳房をクッションにして、恐ろしい鬼娘の顔を見上げていた。アミラは時折腕の中を見下ろしてほくそ笑む。
「我らは現世とあの世の狭間に棲む。まさに鬼界だ。我らに年月などというものはない。時間などないのだよ。おまえにひとつ、いいものを見せてやろう」
 にやりと笑ったそのときに、景色がふたたびぐにゃりと揺らぎ、どこか民家の中にいた。古い家だ。

『嫌ぁぁーっ、もう嫌ぁぁーっ!』
『ほうらいいか・・もっとイケ・・もっとイケ・・はっはっは!』

「よく見るのだ。おまえはこれをどう思う?」
 まだ幼い娘・・中学生ぐらいだろうか、陰毛も薄く、乳房もろくに膨らんでいない。
 全裸にされた娘が座卓をひっくり返した四つ足に手足を縛られて体を開かされ、父親のような男に太いディルドを持たれて犯されている・・。
 その周りに、大学生ぐらいの娘・・高校生ぐらいの娘・・そして犯される少女と同い年ぐらいの少年・・三人が取り囲んで、やんやと囃し立てて笑っている。
 アミラが言った。
「幼くして親を亡くしたあの娘はこの家に引き取られた。娘は美しく育ったが、こうして家族に虐待される。父親と三兄弟だ。これを見てどう思う?」

 許せなかった。正義感で警察を志し、惨い事件を見て来ていたが、いままさに陵辱される現場を見せつけられたことはない。
「おまえはなぜ勃てる? 男だからか? このシーンに加わりたいか?」
 岩城は激しく勃起させたまま萎えようとはしなかった。それもまた不思議な感覚・・岩城には声もなかった。少女の悲鳴ともがき泣く声だけが心に響く。

「恨みとはそうしたものぞ・・ふふふ、もうよい・・」

 そしてふたたび景色が歪み、岩城はアミラに抱き上げられたままの姿で、赤黒い岩でできた部屋のような空間に出ていた。閉ざされた岩ばかりの空間なのに、なぜが仄明るく、岩の床に黒い獣の毛皮が敷かれた寝床がある。
 アミラは素っ裸の岩城を降ろしてやると、スカートのように腰に巻いた茶色の毛皮を脱ぎ去って全裸となって、寝床にどすんと腰を降ろす。逞しい鬼の女の全裸。岩城はますます激しい勃起を鬼の娘に見せつけながら呆然と立ち尽くしているしかない。
 圧倒的な鬼の女体。座っていても百七十五センチの岩城と目の高さが変わらず、腕など人間の男の腿ほどもあり、あぐらをかく太腿は胴回りほどもある。
 これは夢だと思いつつ恐怖に膝が震えてくる。俺は刑事だと言い聞かせてみるのだったが、相手が鬼では太刀打ちできない。
「おまえはなぜ勃てている?」
「わからない・・自制できない・・申し訳ない」
「謝ることか? ふふん、それが男よ、男というものよ。このあたしが欲しいか? 鬼でも女ぞ? 抱いてみるか?」

 操られるように一歩寄ると、アミラは岩城の手を取って、猫を膝に上げるように大きな膝に丸め込む。見上げるとイチゴほどもある大きな乳首が二つ。二つのメロンの狭間に青鬼の顔がある。アミラは鬼の中では美人であって、先ほどのカヅラよりは顔立ちがやさしかった。
「人間の男・・まさか人間を抱こうとは思わなかったね」
 犬のような爪が尖る大きな手が岩城の尻を撫で回し、前に回って、男の勃起の先端をまるで茸でもつまむようにつまみ上げる。
「我らの赤子なみだ。なのにこうして勃てている・・ふふふ、可愛いものよ」
 膝の上で両脇に手を入れられて赤子そのままに抱き上げられると、大きな乳房のクッションに抱き締められる。軽く抱いているだけなのに息ができない圧迫感。体臭が強い。しかし岩城の腕は自然に動いてアミラに巻き付く。大木を抱く少年のようだった。

「ほう・・このあたしを抱くか・・ふふふ、おまえは寿斎に似ているな」
「寿斎?」
「若返ったおまえの知らぬ者よ。かつて寿斎は山に迷い、カヅラ様の棲み家で救われた男。殺してやろうとしたそうだが、鬼を恐れず、なぜか可愛く思えて抱いてやると乳を吸って甘えたそうだ。死ぬなら最期に女に抱かれて死にたいと言ってな」
 それからまた赤子のように膝に抱かれ、大きな乳首が突きつけてられて、岩城はそっと口に含む。アミラは男の頭を抱き支えて乳房を与えた。

「希代美は死んだ。このあたしが八つ裂きにしてくれたわ」

「希代美とは?」
「いま見た三兄弟の一人よ。父親も兄弟たちも未来永劫、地獄でのたうつ亡者となろう。されど、そのまた子供らは・・『殺さずともよい、不幸の底で生かしておく』と恭子は言った。いまのおまえにはわからぬだろうが話だけは聞いておけ。恭子の呪いを聞き届けて我らは怒った」
「それは復讐?」
「そうだ復讐だ。幼いときから家畜として扱われ、体ができて性奴隷・・父親の種を植えられて遙ができたが、その赤子さえよってたかって虐待した。奴らは鬼ぞ。鬼の我らより鬼というもの。報いは当然」

「それは、あの娘が望んだのか? 呪ったのか?」
「千鬼成願。女が命を賭した我らへの哀願よ」
「・・やめさせてやりたかった」
 岩城は言うとふたたびアミラの乳首に頬を寄せた。
「何・・やめさせたかった?」
「復讐は悲しすぎる。・・このやさしい乳房・・女は慈愛を持って生きるもの。しかし母となると違う。子のため母は鬼にもなる。気持ちはもちろんわかるし悲劇だということもわかる。だからなおさら復讐などはさせたくない。汚れに汚れで対するようなものだから」
「きれい事だ。いかにもまともな言いようだが・・」
 そしてアミラが膝の上の裸の男を引き剥がそうとしたとき、岩城は大きな乳房を這い上がるようにして、アミラの唇へ唇を重ねていった。

「殺すぞ」
「現世に戻る前に抱いてあげたい・・殺しなど心が軋むだけ。鬼のあなたが可哀想でたまらない」
 アミラは、しばしじっと岩城を見つめ、押し倒されてやるように寝床に崩れた。
 青鬼の青黒い裸身に人間の男の裸身は白く見え、身の丈の違いが、母が子を抱くような図式をつくる。
 アミラは岩城の髪をひっつかんで顔を上げさせ、下から見上げた。恐ろしい顔だが眸は透き通って美しいと岩城は思った。

 アミラは言う。
「鬼がなぜ鬼か、わかるまい。時間もない距離もない。人間どもがいま何を言ったとしても、その過去、その未来、人知れず密かにする悪行のすべてが見透かせる。信じられるものなどない。鬼の男は鬼の女を愛さない。欲しいから抱く。欲しいから抱かれてやる。身ごもって子を成す。ただそれだけの獣の世界。しかしゆえに裏切りなどはないのだよ」
 岩城はうなずくと、涙をためて言うのだった。

「刑事になった。正義とは存在すると信じている。しかしじつは哀しくなってたまらない。人は醜い。ヘドが出そうだ。殺された者の死体を嫌というほど見て来たよ。どう生きたところで最期はこれかと思ったものだ。だけどアミラ・・」
「何だ?」
「確かにそうだ、人は出会う以前の人を知らず、人知れずと言うように陰の部分は知る由もない。しかしだから希望を持って生きていける。絶望しかないと悟ったとき恭子は鬼になったのかもしれない。それをこざかしく言うのは誰にでもできるだろう」
 アミラは哀しくて泣く岩城をじっと見据え、ちょっと笑って沈黙した。
 岩城は言った。

「だけどいま・・そんなことはいいんだ・・アミラに抱かれ・・抱いている。いまこのときのぬくもりだけは信じていたい」

 アミラの裸身から力がすっと消えていき、アミラは目を閉じて身を委ねた。
 分厚い大きな唇に人間の男の唇が重なって、アミラは人間の男の欲情をそっと握って口づけを受けている。
 人間の男の手が割り開かれた鬼の女の股間に沈み、アミラはさざ波のような歓びに身を震わせた。
「あぁぁ感じる・・イワキ・・」
 人間の男の裸身が鬼の女の裸身を滑り降り、割り開かれた体の中心で濡れはじめた見事なラビアを舐め上げる。
 アミラの裸身が反り返り、甘く熱い息を吐く。

 人間の男の勃起が鬼の女の奥底へと没していった・・。
 そしてその頃・・全裸のカヅラは若返った寿斎の勃起を受け入れて喘いでいた・・。

 それから・・揺らぎのベールをくぐったとき、岩城は定年を過ぎた男に戻っていて、目の前にカヅラがいた。岩城は服を着ていたしカヅラもまた腰革を巻いている。歪んだ時空が記憶を揺らしていたのだが、岩城は不思議な安堵に満たされていた。

 なぜそうしたのか・・岩城は静かにカヅラに歩み寄ると、ひろげられた鬼の腕に抱かれていった。カヅラにも岩城にも声はなく、ただ抱き合って離れていく。
 ふたたび揺らぎのベールをくぐったとき、鬼塚洞に仙人のように年老いた寿斎が立って待ち受けた。

 寿斎もまた何も語らず、岩城の背をそっと押して洞窟の出口へと導いた。

「わしはカヅラとともにここで暮らす」

 岩城はこくりとうなずいて、森へと戻るところで待っていた若い遙に連れられて外界へと生還した。
 そのとき時刻は・・最初に鬼塚洞に踏み込んでから五分と過ぎてはいなかった・・。

獄死の微笑(三話)


三 話



 母親を獄中へと追いやった刑事の手を握る遙の姿を見ていて、寿斎は言う。
「この呪いを止められぬは鬼どもが千鬼成願を成した者の願いしかきかぬからじゃ。恭子が許さぬ限り誰が言おうが鬼は恭子との約束を守る。三兄弟のうち残ったのは一人じゃが、その先のことは恭子のみぞ知るということじゃ」

 三兄弟それぞれに家族がいて子息がある。岩城は言った。
「希代美のことはしょうがないのかもしれない。しかし事件当時、三兄弟の子供たちはまだ小さく、子供に罪はありません。なんとかして止めるすべはないものか・・止めなければ恭子自身が呵責を背負うことにもなるでしょう。恨みはわかる。しかしそのために罪のない子供らを殺したとあっては、それは結局、三兄弟が自分にしたことと同じ」
 寿斎はうなずくわけでもなく、孫娘のような遙に今日は帰れと言いつけて、岩城には残れと言うように洞窟の奥へと顎をしゃくった。

 遙が去って、寿斎は言った。
「希代美のことはどうにもならぬ。じゃが、その子供らについては・・鬼に会う覚悟はあるか?」
「鬼に会う・・会えるのですか?」
 寿斎はまた、うなずくでもなく洞窟のさらに奥へと歩きだす。洞窟はその先で二股に分かれていて、右の一方は上へと登り、左の一方はやや下る。その下りの側へと寿斎は歩む。
「この先は鬼の世界じゃ、覚悟なければ帰るがよい」
 後ろからついて来る岩城を振り向くことなく寿斎は言い、その声が岩に響いて岩城に聞こえた。
「気を確かに持つのじゃぞ」
 そう言って、あるところを超えようとしたときだった。
 岩城は、空間のねじれに巻き込まれるように崩れた重力に囲まれた。揺らぐ視野・・膝が折れそうになる体の重さ・・そうかと思えば逆に浮くような感覚・・体がねじ曲げられる感じがする。

 そしてその不思議な感覚が、ふ・・と失せたとき、黒い岩の洞窟でありながら周囲のすべてが陽炎に揺れる広い空間へと踏み込んだ。そしてそこに一握りの大きさの黒い丸石を積み上げたような大きな塚がある。
「これが鬼塚じゃ。石一つが一人。地獄へ落ちた者どもの墓じゃと思えばよいじゃろう。よいか、よく聞け」
「ええ?」
「岩城と言ったな。そなたのためではない、遙のためじゃ。あの子はいい子ぞ。自分が手を貸したばかりに恐ろしいことが起こっておると思うじゃろう。希代美のことは止められぬ。恭子の恨みであるからだ。じゃがその先・・鬼と話してみるがよい。ただし決して鬼どもを怒らせぬこと。怒らせたら最後、鬼の世界に引きずり込まれることになる。地獄じゃよ。覚悟があるなら、わしは出ておる」
「わかりました。何としても止めないと・・」
「やってみるがよいだろう。わしが出たらこう言えばいい。『カヅラよ、出でよ』それだけでよい。鬼はそなたの胸の内など見透かすわ」
「カズラ・・ですか」
「女の鬼を取り仕切る、もっとも恐ろしい女の鬼じゃ。わしはかつてそのカヅラに救われた」
「救われた? 鬼に?」
「この山ではない。別の山に踏み込んで景色の揺らぐ不思議なところに出てしまった。突然の嵐で山に迷い、洞穴に飛び込んで・・そしたらその穴がカズラの棲み家・・気まぐれな鬼じゃった」
 寿斎は思い出すようにほくそ笑むと背を向けて去って行く。

 岩城は累々と積み上げられた死者の石を見渡して、それから揺らぎの外の闇に向かって言った。
「カズラよ、出でよ・・カズラよ、出でよ・・」
 恐怖に膝が震えていた。まさかとは思うのだったが・・。
 陽炎のように景色を揺らす空気のベールとでも言えばいいのか、その外側で一際沈んだ闇の中に、とてつもなく大きな影が蠢いて、やがて闇は輪郭を結んでいく。
「・・ふっふっふ・・めずらしいこともあるものよ、このあたしに生きた男が会おうなどと・・ぐっふっふ・・」
 ドス低く響く声。
 黒い影が揺らぎの向こうに歩み寄り、揺らぎのベールをくぐったとき、カズラという女の鬼の姿が実像となって現れた。カズラは、白い首に鉄環をはめ鎖でつないだ全裸の女を連れている。こちらは人間の女。二十歳そこそこの美しい娘であった。
 岩城は力が抜け落ちたように膝から崩れ、歩み寄る大きなカヅラを見上げているしかなかった。
 身の丈二メートルをゆうに超え、赤黒い肌・・雪兎の毛皮らしい腰革をミニスカートのように穿き込んで・・筋骨隆々としたまさに獣身・・メロンのように大きな乳房・・顔は四角く、唇は厚く牙が覗き、見開いた眸は血走って赤く・・髪の毛はカールの強い赤毛であり、その頭には二本の角が生えている。
 足は素足で、けた外れに大きくて、爪が犬の爪のように尖っている。手も大きく爪はやはり犬のよう・・圧倒される赤鬼の女、それがカヅラ。

 岩城は声が出なかった。まるで子供に戻ったように怖くて怖くて体が震える。 揺らぎのベールを超えたカヅラは、ゆっくり、のしのし歩み寄り、尻をついて崩れた岩城の前に立ちはだかる・・。
「ほれ恭子ぞ。会いに来たのではないのか。しかし無駄だ。二十歳の女に戻してやったわ。呪いのことなど何も知らん・・遙という娘のことさえ何も知らん」
 恭子・・生き返り、若返り、鬼の奴隷となった恭子。美しいと岩城は思い、その白い体に傷一つないことからも、可愛がられているのだろうと想像した。
「恭子さん」
 呼びかけても全裸の恭子は不思議そうに首を傾げて微笑むだけ。カヅラが言った。
「無駄だと言ったはずだ。恭子の心は幼子よ」
「幼子?」
「苦しみを知る前の赤子の心に戻してある」

 よかった・・三兄弟に虐待された心の荒みが消されている。そう思うと泣けてくる。
「私は、その恭子さんを・・」
「言うな。言わずともわかっておる。人間の胸の内など聞くまでもない。おまえは泣くのか? この女のためにおまえは泣くのか? おまえが獄へ送った死刑囚ぞ? 思い半ば。恨みを晴らしきれず獄中でどれほど口惜しかったか、おまえにわかるか?」
「私は・・娘の遙ちゃんのためにも・・」
「だから言うな! 言わずともわかっておる。生きた者があたしに会うなど、すなわち命がけということよ。それでもおまえは願うと言うのか? 黙っておれ。願いなどこざかしい。おまえの心に、あたしの心が動くかどうかよ」
「・・はい、申し訳ありませんでした。ですがどうか一つだけ。その娘を・・恭子さんを可愛がってやってほしい・・私は申し訳ないことをしてしまった・・この通り」

 岩城は、全裸にされて子供のように無邪気になった恭子へ向かって手を合わせた。岩城は泣いた。静かな涙がとめどなく流れていた。
 恐ろしく大きなカヅラは、そんな岩城をはるか上から見下ろして、ただじっと見つめている。
 そしてカヅラは、そばにいて見上げて笑う若い恭子の頭を撫でて・・そしたら恭子がきゃっきゃと笑って自分の体よりも太いカヅラの腿に抱きすがり・・そんな恭子を、カヅラはくるりと振り向かせると、向こうへ行っていろと言うように恭子の白い尻をぽんと叩いて追いやった。
 そのとき揺らぎのベールの向こうから別の鬼の手がのびて、恭子の首輪につながる太い鎖をそっと持って引き寄せる。
 全裸の恭子はちょっと振り向き、崩れたまま動けない岩城に向かって微笑んで、揺らぎの中へと吸い込まれていくのだった。

「手を見ろ」
「え?」
「手を見ておれ」

 意味も解せぬまま岩城は自分の両手を見下ろした。
 カヅラの血走った大きな眸がギラリと光ったその瞬間、岩城は体中に疼くような不思議な痒みを感じだす。ゾクゾクと体の中から湧き上がるような疼き・・そして見下ろす自分の両手が見る間に若者の手へと変化していく。シワがなくなり張り詰める若い肌。岩城は目を見開いた。
「若い男に戻してやったわ・・ぐっふっふ・・立て」
 立ち上がろうとして体の軽さに驚いた。肥っているつもりはなかったが、ズボンがいきなりぶかぶかになっていて、シャツもだぶだぶ・・青年の頃の肉体に戻っていた。
 呆然とする・・何もかもに呆然とする。

「脱げ」
「・・はい」
 呪文のようなカヅラの声に岩城は逆らえなくなっていた。逆らうこともできそうなのに逆らう意思が湧いてこない。初老の男が着るものを脱ぎ去った岩城は二十歳の肉体に戻っていた。白髪の目立った陰毛も黒く茂り、圧倒的なカヅラの女体に反応したかのように激しく勃起させている。
「ふっふっふ、いかにも若い・・アミラよ、出でよ」
 カヅラの声に、揺らぎのベールの向こうから黒い影が歩み寄り、ベールをくぐって、明らかに若い女の鬼の姿となる。若いといっても身の丈はカヅラとそうは違わない。茶色の毛皮を腰に巻いた青鬼の娘。まだ短な角が頭に一本生えている。
 アミラと呼ばれた若い鬼は、カヅラのそばまで歩み寄ると、男の欲情を隠せない岩城の白い肉体ににやりと笑う。
「アミラはまだ三つの幼子よ。人間の歳なら十五、六といったところ。恐ろしい残酷を持てあます若い娘。人間の男などもちろん知らぬ。可愛がってやることだ。ふっふっふ・・生きて戻れればよいのだが。アミラよ」
「はい、カヅラ様?」
「連れて行け」
「ええ、いただくわ・・ふっふっふ・・きゃははは!」

 のしのし歩み寄るアミラ。一歩後ずさりする岩城。青鬼の大きな手が背と腿に回ったと思ったら、人間の体などひょいと持ち上げられてしまう。逆お姫様だっこ。岩城はアミラの太い腕の中で、妖艶に微笑むアミラに見とれていた。まさに鬼の微笑みだった。
 カヅラが言った。
「寿斎よ、この者をしばらく借りるぞ」
 やれやれと苦笑するように老いた寿斎は現れたのだが、カヅラに歩み寄るにつれて若返り、三十歳の男となって立っていた。
「どうやら気に入られたようですね」
「さてね・・あたしが決めたところでだめなのさ。あの残酷なアミラが許すようなら考えてやってもいい。寿斎・・ああ抱いて・・」
 カズラの大きな手が寿斎を引き寄せ、体がしなるほどに抱き締める。
 若返った寿斎の白い手が、比べるまでもなく大きなカヅラの腰革の紐を解いていき、カヅラは熱い吐息を吐きながら若い寿斎の男らしさを指先につまんでいく・・。

 その頃、東京では。
「これは・・検屍もくそもありませんね」
「・・もはや肉片だ・・恐ろしい・・」
 西林希代美の惨殺死体が血の海の中に転がっていた。時刻は当日の深夜だった。揺らぎの世界で岩城の時は止まっていたが、現世では時間がズレてしまっている。

獄死の微笑(二話)


二 話



 西林恭子が逮捕されたとき一人娘の遙は三歳から四歳への狭間。恭子に身寄りのないところから、いっとき横浜にあるアマンダ・ホームに預けられたものだった。アマンダ・ホームは、戦後すぐ戦争遺児たちを救うためアメリカ女性のアマンダ・マクレーンによってつくられ、その後二度の代替わりを経て、いまは本橋千鶴という日本女性に引き継がれている。
 母親が投獄されて、遙は一年ほどをホームで暮らすが、幸運にも里親が見つかって長野へ移住。現在の遙は十九歳。引き取ってくれた里親の父が亡くなり老いた母と二人で信州は安曇野に暮らしていた。

 と、そういうことで、遙は高校を卒業後、安曇野は梓川のほとりにある老人のためのグループホームに勤め、家族にうとまれてやってくる年寄りたちの面倒をみていた。物心ついたときには母親がいない。育っていく過程で母の身の上を知っていき、それだからか、年老いた人々にやさしくできる心を持った。
 すらりと背の高い美しい娘。いまどきの娘らのように髪を染めず、絹糸のような黒髪も美しかった。

 定年を過ぎた岩城には昔のように刑事仲間はいない。岩城は単身、遙を訪ねた。
 梓川でも上流にあたり流れは透き通って美しい。施設のすぐそばからはじまる斜面がそのまま背景の山々へとつながって、鬱蒼とした緑がうねるように折り重なる、そこはまさに別天地。恵まれない境遇の遙に神が与えた景色のようだ。 

 グループホーム、梓川青山苑(せいざんえん)。
 岩城が訪ねたとき遙はちょうど留守だった。
 年寄りたちにすればめずらしい男一人の来訪。七十代後半からの入所者であって九十代の年寄りにすれば息子が訪ねて来たようなもの。岩城は皆のいる広びろとしたリビングルームで待たされた。遙は買い物。すぐに戻るという。
「ほうほう、鬼っ娘(おにっこ)に会いに来たか。ほうかほうか」
 岩城にとって母親のような老婆がすぐそばに寄って来て言う。外の世界が懐かしいのだろう、人々は皆人懐っこい。
「鬼っ娘ですか? 遙ちゃんはそう呼ばれて?」
「ほうじゃよ。そこの山に鬼塚洞(おにづかぼら)というのがあってな。仙人のごとき老爺がおるそうじゃが、あの子はそこが好きでよく行くのじゃ」
「老爺・・それはどのようなお人なので?」
「ようは知らんが・・何でも若い頃は修験者であったらしい。山伏じゃよ。でその洞に棲み着いた。歳は七十・・八十か・・それじゃが脚が良くての、いまだに山を歩き回っているらしい」

 直感的にそれだと思った。
 修験者の中には特殊な術を体得する者もいるという。
 鬼塚洞・・鬼の神・・つながると岩城は思う。

「あらら、お婆ちゃん、デートかしら・・あははは!」
 言っているそばから遙は戻り、ちょっと出ようと目配せで言う。
 ホームには職員が数名いて、遙は仲間の一人に浅く頭を下げて岩城を外へと連れ出した。遙は溌剌として若かった。ブルージーンに職員お揃いのピンクのトレーナー。背が高く、胸も張って、すがすがしいほど美しい。
 かつて一度会ったことはあっても、そのときの遙は子供だったし記憶にない。
 美人だった母親の恭子より遙はさらに美しく、はじけるような若さがある。
 施設には広大な庭があり、初秋の安曇野に森から流れる山風が樹々の香りを運んでいた。
 白いベンチに並んで座る。

「岩城と申します」
「もしや母のことでしょうか?」
「ええ。十六年前あなたのお母さんを逮捕した刑事の一人です。いまはもう定年で刑事ではありませんが」
 遙の横顔がちょっと笑って、目を細めて山々を見渡している。
「岩城さんにとっては終わったことですよね?」
 と、つぶやくように遙は言った。
「いいえ終わっていません。私はお母さんに顔向けできない。お母さんに凶行におよんだ理由を語らせることなく捜査を終えてしまった。さぞ無念、さぞ口惜しいに違いない」
 しかし遙は静かに言った。
「母は逝きました。いまさらそれを言ったところでどうなります?」
 岩城は辛い。幼い娘とその母親を引き剥がしてしまった逮捕。しかし言わなければならないことがある。
「西林義介ですが・・」
「はい?」
「殺されました。体をバラバラに引き裂かれたような惨殺だったそうです」

 そこでようやく遙は横に座る岩城へと視線をやった。
 岩城は言う。
「私の方で手を尽くしてあるお坊さんを呼んだのですが・・千鬼成願・・遙さん、あなたはかつてお母さんから送られてきた赤い鬼の絵を九百九十九枚にもおよぶ墨絵の鬼と合わせて棺に入れた。よもやそんな馬鹿げたことはないだろうと思ってましたが、あるいはお母さんはこうなることを予見して恨みを鬼に託して死んだ・・私はお母さんに顔向けできない。もっとよくお話を聞いてあげればよかった。思い残すことなく死なせてあげたかった。申し訳ない思いでいっぱいなんです。ですけど遙さん」

 そのとき遙がベンチを立った。
「いまはダメ、仕事中です。後ほど四時にいらしてください。今日私は早番だから。でも岩城さん」
「はい?」
「私はあなたを恨んでなんていませんよ。母だってそれはそうだと思います。それ以上のことは後ほどまた・・」
 別れ際、背を向けかけた遙に岩城は言う。
「早く呪いをとめないと」
 遙かは、その声を背で聞いて、振り向くことなく歩み去った。

 そして四時。岩城は遙が運転する軽に乗せられ、グループホームのある裏手から山道へと分け入った。
 運転しながら遙は何も話さない。仕事のスタイルからトレーナーを替えただけのジーンズとジャケット。長い髪をポニーテールにまとめていた。
 山道を二十分ほどだったろうか。山の中の道筋に山火事に備えた地区の消防の小屋がある。その前にクルマを停めると、遙が先に森へと踏み込み、人一人がやっと歩ける道を登る。数分行くと緑の山に黒い岩肌が目立ちはじめ、直立する岩盤が斜めに裂けたような洞窟の口が見えてくる。
「鬼塚洞です」 と、遙は言った。
 岩の裂け目は見上げるほど大きくて、鋭く尖った岩肌に足を取られながら中へと入る。時刻は四時半を過ぎていたが夏の残るいまならまだ明るい。
 洞窟の口から土が積もったような細い道が続いていて、時折天が割れて青空が覗いている。

「寿斎(じゅさい)様・・私です」
 天が厚い岩に閉ざされて、洞窟の岩肌が滑らかでいびつなドーム状に拡がったところで、遙は立ち止まってそう言った。
 しかし声はない。出かけているようだった。
「お留守みたい。ここでお待ちしましょう、きっとすぐ戻られます」
「寿斎とおっしゃるか・・こんなところにお住まいなので?」
「いまはね。いまはここに暮らして山を愛し、ここが死に場所だとおっしゃっておられます。母のことをお話しましょう」
「はい、ぜひ」
「その前に・・千鬼成願は、願いがかなうと鬼を留めるすべはないと聞いています。女が命を賭けた鬼への願い。でもまさか・・私だって信じてはいませんでした。母が可哀想。せめてと思って言われたとおりにしてみただけで・・」
 丸い岩肌に腰掛けて話していた。
 遙は薄闇の中にいて、このとき例えようもなく妖艶に微笑んだ。

 遙は言った。
「西林の家に引き取られた母は、女二人男一人の兄弟の中にいて、それは虐待されて育ったそうです。年頃になってからは性奴隷。とても言えないような辱めを受けて耐えていた。義介です・・母をおもちゃにした張本人。兄弟たちより惨い仕打ちを重ねていた。母は美人よ。二人の姉妹はそれも許せず、一人だけ男だった保は・・精液のトイレのように母を蔑んだ」

「しかしそれでも恭子は耐えておったのだ」

 いつの間にそこにいたのか、修験者そのままの白衣を着た老人が立っていた。一見して八十代。思いのほか小柄、総白髪の長い垂れ髪、痩せ細った面色、シワ深い小さな顔の中で眸だけがギラギラ輝く。
 白木でこしらえた長い八角棒をついていた。
「こちらは東京から・・ママを逮捕した刑事さんなんですけど、千鬼成願のことでお話したいと・・」
「うむ・・動いたようじゃな」
 遙が言い、まさに仙人そのままの寿斎が応じて吐き捨てるように言った。
「西林義介が殺されました。それこそ鬼に体を引き裂かれたような惨い殺しであったそうです」
 岩城の言葉に寿斎はうなずきもせず、孫娘のような若い遙の肩を抱いて座り込む。

「あの頃この子は八つだったが九つだったか・・幼いこの子を連れて拘置所に会いに行ったのだが、あまりに哀れで見ておれぬ。この子の顔を見たとたん身をよじるように泣きだす恭子・・恭子の運命を変えてしまった一族が許せない。千鬼成願は、わしが教えた」

 岩城はただ黙ってうなずきながら涙をためて聞いていた。

「恭子は言った。遙のことでだ。この子は私生児、父親に認めてもらえない哀れな娘。その遙に対し、誰の子だかわからない犬畜生の子を産みやがってと、産ませた張本人が言ったそうだ」
 遙は握り拳を膝に置いてうつむいている。
「奴隷の分際で・・兄弟三人、加えて父の義介にまで罵られ、生まれたばかりのこの子さえも虐待しようとした。恭子は遙を抱いて逃げ出した。横浜の港で身投げしようとするところをアマンダ・ホームに救われた。いまアマンダ・ホームをみている本橋千鶴はわしの娘よ」
 岩城は声もなく涙を流して寿斎を見つめた。
「許せぬわ・・しかし、いくらなんでも千鬼成願は恐ろし過ぎる・・そう思って教えることをためらっていたのだが、あのときの泣きじゃくる恭子を見ていて、わし自身に鬼どもが乗り移ったのよ。許さん・・もう許せん。わしは教えた」

 寿斎は泣きだした遙を横抱きに抱き締めながら言う。
「可哀想に・・惨い・・惨すぎるわ・・」
 岩城は言った。
「しかし呪いをとめなければ・・」
「無駄じゃよ。ひとたび動き出した鬼をとめる術はない。千鬼成願は鬼の妻・・あるいは鬼の奴隷となることを誓う儀式ぞ」
「・・鬼の妻?」
「ゆえに、もっとも女らしい愛液で溶いた墨を用い、血の誓いの意味を込めて一枚だけを血で描く。恭子が描いた血の鬼は女の鬼じゃった。男の鬼なら妻となる誓い、女の鬼なら奴隷となる誓い。恭子は奴隷を望んだということじゃな。鬼どもの世界には時はない。いまごろ恭子は鬼の世界で時を遡って生き返り、若い女の裸身をもって鬼どもに嬲られているじゃろう。未来永劫、奴隷の日々。そうまでして仕える誓いをたてた女に、鬼は一つだけその願いを聞きとどける。ゆえに無駄じゃ、もう遅い」

「私の父は西林保・・もしくは義介・・わからないの・・わかりたくもない・・」

 呟くように遙は言った。
 愕然とした。岩城はとっさに遙を見つめた。
 血がつながらない兄弟の子・・もしくは父が娘に産ませた子・・犯され続けた恭子の日々が想像できた。だから恭子は保の男性器を切断した・・放っておけば義介もそうされていただろうし、希代美もまた女の性の根源をアイスピックでめった刺しにされただろう。

「申し訳ない・・もっともっと話し相手になってやれれば・・申し訳ない・・」

 母を逮捕した刑事の手を、遙は握って、泣いていた。

獄死の微笑(一話)


一 話



「千鬼成願(せんき・じょうがん)ですか・・」

 岩城信茂には、それきり声もない。定年をすぎた岩城以上に年老いた老僧がうなずいて言う。
「しかし事なきを得るでしょうな。絵は九百九十九枚。一枚足りないし血だけで描いたものも、この写真を見る限りなさそうだ・・」

 一人の死刑囚が獄死した。西林恭子、五十三歳。
 いまからおよそ十六年前、連続惨殺事件の容疑で逮捕され、そのあまりの猟奇的犯行に人々は震え上がったものである。
 恭子は事件の一切を口にせず黙秘したまま死んでいった。当時の恭子にはまだ三歳の娘がおり、その子のためにも刑の執行を先送りにしていたのだったが、処刑される前に獄中で病死した。肺ガン。治療を拒んで死を望んだということだ。

 しかし恭子は、死に際し、思いを遂げたようなうすら笑いを浮かべて死んでいき、獄中で描き続けた九百九十九枚の鬼の絵が残された。顔だけの鬼もいれば全身を描いたもの、男の鬼、女の鬼と、さまざまだ。サイズはすべてB5。
 受刑者が獄死すると牧師が呼ばれることがあるのだが、牧師では理解できず僧侶が呼ばれた。しかるにその僧さえも理解できず、話を聞いた岩城が方々に手を尽くして、ようやく一人の老僧へと行き着いた。
 岩城は六十三歳。十六年前の事件当時、捜査を担当した刑事であり、いまは定年で隠居の身。けれども岩城は若々しい。
 恭子の遺体と対面できたわけではなかった。岩城がその老僧へ行き着くまでには時間がかかり、遺体は病死から数日後に一人残された遺族である愛娘に引き取られ、そのとき一緒に鬼の絵そのものも返されてしまう。
 受刑者の行動を記録するため、一枚描くごとにその絵を写した無数の写真を大きな会議テーブルに並べ、それと受刑者の記録を対照して判断する。

 老僧は言った。鬼の絵は『千鬼成願』という呪術のたぐいであり、本人が描いた千枚の鬼の絵を遺体とともに棺に入れて荼毘に付す。そうすれば死者の願いを聞き入れた鬼どもが願いを叶えてくれると言うのである。
 願いとは、すなわち復讐。それしかないだろう。
 馬鹿馬鹿しい・・いわゆる不可能犯罪で、霊や魔物のたぐいが復讐してくれるはずもない。現代の刑事でなくとも一笑に付すところ、岩城は気になってならなかった。

 恭子には、事件当時、捜査しきれなかった裏がある。最後まで動機を語らせることができなかった。惨殺に至る怨恨とは何なのか。思い半ばで逮捕され自分だけが罪に問われる理不尽さが無念でならず、そういうことを思いついたのかもしれない。
 一方を罰しておきながら一方を黙認するなど許せない。生涯を警察に生きた者として自身の人生そのものを決める出来事・・そう考えた岩城は、せめて真実を暴きだし恭子を弔ってやろうとした。すべては自分の力不足。岩城は恭子に対して顔向けできない思いでいた。

 西林恭子は幼くして両親を交通事故で亡くしている。右側面から大型トラックに突っ込まれてクルマは横転。左側後席のチャイルドシートにいた恭子だけが助かった。父は即死、母親も救急車の中で絶命する。そのとき恭子四歳。
 それから恭子は、父方の親戚筋に引き取られることになるのだが、恭子が殺害に及んだのはその育ての親の家族たち。育てられていく過程で何かがあったとしか思えないのだが、恭子は頑として口を割らない。

 十六年前の惨殺事件が起きるさらに三年ほど前、恭子が三十五歳のときに恭子は私生児を産んでいる。名を遙(はるか)と言い、認知されない一人娘であったのだが、おそらく恭子はその我が子を守ろうとして口をつぐんだ。
 それというのも、育ての親の一家には子息が三人いて、長女が小百合、生きていれば五十七歳。次が希代美と言って五十五歳、こちらは存命。残る末っ子は男で、名を保と言い、生きていれば五十三歳。
 つまり三兄弟を狙ったわけだが、次女の希代美を手にかける前に逮捕されてしまう。口を割れば娘が危ないとでも思ったのだろうか。恭子は黙秘したまま旅立った。

 岩城は歳月に薄れる記憶を呼び覚まし、当時の捜査ファイルとも対照して、もしも復讐するなら、いまだ存命の希代美、そして三兄弟の子供たち。そのために千鬼成願などという呪いをかけようとした。
 恭子に殺害された小百合には圭子と言う二十九歳になる娘がいて、同じく殺された末っ子の保には彰子という二十歳の娘、そして存命の希代美には健太郎と言う二十六歳になる息子がいる。

・長女 小百合、殺害当時四十一歳。現在二十九歳になる娘の圭子がいる。

・次女 希代美は存命で現在五十五歳。息子の健太郎は現在二十六歳。

・三男 保、殺害当時三十七歳。現在二十歳になる娘の彰子がいる。

・さらに、三兄弟の母親は没していたが、父の義介は八十歳で存命。

・その西林家に、当時四歳だった恭子は引き取られて育ち、五十三歳で獄死した・・。

 ということなのだが、それら一族のことごとくを葬り去ろうとして復讐を鬼に託した・・と考えられなくもないのである。
 恭子をそこまで追い詰めたものは何か。恨みの基点がどこにあるのか。岩城は確かめずにはおれなくなった。

 最初の殺しは、当時四十一歳だった小百合であった。凶器はアイスピック。全身に数え切れない刺し傷が残り、とりわけ腹部に、子宮に到達する刺し傷が集中していて致命傷がどれかも特定できない無残な殺し。出血多量によるショック死だった。
 次は末っ子の保。凶器はやはりアイスピックだったのだが、男の保に対して恭子は男性器の切断にまでおよんでいる。やはり出血によるショック死である。
 現場はどちらも血の海で、幾度も殺人捜査を経験した岩城ですらが寒気を覚えたほど。一目で怨恨とわかる常軌を逸した殺し方であり、恭子の恨みの深さが想像できた。
 裁判。いかなる理由があったにせよ残虐きわまりなく、本人の供述もないことからも情状酌量の余地はない。死刑を覚悟した恭子は、せめて娘だけは守ろうとして黙秘を続けた・・。

 しかしそれにしても・・九百九十九枚におよぶ鬼の絵。獄内では尖ったものは与えられず、すべてが筆書きだったのだが、鬼の全身の輪郭に墨の滲みにしてはぼやけ過ぎな微妙な滲みが認められる。
 老いた僧侶は岩城とともに刑務所を出て歩きながら、岩城にだけ告げたのだった。

「よくは知りませんが千鬼成願とは女人が用いる呪いの術。そしてその絵には決まり事がありましてな、女人の体液を混ぜ込んだ墨で描くのですよ」
「・・体液を」
「はっきり申し上げるなら愛液ということですし、千枚のうちの一枚だけは血そのもので描かなければなりません。血だけで描いたその一枚が見当たらない以上、呪いは成立しませんので」

 だとすれば、なぜ恭子は笑って死ねたのか・・想いを遂げた者の笑顔だとしか思えない。

 恭子が鬼の絵を描きはじめたのは入所から五年・・つまりいまから十年前になって突然はじめ、それまでは一枚たりと描いていない。文書の記録として残っていても当時のことを知る刑務官は定年や退官ですでにいない。
 岩城は、現職の刑事仲間にあたって調べさせ、圭子の入所当時を知る一人の男に突き当たった。
 星山京平、元刑務官。六十五歳。
 岩城はさっそく星山を訪ね、隠居生活を送る小田原へと出かけた。

「西山恭子・・もしや・・?」
「鬼の絵の」
「えーえー覚えてますとも。彼女に何か?」
「獄死しました。刑の執行ではなくガンだったのですが・・」
 岩城は千鬼成願の一部始終を星山に告げた。星山は見るからに人の好さそうな男だったが、岩城同様に若く見える。

 星山は即座に言った。
「覚えてますとも。あれは鬼を描きだしてからしばらくした頃だった。そのときにはもう百枚ほどを描いていたのですが、一枚をどうしても娘に送ってやって欲しいと言う。血の色をした絵の具をくれと言うもので、その一枚だけが赤い鬼。他はみな墨絵なのにね。赤い鬼は女の姿をしておりました」
 やっぱりそうか。
「それで、あなたは送ってやった?」
「もちろんですよ。気味が悪いというだけで留め置く必要もないのでね」
 それで千枚。赤の絵の具を欲しがって、そのじつ血だけで描いたもの・・口の中で舌先でもちょっと噛めば出血を悟られずに済むだろう。

 血の一枚はすでに描いて娘に送った。そして残りを描き上げ全部で千枚ということで、千鬼成願は成った。だから笑って逝けたのだ。
 そして岩城が星山の暮らす山の中の家を出たとき、携帯電話が鳴り出した。
 電話は、岩城の定年前に部下だった捜査一課の前川からだ。

「はい岩城・・おぅ、どした? ・・うん・・何ぃ、殺された・・惨殺・・」
「被害者は西林義介、八十歳。義介はご存じのように三兄弟の中で残された希代美と同居しておりますが、昨夜は普通に眠り、朝になっても起きてこないので希代美が見に行ったところ・・しかしそれが・・」
「どうした?」
 前川の声が震えている。
「部屋の中でバラバラにされて死んでいた・・」
「バラバラ・・切断か?」
「違います、まるでバケモノにでも引きちぎられたように手足も首もバラバラなんです。検屍にあたった医師でさえ見たことのない死体・・うまく言えませんが、まさに鬼にでも襲われたようなありさまで・・岩さん、マジでヤバいっす、呪いが本当なら連続殺人になりますよ」

 岩城は、とにかくまず娘の遙に会おうと考えた。
 千鬼成願は、前もって遙に託した血の一枚を九百九十九枚の墨絵と合わせて棺に収めて完成する。遙はそれを知っていた・・。
 遙そして恭子に呪術を授けたのは誰か・・その者に会って呪いを解かないと大変なことになる。