2016年11月16日

花嫁の森(終話)


終 話


 二月ほどが過ぎた夏の下旬。沖縄に迫る巨大な台風が列島を狙っていた。予報円の真ん中を進むとすれば、九州南部をかすめて四国に上陸、そのまま列島を縦断する最悪のコース。スピードが遅く、甚大な被害が予想された。台風本体が沖縄に迫っている段階なのに、大量の蒸気を含んだ雲は九州から関東までをすっぽり隠し、四国あたりでは小雨だというのになぜか関東に猛烈な雨を降らせていた。

 この日は平日の水曜だったが、脇田はこの日、代休で家にいた。先だっての日曜にちょっとした事件があって勤務した、その代休。平日でもあり夫は仕事で出かけていて、息子は友人たちと伊豆にいる。せっかくの休日なのにこの雨では出られないし、こういうときの警察官は部署の別なく自宅待機というのが普通であった。かつてないほどの台風。神奈川県は海に面しており山間部も多いことから、大規模災害が起きないとも限らないからである。
 昼下がり。自宅マンションのガラスエリアをシャワーが洗う怖いほどの雨を横目にしながら、脇田は地元放送局のテレビをつけていた。何かあればテロップが流れる。

 番組は少し前に放送された二時間特番の再放送で、世界の不思議を取り上げるもの。UFOから心霊までをカバーしていて、ちょっと信じられないような実話もまじえたものだった。
 しかしつまらない。非科学的・・荒唐無稽と言うのか、いわゆるヤラセものだと思うような超自然現象・・UFO・・未確認生物・・いかにも存在するように編集しておき、結局発見できなかったで終わる。現実に向き合う警察官には夢物語でしかなかっただろう。しかし・・。
 久々に珈琲を淹れてロングソファにくつろいでいた。そしてそのとき、ふと樹林の白き館を思い出す。台風の直撃コースに入っていて、山が崩れて孤立でもすれば危険だと考えた。

「エビルアイとは、現実に存在する悪魔的な念のパワー。魔眼あるいは邪視とも言われるが、ここに証言する女性がいる」

 猛烈な雨がいまにもガラスを通して吹き込んできそう。鉛色の空を見渡していて、意識の片隅にそんな声がフェイドインで忍び込む。
 脇田は、香ばしい珈琲に口をつけながら、意識をテレビへ引き戻す。ちょうどそのとき速報の音がして、神奈川の箱根エリアに大雨洪水警報が発令され、山間部には避難準備情報・・。
 そしてそのテロップに隠れるように、白人女性の老婆が映る。
「わたくしなどスコットランドの魔女と呼ばれていますのよ。ただエビルアイを持つというだけなのにね・・おほほほ」
 取材スタッフが問いかけて老婆が答え、字幕となって表示される。画面上部のテロップが消え、画面の下に流れる字幕へと視線が下がった。

『エビルアイとは日本語で魔眼あるいは邪視とも言われ、その眼差しに見つめられると、悪魔に魅入られてしまったように操られることもある恐ろしいもの』
 ・・と、字幕で解説されていて、老婆が言った。
「催眠術だと思う人もいるでしょうけど違うのよ。眼差しに念を込め、相手の心に送り込むことで、その人の心を支配する。それはちょうどマリオネットを操るようにね」
「そんなことが実際にできるものなんでしょうか?」 とスタッフが訊き、老婆は眉を上げて微笑んだ。老婆は明らかに九十代。番組の演出らしく黒いローブを着ているが、まさに魔女といった姿であった。
「できますとも。・・あら、そうだわ、あなた方は日本の方よね? 日本からわざわざおいでになった?」
「はい、おっしゃるとおりですが?」
「だったら・・ふふふ・・わたくしはエビルアイの持ち主を何人か知っておりますが、わたくしの知る限り、最強のパワーをお持ちの方が日本にいらっしゃる」
「私たちの日本にですか?」
「そうよ日本に。名を申し上げるのは差し控えますが、その方はそれは美人でいらっしゃり、日本人の父を持ち、イングランド人の女性を母に持つ、そんな方でね」
「ではハーフ?」
「そうですね、ハーフです。あれはいまから・・うーん・・十年ほど前かしら。そのときはじめてお会いした女性なのですが、このわたくしがゾッとするほどのエビルアイの持ち主で・・確か・・なにかの舞踊をやっておられたと記憶しておりますが・・」

 脇田は身を乗り出した。猛烈な雨さえも意識から消えていた。
 十年前というと、前衛舞踊家モイラが逮捕され、その後釈放されて消息不明になった時期と合致する。
 老婆が言った。
「その方のお母様もそうなんですが、お嬢様の方がはるかに強い念を持つ。いわゆる魅入られるということで彼女に見つめられると心を奪われ、あたかも僕(しもべ)のようにされてしまう」
「それはたとえば奴隷のように?」
 老婆は楽しそうに笑った。
「女ってそういうものよ。眸で相手を虜にし、心の限り尽くさせる。そんなことができるのなら、これほど幸せことはないでしょう。素敵な男性を飼い慣らせるのですからね。それは相手が女性であっても同じこと。相手が女の場合は往々にして呪いということにもなりかねませんが・・おほほほ・・どうかしら? 女って怖いでしょ?」

 エリーだと直感した。エリーの母のシンディもエビルアイを持っている!

 そう思うと、あのとき大胆にも館を訪ねたことが恐ろしくなってくる。
 ・・と、そのとき携帯に電話。息子だった。
「道が通行止め? うんうん、いいわよ、しょうがないもん。様子を見てホテルにでも泊まればいいから・・うんうん・・とにかく気をつけなさいね」
 いったん引き戻された意識が、電話を切ったとたん樹林の館へと羽ばたいていくようだった。

 かつてない・・この言葉が当然のようになっているが、かつてない巨大な台風は列島各地に甚大な被害をもたらした。洪水、山崩れ、高潮による沿岸部の被害と、列挙すればキリがない。
 そして、そんな台風が過ぎ去った五日後のこと。その日は火曜日で、脇田は若い田村を伴って東京の警視庁にいた。少年少女を性犯罪から守るための全国警察会議である。しかし性犯罪から守るといっても指導には限界があり、発見されたときすでに被害者というケースがほとんどだった。取り締まる側とすれば、そのままに放置できない。けれども実際、有効な手段などないに等しい話である。
 さらにまた、本来こういう場には部署を統括する立場の松崎警部が出席すべきところ、なんのかんのと理由をつけては部下をやってごまかしている。脇田は腹が立ってしかたがなかった。

 警視庁幹部からしごく当然のことを聞かされて会議が終わり、地方からの出席者は、距離によって泊まりと日帰り組に分かれるもの。脇田と田村は神奈川だから在来線で充分だったが、別件で警視庁に残っていて遅くなり、そのとき偶然、東京駅の新幹線乗り場のそばを歩いていた。会議から三時間ほど後のことだった。
「脇田さんすよね?」
「ああ、はい。大阪の?」
「そうすそうす。ついでにスカイツリーを見て来たんすが・・うんうん。あははは。別にめずらしくもないんですがね、たかが鉄塔さ、あははは!」
 サボリとまでは言えないものの出張に付属する役得のようなもの。脇田も大阪あたりへ出張すると、なんばを歩いてみたりする。

 大阪府警のベテラン警部と連れの若い女性巡査。未成年の性犯罪ということで歳の近い若者を連れて来たいものなのか。そう言えば各地の警察ともベテランと若手がペアでやってきていた。脇田も田村を連れている。
 その警部は名を田村と言い、こちらの田村と名刺を交わして笑っていた。
 連れの女性巡査は、よりにもよって松崎・・これには二人ともニヤリと笑う。
「じつは泊まりのはずだったんすが、急用ありきでホテルはキャンセル。トホホのホーすわ、あははは!」
 面白い男。大阪のはずが言葉にそれを感じない。学生時代は東京の大学で妻とも東京で知り合ったと言う。歳は四十四歳。背が高く顔立ちが整っている。
「ほんでまぁ、これから新幹線なんすがね、急なことで待ち時間ができてまう。連れは美女巡査ということで、これはアカン、どないしよと言うわけで」
 連れの巡査が困ったような顔をする。このアホ・・と顔に書いてある。
 お茶でもと警部の田村が誘い、脇田はうなずく。
「これはまさにちょうどよい」
「はい? ちょうどいいとは?」
「僕と脇田さん、若い者は若い者同士・・歳がぴったり・・うははは!」
「・・もう警部・・嫌やわぁ・・」
 松崎は語尾のソフトな大阪言葉。上司と部下の凸凹コンビが漫才のようだった。

 駅構内のカフェへと入る。話してみると田村警部はキレる男。力があるからふざけている。人当たりはよくて仕事ができる。モテるタイプの人物だろう。
「じつはいろいろありましてね・・頭を抱えておるんです」
「それはどういう?」
「まあ、いずれわかることですから言いますが、アメリカなんすよ。西海岸で日本娘の変死体が出たんです。恐ろしいほどの美女らしいんすが、体にかなりな傷がある。SMですわね」
「SM・・」
「おそらくね。それがまた大阪娘なんですわ。ウチの方から出向きまして、その検屍の結果に唖然です。体は女性でも子宮がない。性転換美女だった。歳は二十二歳なんすがね、そのDNAから、捜索願が出ていた大阪の大学生だと判明した。失踪です。当時の歳は十八でした。そんなことで我々としても注目せざるを得ませんので。当時未成年ということです」
「性転換・・それは日本で? それともアメリカで?」
「現地警察の捜査によると娘は女性として入国している。向こうで手術を受けた形跡もないことから日本で生まれ変わってアメリカに渡った・・いまのところそれしかわかっておりません。身元も不明のまま偽のパスポートで渡米している」
「それはつまり・・本人の意思ではない?」
 と、若い田村が問うた。
「常識的にはそうでしょう。ごく普通の学生だったものが、数百万にもおよぶ高額な手術費用をどうやって捻出したのか・・さらにどうやって偽装パスポートを手に入れたのか」

 なんとなく・・いいや直感として、脇田は背筋に寒いものを感じていた。
 あのとき白き館にいた五人の娘らは皆、女としては背が高く、体のラインがスレンダー。可愛いタイプの男の子に女装させればあんな感じになるのだろう。
 少女の捜索願いを追っていても行き着けない。常識的に男の子の捜索願いをはじいて考えていた・・。

 脇田が警視庁での会議から解放された午後三時頃・・樹林の白き館では・・。

 五人いた娘たちは、うち三人が館を出て行き、二人が残り、新たに『ケイ』という娘が加わって、娘たち三人が暮らすようになっていた。
 猛烈な雨でぬかるんだ道筋は乾いていたが、森の土は大量の雨水を含んでいる。夏の陽射しが蒸れるような森をつくる。
 館の前のガーデンで、白のロングドレスに身をつつんだ美しい娘二人がくつろいでいた。真紅のドレスでエリーが現れ、娘らに歩み寄りつつガーデンを見渡して、ケイがいないことに眼差しを厳しくした。
 そして、ちょうどそのとき館から村木が小走りに駆け寄った。
 エリーが問う。
「ケイは?」
「はい、私もたったいまそれに気づいて部屋を見て来たのですが、ケイがいません」

 エリーは深くため息をついて言う。
「私のエビルアイがきかないなんて・・そういう体質なんでしょうけれど・・」
 そしてエリーは、ピュイと口笛を吹く。
 ソクラテスとナポレオン、二匹のドーベルマンが猛然と駆け寄って来る。
 エリーは森へと手で指し示し、犬たちに言う。
「お行き! おとなしくしないようなら殺しておしまい!」
 二匹の黒い影が、唯一の道筋へ向かって駆け去って行く。

「馬鹿な子ね・・せっかく可愛い女の子にしてあげたのに・・出荷できる花嫁とはならなかった・・」

 駆け去って行く犬たちに視線をやりながら、村木が不安そうな顔をする。
 そんな村木の様子に、エリーは微笑んで村木の肩を抱いてやる。
「大丈夫よ、おまえの医師免許は日本のものではありませんし、ママの奴隷として歩んだ人生は捜査したって暴かれるものじゃない。この世から消えた男なんですものね」
 それからエリーは、おとなしく残った二人の娘に微笑んだ。
「おまえたちはいい子ね・・もうすぐよ・・もうすぐ運命のご主人様に嫁いで行けるわ・・さあ地下に降りなさい。嬉しい嬉しい調教です、狂うまでのアクメを楽しむがいい・・うふふ」
 娘二人は、エリーに見据えられて眼差しが溶けていた。

 歩み去る娘二人の背を見送ってエリーは言う。
「おまえもよ村木、迂闊にもケイを逃がした。お仕置きです」
「・・はいモイラ様・・お心のままに・・ふふふ」

 村木を見据えるモイラのエビルアイ・・宝石のように澄み切った瞳に見つめられ、村木の老いた眼差しがとろりと溶けていくようだった・・。

花嫁の森(四話)


四 話


「何事もなく帰って行きましたな」
「それはそうでしょう。私有林で人目に触れず何をしようが取り締まることはできないわ。それに彼女は職務よりも私に興味があってここに来ている。館の中まで隠さず見せたわけだから、かすかな疑念は残っても、もう手は出せないはずよ」
 窓のない不思議な空間にいくつか並ぶモニター画面が、舗装された村道へと遠ざかる脇田の赤いクルマを捉えていた。館への道筋の要所に、巧みに枯れ木に偽装した監視カメラが備えてあった。

 森の体内を抜け出せた・・それはちょうど膣を抜け出た赤子のような気分。砂利道の振動がぴたりとなくなり、脇田はほっとため息をついていた。
 案内された館の内部は改装されて綺麗にはされていたが、築六十余年の古さを隠せないものだった。玄関の大きなドアをくぐると絨毯敷きのホールがあってシャンデリアが下がっている。ヨーロッパスタイルの楕円の大きなテーブルがあって、調度品も明治から大正にかけてのものをそのまま使い、その当時を想像できただけに、エリーの父、そして村木という男が、エリーの母シンディの足下に奴隷のようにかしづく姿が脳裏に浮かんだ。

 一階には、そのほかキッチン、大きな風呂と、村木の部屋があるだけだった。隔絶された洋館であっても芦ノ湖スカイラインの側から電気だけは来ていて、しかし水は井戸だったし、ガスはなかった。建物の裏手に大きな灯油タンクが備えられ、石油バーナーで湯を沸かすようにされている。
 外観で三階相当の高さのある館。一階の天井が高く、二階には部屋が三つあって、一つがエリーの居室。娘らの部屋は二つであり、四人ずつが暮らせるように、学生寮のような二段ベッドが二つずつ備えられている。
 つまりマックス八名。いまは五人が二部屋に散って暮らしていた。
 しかしそれだけ。娘らを性的に躾ける調教部屋のようなものもなく、きわめて健全な空間だと直感的にそう感じた。館には女の匂いが満ちていた。村木は枯れた存在のようでもあり館の召使いのようでもある・・だがそれも勝手な想像なのかもしれないと・・。

 ともあれ恐怖の樹林は抜け出せた。このとき時刻は昼前で、館への道筋の往復を含めておよそ三時間、樹林にいたことを思い知る。
 舗装された村道から県道へ、国道へ。タイムスリップしていた時間が現代へと回帰していく。道はやがて東名高速。館からなら御殿場ではなく裾野から乗るほうが便利だった。
 高速には喧噪があふれていた。今日はなぜかトラックが多く、外気を遮断して走っていても空気が臭い。日頃嫌でならないものにほっとする。脇田は都会に馴らされてしまった自分に不思議な哀しみを覚えていた。
 どこかで軽く食べてとは思うのだったが、足柄SAは大きすぎて停まる気になれず、しばらく走って鮎沢PAへとクルマを入れた。時刻がよくないようで昼食の客が多い。クルマを停めエンジンを切って、シートを少し倒して車内にいた。

「・・ちょっと口惜しいかも・・なんだろ、この気持ち・・」
 つぶやいてみる。
 私と同じ年に生まれた桐原エリーの半生がとてつもなく自由なものに思えてくる。短大から警察を志し、学生時代の彼と結ばれ子供もできた。真面目に歩いた人の道。履歴に空白の時はない。
 なのにエリーは、前衛舞踊家モイラとなって突如現れ、それ以前の彼女は謎に満ちている。調べてみても霧の中。母親に連れられてイギリスにいたらしいということぐらいはわかっていても、突如全裸ダンスで逮捕されてこの世に現れた女。逮捕といってもその程度では罪は軽く、以降また消息不明で、館の女帝エリーとなって現れた。
 森の男に抱かれるとは、どういうことか・・さらにまた彼女の母だ。シンディ。男を虜にする不思議な力・・夫と、村木というあの老人を操って奴隷のようにかしづかせ・・いったいどんなことをしたのだろう・・。
 何もかもが私の人生にはなかったことだし、これからもない生き様。
 警察はそれでなくても他人の裏側を見聞きする。振り払うようにプライベートへ戻ったときも警察官としての倫理は捨てられないし、妻であって、母でもあって、考えてみるとがんじがらめで生きている。

 森の男に捧げるため、たった独りで樹林に分け入り、全裸となって狂乱する。
 大自然と交信する・・自然に宿る神や魔物と交信する。
 錯乱するアクメがくるとエリーは言った。どんなだろう? 一度ぐらいは知ってみたいと思う気持ちが確かにある。エリーと話し、微妙に反応する女心を悟っていた。性的に解放されたエリーに対する羨望だと自覚する。
 その母、シンディに対しても。シンディの特殊な性癖は、当時の古い倫理の中では隠しておかなければならなかった。エリーのように真紅のドレスを身にまとい・・そうだ、あの犬・・ソクラテスとナポレオン・・二匹の犬を飼うように二人の男を支配した。若かった村木、そして若かった夫を全裸にし、足下に従えていたというのだろうか・・。
 深いため息。妄想が妄想を呼び、よからぬ幻影を見せている。脇田は胸が苦しくなった。


『さあ、いい子よ・・私の眸を見つめなさい・・』

『何をするんですか・・おっかしいんじゃない』

『ふふふ、おかしいのはあなただわ・・自分を偽り、他人を傷つけ、その呵責に苦しみもがいて生きていく・・そんなの嫌でしょ・・心静かに・・穏やかに・・これ以上ない素敵な女の性を生きていく・・それが運命なんだもん』

『やめてください、訴えますよ!』

『訴える・・それもまた人のエゴよね・・私の愛を信じきれず・・男たちの愛を怖がって・・逃げて逃げて生きたって幸せはやってこない』

『ああ嫌ぁ・・ねえ、やめて!』

『ほうら・・ほうら気持ちいい・・私に見つめられ・・あなたは私に魅入られて・・この世のものではない快楽へと飛び立つの・・ほうら気持ちいい・・目をそらさず私を見つめて・・ほうらいい・・すごくいい・・溶けそうでしょ』

『・・はぁぁ・・んっんっ・・はぁぁン』

『ふふふ可愛い・・可愛いわぁ・・素直な女の甘い声が、ほんと素敵よ・・ほうらもうダメ・・やさしく素直な女の子として生きていく・・運命なのよ・・こざかしい人の思惑ではどうにもならない性への運命・・ほうら震える・・ほうらイク・・』

『い、嫌ぁぁ・・ぁっ、あーっ!』

『そうそう、それでいいの・・それでいいのよ・・もう私に逆らえない・・運命の女神モイラに魅入られ・・ほうらイク・・夢のような気持ちよさ・・ふふふ』

『・・はぁぁ・・女神様ぁ・・』

『そうそう、私は女神モイラです・・あなたの守護神モイラなの・・可愛い名前を授けましょうね・・今日からあなたは・・ケイ・・』

『・・ケイ?』

『可愛い名だわ・・男たちにも女たちにも可愛がっていただける最高に可愛い名前よ・・さあ見つめて・・ほうら眠くなってくる・・ほうら眠い・・』

『・・ぁ・・ぁ・・ぁぁ・・』

『ふふふ・・ほうら・・ほうら気持ちいい・・目覚めたとき、あなたは可愛い娘になっている・・ケイよ・・素敵な娘ケイとして生きている・・』


 樹林が白む。闇の空を朝陽が赤く染めはじめ、深い森に光に配る。
 朝露が天へと召され、白き靄となって樹林に漂う。
 蒸れるような森の生命・・神の陽射しが朝露に弾かれてキラキラとした光の放射を描いている。
 乳白のヌードライン・・真紅の下着がそっくり透ける霧のような真紅のドレス。
 金色に輝く長い髪・・深い森にたった独り、裸足で歩む女がいる。
「抱かれに来たか、女よ」
「はい、どうぞ私にお情けを・・ああ溶ける・・ああ感じる・・」
「脱げ」
「はい・・あぁぁ嬉しい・・淫らな私をごらんくださいませ・・このようにもう濡れて濡れて・・お捧げします・・精霊のみなさまに、この身を・・淫らなこの身を・・」

 霧の赤が脱ぎ去られ、真紅のパンティ、真紅のブラが消え去って、乳白の女神のような女が踊る、踊る。
 アートそのものの白き裸身・・愛液のように溶ける眼差し・・白き肌には鳥肌が騒ぎ・・乳首は尖り・・真っ白な二つの尻肉がぶるぶる震え・・豊かな乳房を揉みしだき・・乳首をツネリ上げて痛みに叫び・・浅く赤い陰毛の奥底の淫裂さえもあからさまに・・指を忍ばせ、腰を振って・・よがり悶え・・のたうつように女は踊る。
 森の男・・精霊たちが・・激しく勃てた男性を振りかざして女を囲む。
 大木にすがるように女は木を抱き、腰を反らして濡れそぼる花園を精霊たちに見せつける。

 襲われる・・それは蹂躙・・あられもない女声は金属的な悲鳴となって森を流れ、女は閉じなくなった唇から唾液をだらだら垂らし・・白目を剥いて・・それでも精霊たちは許さない。
 次から次に萎えない男茎が子宮を貫く・・女は啼く・・わめく・・鳥たちが囀るように震えて啼く・・声がか細く消えていき・・おびただしい潮を噴いて女は果てゆく。
「もう・・もう・・ああ嬉しい・・ご主人様ぁ・・ぁ・・ぁ・・あ!」
 裸身が崩れて森の土に倒れようとしたときに、見えない腕が抱き支え、薄目を開けた女が微笑み・・そっと目を閉じ、果てていく・・。

「ハッ! はぁぁ・・んっ・・はぁぁぁ・・」

 脇田は繰り返し同じ淫夢に取り憑かれる。汗をかく。息が乱れる。怖くなってパンティに手を入れると信じがたい濡れそぼり・・ちょっと触れただけで痺れるような快楽が訪れる。
 そして、崩れ落ちて森の男に抱かれたとき、顔を上げて微笑む顔が私自身。エリーではない。
 ハッとして横を見ると、ツインベッドの向こう側に夫が寝ている。見慣れた闇が目に飛び込む。
 四十二歳、エリーと同じ。アラフォー。そうよね、涸れる歳ではないはずよ・・そんなことを考えて、そのたびいつもエリーに対する羨望が湧き上がる。

 私は飢えているのかしら・・夫との夜はなくなった・・いつ頃からのことだろうと寂しくなる。森の男たちに抱かれるなんて、そんなことができるのなら、夢の中へと解放されていくのかもしれない・・体の奥底から滲むような欲望を抑えられなくなっている・・。
 ベッドを抜け出し、替えの下着を手の中に握りつぶしてトイレ。
「何なのよコレ・・嘘でしょう・・」
 全身が呼び覚まされて、家族に隠れてほんのちょっとまさぐるだけで、瞼に星が舞い散って・・解き放てない自分が哀しくなって涙が浮かぶ。

花嫁の森(三話)


三 話


 朝から空は青かった。時刻は九時になろうとした。

 怖いほどの原生樹林・・それまでにも似たような景色を知らないわけではなかったが、背筋の冷えるようなこの恐怖は何だろうと脇田は思った。

 かろうじて舗装された村道からいよいよ私有林へと踏み込んだ。その入り口に『私有地 立入禁止』の立て札。そしてその立て札を境に道は砂利道に変化して、しかもクルマ一台が通れる程度の林道へと変わってしまう。
 手つかずの森の只中へ。頼りない道筋は山のうねりに合わせるように右へ左へカーブが続き、踏み込むと前へも後ろへも見通しがきかなくなって、周囲ぐるりと森また森。さながら緑の海原に浮かぶ小舟のようでもあり、こんなところでパンクでもしようものなら遭難すると思えてくる。樹木が濃すぎて林床に光が届かず、ハンドルを握る目の高さから下にはほとんど下草が生えていない。
 これとよく似た景色を仕事柄見せられたことがある。青木ヶ原樹海。倒木が腐り、苔が覆う火山岩がそこら中に転がって、そんな中で無残な白骨死体が発見される。それに似ていると脇田は思い、進めど進めど奥へと続く道筋が怖くてならない。私有林は芦ノ湖の西側に広がって、静岡側から入るなら白き館のあるあたりまで地図上の直線距離で数キロはあるはずだった。

 それにしてもおかしい。芦ノ湖スカイライン側からなら、ほんの百メートルほどの距離なのに、なぜそちら側にルートがないのか・・。
 白き館は桐原エリーの祖父の代、昭和二十年代に造られている。芦ノ湖スカイラインの開通が昭和三十七年。しかしその頃ならともかくも、近い方へ道ぐらいは拓けたはず。
 舗装されない曲がりくねったこの道にも作為を感じる。外界への拒否。しかしなぜ? 樹海の恐怖に警察官としての直感的な疑念も加わって、脇田は独りで来たことを後悔していた。

 時速30キロ程度でおよそ二十分かかっているから距離にすれば10キロほどか。道筋がほぼ直線となる最後の森を抜けたところで、正面に白い洋館が見えてきて、ほどなく路肩の右側を拓いた砂利敷きの駐車場に到着した。
 大型の茶色のランドビークルが一台入っている。雨でも降れば道はぬかるみ四駆でなければ危険。街乗りのつもりでコンパクトカーで来たことも間違いだった。今日は捜査車両ではなく脇田の赤いツーボックス。ここへの途中、斜面がそれほどでもなかったので、急な登坂路を避けるために道がうねっていたのだろう。

 クルマを置いて歩き出すと、館が迫ってくるあたりから芝生を敷き詰めた道と言うのか庭先というのか・・広大なガーデンへと踏み込んで、館の玄関へとつながっていく。双眼鏡で綺麗に思えた館だったが、こうして近づいてみると古さは否めない。築六十年以上の木造にしては外観は白くて綺麗。広大な庭もよく手入れされていて、ところどころに配置された赤煉瓦で造った花壇に色とりどりの花が咲き誇っている。
 庭には東屋のように屋根のある場所が二カ所あり、脇田が訪れたとき、その双方でくつろいでいる五人の若い娘たちが一斉に視線を寄せて微笑んだ。
 娘たちは皆が白いロングドレス。髪の毛も皆が黒髪。茶髪があたりまえの外界から紛れ込むと鹿鳴館の時代へスリップしたようだった。

 ・・と、玄関の白いドアが開く。
 背丈の倍ほどもある大きなドアで、さながら中世ヨーロッパの邸宅のようでもある。白い洋館は二階建てであったが、外見では三階程度の高さがあり、これほどの森の中にあるにしては恐ろしく大きな建物。桐原エリーがいまだに莫大な財を抱えていることが想像できた。

 ドアが開き、まさに貴婦人という姿の桐原エリーが現れる。目の覚める真紅のロングドレスにシルバーラメのヒールサンダル。長い髪は色が浅く、光を受けて金色に輝いていた。顔立ちはイギリス人とのハーフにしては日本的で、抜けるように色が白い。背丈は脇田とほぼ同じ、百六十五センチほどかと思われた。
 そしてそのエリーの背後に、総白髪の男が一人・・しかしこちらは燕尾服などではなくて、ミスマッチとも言えるようなジーンズスタイル。背丈はエリーと並ぶほどで男としては小柄で華奢。歳は六十代の半ばあたりか。
 今日の脇田は、ベージュよりは茶色が強い夏のパンツスーツに淡いピンクのブラウスを合わせ、意識して警察色を消していた。規則で髪を浅くできず、濃い栗毛の肩までのヘヤー。足下はグレーのパンプスだった。

 数段の石段を経た玄関から、背後に男を留めたまま一人で庭へと降りたエリー。脇田がそれに歩み寄る。
「ようこそ、脇田さんでしたわね」
「こちらこそはじめまして。今日はプライベートですので」
 エリーは穏やかに微笑んでうなずくと、庭の二カ所でくつろぐ娘たちに言う。
「お客様です、はずしてちょうだい」
 娘らが一斉に立ち上がり、一人ずつ、ドレスの裾をちょっと開いて腰を折る欧米式の挨拶で微笑んで、館の中へと去っていく。
 娘らは皆すらりと背が高く、エリーよりものびやかな肢体をしている。一人ひとり綺麗な子ばかりだと脇田は思った。さぞ身分のある家の才女ばかりかと思われた。
 娘らが立った白いガーデンチェアへと脇田を導き、そのときエリーは、玄関前で控えていた初老の男に言うのだった。
「村木、お紅茶とお菓子でも」
「かしこまりました、ただいまお持ちいたします」
 村木と呼ばれた男は人が好さそうに微笑むと、娘らを邸内へと招きながら最後に中へと消えていく。

 そうした映画のようなシーンから、エリーは脇田を振り向いてちょっと笑った。
「村木と言います。父の友人で、この館を守ってくれていた。歳は七十三歳、生きていれば父と同じよ」
 七十三歳・・若く見えると脇田は思った。世間の狭間を離れて森に暮らすと老けないのかもしれない。
「警察の方なら、あるいはお調べになったかとは思いますが、私の父は芝崎孝志、母はシンディと申しましてイギリス人。どちらもとっくにおりません」
「はい、それは」
 と応じながらも、脇田は、すぐそばで見るエリーに驚嘆していた。同い年の四十二歳。エリーは若く、爽やかな色香にあふれている。スタイルがいい。聡明であることが物腰でうかがえる美しい女性であった。真紅のドレスがよく似合い、日本的な顔立ちからハーフだとも思えなかった。

「そして私は桐原と結ばれましたが夫もすでにおりません。当家はなぜか早死にする家系のようで、いまでは私一人が残ってしまった。私には子供もなく、
それで寂しくなって、村木が守ってくれていたこの館に住むことにしたんです」
「では、その頃からお嬢様方を?」
「いえいえ、それは二年ほど前からよ。現代に毒されない娘にしたいということで、あるお方のお嬢様をお預かりしたのが最初。預かると言いましても学校ではありませんから・・そうですね、長くて半年、短ければ三月ほどかしら。マナーやエチケットや、そんなことより、これほどの森ですからね、悠久の時を生きる自然の息づかいを感じて欲しくてはじめたもの・・あら」
 あら・・と、エリーは館の横へと眸をなげた。エリーの瞳は横から光線を透かすと濃いブルーに煌めいている。ハーフらしい宝石のような眸であった。

 黒光りする体毛・・引き締まった精悍な体つき・・しかし眸のやさしい二匹のドーベルマンがそろそろと歩んでくる。大きな犬だ。
「ふふふ、お客様がめずらしいみたい」
「綺麗な犬ですね」
「そうでしょう。彼らも大切な家族ですから」
 二匹の犬はエリーの足下まで近づきかけて、数歩前で立ち止まり、静かに寝そべってエリーを見つめる。主と目が合い、言われる前に控える姿になったのだ。よく躾けられた二匹である。
「左がソクラテス、右にいるのがナポレオン。勝手につけた名前ですけど」
 エリーが笑い、ちょうどそのとき村木がシルバートレイを運んでやってくる。アップルティとビスケット。
「どうぞ。ビスケットは私が今朝焼いたものですのよ」
「はい、では遠慮なくいただきます」
 ドライフルーツを練り込んだ生地をオーブンで焼いている。脇田もビスケットは作るから見当はつくものだったが、サクサクしていて味がいい。

「早速ですが、お話の方を先にしちゃいましょうね」
 エリーはティーカップに口をつけると、『見て』と言うように周囲の森へと手を流した。
「モイラだった頃の私は、天に向かって畏敬の念を持ち、授けていただいたこの女体をお楽しみいただくために全裸で踊った。大自然と心でつながり、女に生まれた体を慈しむように踊っていた。自然は神々そのものよ。神々と交信することで女の欲望は清められていくのです」
「・・はい」
「ですけど、いまの私は違います。森の男たちに捧げるため、呼ばれる方へと導かれ、森の男たちに視姦され、陵辱され、あられもない声を上げて果てきって、その場所に赤い下着を捧げてくる。私の下着が見つかるのは、つまり人々が入れる側の森だから。スカイラインに近いでしょ。ここまでおいでになられた道筋の側は森が深すぎて滅多に人は入りませんから、それで見つからないだけですの。でも、それでもしばらくして行ってみると下着は持ち去られて消えている。森の男たちが喜んで持っていくものと私は思うの」
「・・はい、なるほど」

 常識的な発想・・というより、誰も考えない特異な感覚。前衛芸術とはそうしたものだと理解しつつも、脇谷にはわからない世界であった。
 私有林の中で何をしようが、大衆の目に触れなければ問題はないだろうし、先ほどの娘らの穏やかな笑顔を見ていても事件性は感じられない。
「だけど・・うふふ・・していることはオナニーよね。昼夜、森は姿を変える。明るい森には神が棲み、闇の森には悪魔が蠢く。森の男たちはその都度違う。粗暴に犯す者もいれば、やさしく抱いてくれる者もいる。女の性を自然に捧げて生きていたい。そう思ってこの館に移り住んだのです」
「不思議なお話ですわね・・私などそこらの主婦ですので難しくて・・」
 するとエリーは目を丸くして笑うのだった。
「それをおっしゃるなら、私だってそこらの女よ。寂しがり屋で弱い・・脆い・・だから捧げるのです。求めようとするから女はどんどん苦しくなる。どうぞ犯してと森の男に性器を晒し・・でもそうすると男たちは守ってくれる。たとえば・・ほら」
 と言って、エリーはドレスを大きくまくり上げた。

 真っ白な腿には傷もない。
「夏の森よ。ヤブ蚊もいれば毒虫もいる。蛇だってもちろんいるでしょうし、イバラだってそこら中にあるものよ。なのに私はごらんの通りで虫刺されの痕もないわ。森の男たちは精霊です。精霊の女ですもの、邪悪な者どもには手が出せない。そしてね脇田さん」
「はい?」
「お預かりしたお嬢様方にも、そうした感性を授けてあげたい。心を捧げれば怖いものなんてない。それこそ愛だと思いませんか」
 理解できないわけではなかった。それほど純になれれば幸せだろうとは思うのだったが・・。
「では娘さんたちも森で?」
「いいえ、それはありません。そういう境地というのか、はっきり言って特殊な感受性がないと受け留めきれない世界でしょうし。ごく希に、森の男たちはこの庭に私を呼びます」
「・・え?」
「すがすがしい朝であることが多いのですが、そのとき娘らは、全裸でのたうち果てていく私を見ている。嬉しくて嬉しくて泣きながら際限のないアクメに狂う私を見ている。それだけで皆には充分だと思っておりますが・・」

 紅茶を飲み終わる頃になって、エリーは言う。
「せっかくお見えになられたんです、館の中もごらんになってくださいな。そうすればおわかりいただけると思うから」
 疑うことは何もないと感じて立ち上がろうとしたときだった。
「この館は父が母のためにこしらえたもの。母には特殊な力がありましてね、はっきり申し上げて、私の母は魔女でしたのよ」
「・・魔女・・とおっしゃいますと?」
「愛の魔女であり、父もそうだし村木もそうなのですが、二人は母の僕(しもべ)でした」
 にわかには理解できない。
「透き通った女心を相手の心に送り込んで虜にしてしまう。いまふうに言うのなら女王様なのでしょうがSMではありません。精神的な支配と言えばよろしいのでしょうが」
「それでこのお屋敷を?」
「そうです、何人たりと邪魔できない愛の場を隔絶されたこの森に造ったということで・・」
 沈黙しつつ探る脇田にエリーは言う。
「父も村木も精神的にはマゾでした。母に尽くすことでしか生きられない素敵な男性・・ふふふ、もちろん私は違いますよ。違いますけど、そんな母を尊敬するし、それ以上に母に捧げた二人の男性を尊敬する。それで村木がここに残ったというわけなんです」

 よくわからない・・しかし、自分の中で妙に乱れはじめる何かに脇田は戸惑う。
 それが突然襲いかかった性への欲求だと自覚できていたからだ。

花嫁の森(二話)


二 話


 翌日は梅雨の尾が空を覆って、降ってはいなかったが蒸し暑い一日となっていた。脇田は朝から気分が悪い。念のため田村を連れて現地へ行く。そのとき松崎警部の言った『芦ノ湖観光ご苦労さんね』という一言がひっかかってならない。まさに嫌味な上司である。
 パトカーではない捜査車両を若い田村に運転させて脇田は助手席。今日も二人は同じような服を着ていた。
 芦ノ湖界隈は小田原署の管轄。それで電話を入れたところ・・。

「あーあー、わざわざ申し訳ありませんね。以前の駐在さんが定年でして・・それでまた受けたウチのほうでも・・」
 湖畔にある交番と言うのか駐在所と言うのか、その巡査長が退職して交代し、したがって不慣れだった。それで所轄署へ連絡したのだが、そのとき受けた小田原署の人間も移動で来たばかりの新人。昼さがりでベテランたちが外出していて、困り果てて県警本部へつないだということだった。
 森で見つかった下着は、毎度のことでもあり事件性もなさそうだということで、単なる遺失物として現地の駐在所に保管されていると言う。
 助手席で脇田が言う。
「それでまた、それを受けたウチにも問題アリよね。起きてしまった性犯罪を捜査するなら防犯課ではないでしょう」
「まったくすね・・たらい回しだ」
 生活安全課は主として防犯指導が仕事であって、犯罪捜査にあたる刑事課ではない。所轄署からの通報を受けた本部の人間がつなぐ先を間違えているということだ。
「馬鹿ばっか・・」
 運転しながら吐き捨てる田村が可笑しくて、脇田はちらりと横を見た。
「いまはいいけど滅多なことは言わない方がいいわよ、若いんだから」
「わかってますって・・あーあ、見ると聞くでは大違い」
「刑事ドラマの見過ぎなんだよ」
「・・かも。ははは」
 横顔などまだまだ子供。可愛いものだと脇田は思った。

 芦ノ湖湖畔の駐在所。問題の遺失物は、下着の上下を別々のビニル袋に入れられて保管されていた。指紋をつけないように白い手袋をしてひろげる。
 目の覚める真紅のパンティ、そしてブラ。思ったとおり総レースのフランス製。
「ワオ・・いいかも・・」
「ばーか。いっぺん撃つよ・・」
 田村は手袋をしてみたものの触れることはしなかった。脇田はトップよりもボトムに目を光らせる。レースの下着は脱がれると極端に縮んで小さくなる。
 脇田はパンティを裏返し、二重になったその部分に目をやった。
「ほらごらん」 と、なにげに横を見ると、田村はにやけて笑っている。
「ほらほら真面目に!」
「へへへ、はい」
「・・ったく。ここの裏地のところ綺麗でしょ」
「そうですね・・はい・・」
「新しいってことよ。長く穿いたものでもないし洗濯されたものでもない。洗濯したって、どうしたって汚れてしまう部分だからね」
「はぁ・・なるほど・・へへへ」
「こら小僧! ・・ったくもう。特徴が同じだわ、毎回同じ。ちょっとヘンだと思わない? 新しい下着をわざわざおろして、森で脱いで捨てて行くわけ?」
「ですね・・レイプとかでもなそうだし」
「もちろん違う、そういうことではないでしょう。とすると・・?」
「持ち主が自ら脱いで置いて行く・・」
「何のために? その同じ森に若い娘が多くいる。それとの関係は?」
「エリーという人のものだとは考えられませんか?」
「そこなのよ、これほどの高級品をちょっと穿いて捨る・・素直に考えればエリーが怪しい・・だけど何のため?」
「・・SMとか?」
「そうなのよ性的な趣向のため」
「なるほど。しかしだからといって、事件性としてどうなのか?」
「そういうこと。だから我々は手を出せない。出せないけれど・・これは私の勘なんだけど、あの洋館には何かある」

 そして田村は言った。

「集めた娘たちに・・性的な何か・・」
「もしやね。性的な躾け、あるいは調教・・あるいは何かの儀式のようなものだとか、考えようはいくつかある」
「でも係長、娘らは楽しそうにしていたんですよね?」
 脇田はそこで眉を上げる素振りをし、遺失物を袋に戻して椅子を立った。
 クルマに乗り込んでから、現場へ行ってみようと言う。
「ほんと言うと一度エリーに会ってみたい。洋館も見てみたいし・・」
「越境すよ?」
「個人的によ。どうにも釈然としないことと・・知ってみたい好奇心もあるけれど」
「いっそ休みを合わせて張り込んでみますか? 週末だと人が多くて面倒でしょ?」
「うまくいけばね」
「いきますよ。係長の休みがわかれば僕がツーリングに出ればいい」
「じゃあ三日後。そこ代休」
「三日後・・えーと、木曜日すね?」

 そんな話をしながら芦ノ湖スカイラインを北上する。
 道筋のほとんどが県境の静岡側を通っているが、ちょうど問題の森のあるあたりに、ごくわずか県境が道を渡って神奈川側にある場所がある。
 越境と言っても、はっきり捜査でない限り問題はないだろうし、休日に個人的に入るのならば、要は見つからなければいいわけで。
 今日のところは下見程度。梅雨の雨で林床を覆う下草はびっしょりだった。
 あのときのように道筋の路肩にクルマを停めて、なだらかな下り斜面へレンズを向ける。
「ほら、ちょっとだけ見える」
 双眼鏡を手渡すと、向きを合わせて田村が覗く。
「ありますね・・屋根の一部しか見えませんが」
「春先なら葉が少ないから。前に張り込んだのは四月だった」
 芦ノ湖スカイラインを使えば近いはずが、神奈川側から館への道はない。わざわざ遠い静岡側から入るということ。それもまた人を遠ざけようとしていると思えてならない。

 ところが、そうして三日後の約束をした夜のこと。
 田村にだけ教えたスマホのメアドに着信。時刻は十時を過ぎていて、そろそろ寝ようとしたときだった。
『フェイスブックにあります! エリー桐原!』
 その程度のことは、あのときもちろん試みていた。
 エリー桐原、42歳・・脇田は同い年だとは思ったが、職業そのほか公開されてはいなかった。姓名を逆にしてアカウントを取っているが、それもすでに試していた。新たにつくったページのようだ。

 トップの画像は緑に抱かれる白き洋館。真紅のドレスをまとったエリー自身の写真、そして同居している若い娘たちの写真を堂々と公開している。
 あのときの張り込みでは双眼鏡レベルで顔の細部まではわからなかった。くっきり映るエリーを凝視し、脇田は直感的に、どこかで見た顔立ちだと考えた。
 女は化粧で印象が変わってしまう。
「エリーの母はシンディか・・シンディ・・うーん・・」
 脇田は目が冴えて眠れない。喉に小骨が刺さったように記憶がひっかかっているようだ。

 うとうとした。深夜になって目が開いて、キッチンでお茶を飲む。
 そしてそのとき、テニスをしている息子が撮った山中湖越しの富士の写真が目に入る。秋の富士は透き通り、湖が青く美しかった。
「湖・・そうだわ・・そうだわモイラよ! 小田原署!」
 脇田は即座に田村にメールを入れておく。
 翌朝また田村と二人で小田原署。今日は嫌味な松崎が代休でいなかった。
 芦ノ湖を管轄する小田原署には、もちろん十年前の記録が残されている。

 前衛舞踊家、モイラ。

 モイラとはギリシャ神話で運命の女神を言う。
 エリーはいまから十年ほど前、芦ノ湖湖畔で全裸で踊り、猥褻物陳列で逮捕されていた。そのときは観衆も多く、芸術を認めない貧相な文化に批判が集まり物議を醸した。
 湖を背景に、霧のように薄い真紅のクロスをひらひらさせて、十歳若い全裸のエリーが踊っている。血のような赤は女の性だとモイラは語る。
 田村が言った。
「これでわかりましたね」
「おそらくね。森の中でヌードで踊り、下着を残していく・・」
「私有地でもあり、目に触れなければ犯罪にはならない。だいたいアートだ。犯罪であるはずがない。だとしたら正面切って訪ねてみたらどうでしょう?」
 それがいいと脇田も思った。下手に探るような真似をして不審者として向こうの署にでも通報されたら面倒なことになる。

「なんか面白くなってきましたね」
「あのね、推理小説じゃないんだから・・でもいいわね、それ。連絡してみる価値はある」
 フェイスブックにエリー本人のメールアドレスが書かれてあった。PCへのメールである。

『ほほほ・・この方は正直だわ。わたくしの下着が遺失物ですって・・ほほほ・・お招きしましょう』
『しかしマダム、明日には一人・・』
『かいません、わかるはずもないこと・・拒めば疑われるということもありますからね』

 その日の夕刻になって脇田のスマホに返信が。

 それに違いございませんわ かつての私はモイラ
 いまはその名は忘れましたが お騒がせして
 申し訳もございません 下着はどうぞお捨てください
 くわしいことはお逢いして・・桐原エリー

 ただひとつ 館は男子禁制としておりますので
 それだけはご了承くださいね


「ですって」
「ちぇっ!」
「あははは、残念無念? いいわ私だけで行って来る。納得できればすっきりするし、そのとき私は警官ではないんだから気も楽よ」
 田村は口惜しそうにちょっと笑った。

花嫁の森(一話)


一 話


 六月下旬。県警本部、生活安全課。

 昼食を終えた昼下がりになって妙な通報が舞い込んだ。
 電話を受けたのは、この課に配属されたばかりの新米巡査、田村隆文。
 田村は理系の大学を卒業後、何を思ったのか、就職が内定していた電器メーカーを蹴って警察官への道を選んだ。いかにも合理的な発想をする現代の若者。民業で合理主義は当然でも役人体質そのものの警察の中では、田村は特異な存在だった。はっきり言って浮いている。

「はい生活安全ですが? あい? 森にパンティ! はー? ええ・・場所は箱根・・芦ノ湖のそっち側? そっち側とは東西南北? 西? あーあー静岡側ね、了解しました。茸を採りに入った老人が発見した? なるほど・・それで交番へ通報があってこちらに回ったというわけで? 了解です。それで被害者とかは?」
 話しながら田村がふと隣りのデスクの脇田へと目をやると、脇田はちょっと笑っていた。
 脇田圭子は四十二歳、防犯課に二人いる女性警部補の一人だった。通報の内容にも心当たりがあったし、それより若い田村の対応が面白い。田村はまだ二十四歳の若者だ。

「被害者らしき者はナシ? 森に真っ赤なパンティが落ちていただけ? ああ・・ブラジャーも一緒に? ・・ワオ」
 『ワオ』とつぶやく物言いがたまらなく、脇田は笑いだし、ほかにも数名がにやにやしている。田村は、声は大きい、話し方は学生のノリであり、若者言葉が乱れ飛ぶ。
「なーる・・それであるいは性犯罪ではないかということで通報があったわけですね? しかし被害者は見当たらない? 通報があったので一応連絡したってことですね? あー、はいっ、それはどうもご苦労様で・・ハイ」
 受話器を置く頃には脇田はデスクに両肘をついて頭を支え、顔を隠して笑っていた。そのとき防犯課を取り仕切る課長の松崎警部が言った。

「またかよ」
「またか? よくあることなんで?」
「よくあるとまでは言えないが・・ああ忙しい、そんなことにかまっちゃおれん。脇田君、説明してやってくれたまえ。ああ忙しい、俺はちょっと出かけてくるから」
 椅子の背にかけた上着を抜いて、松崎はそそくさと出て行った。
 生活安全課は文字通り防犯のために地域との接点が多く、制服を見せつける部署でもないため私服であった。今日の田村は、あたりまえのスーツ姿。

「ふん、サイテー」 と、脇田はつぶやき、部屋を出て行く松崎を視線で追っている。今日の脇田は黒のパンツに淡いブルーの半袖シャツ。
 松崎という男は、いかにして責任を逃れるかしか考えていない、いかにも中間管理職らしい警察官。ろくに仕事もできないくせに酒づきあいで上司に取り入る嫌な奴で通っていた。役人の世界にはそうした輩がごろごろいる。

 しかしこのときの田村にとってそんなことはどうでもよかった。田村は子細を訊こうと隣りに座る脇田に向き直った。安物のスチールチェアがギィと嫌な音を立てる。
 脇田が言った。
「ああなっちゃダメよ、田村くん」
「なりませんよ。僕は捜査一課志望ですから、そのうち移動でここにはいませんし」
 呆れて顔を見る脇田。
「あそ・・それもまたドライな考え方ね」
 脇田は可笑しい。脇谷には大学二年の息子がいたが、ドライなところがよく似ている。田村とは四つしか離れていない。田村が配属されてきたとき、脇田はなんとなくソリが合うと感じていた。息子と話しているようで、さばさばできる相手だからだ。

 脇田は芦ノ湖界隈の地図をひろげた。
「ここが芦ノ湖」
「はい」
「で、問題の森は湖の西側のこのへんなんだけど」
「ええ」
「稜線に沿って芦ノ湖スカイラインが通っていて」
「そこ走ります、バイクで」
「あそ・・ふふふ・・でね、問題なのは、通報された森というのが県境をまたいでいることなのよ」
「静岡ですよね?」
「そうよもちろん。パンティパンティといやらしい言い方をするけれど、女性の下着が落ちているのは決まってこちら側。だからウチへ通報される」
「はぁ・・まあそうでしょうね」
「ところがよ、ここらの森はなぜか私有地で、森の中に白い洋館が建っている。桐原エリーと言う謎の女の館なんですが、そこには若い娘たちが何人か同居して暮らしているのね」
「若い娘たち・・ほう・・」
 いっちょまえに眉を上げる素振りをする。刑事ドラマの見過ぎである。

 しかし脇田は、それだから田村が憎めない。
「桐原エリーなる女も不可解な人物なんだけど、18から20歳までの娘らを預かって花嫁学校のようなものをやっている。もちろん正式な学校法人ではなく、私的な趣味のようなもの。一定期間同居させて躾けていくというのかしら」
「なるほどね、それで森に若い女性がいるわけで?」
「そうなのよ。我々としても注目すべきはそこなんだけど、館は県境の向こうに建っている」
「越境になりますね?」
「そういうこと。それでこちらとしては手が出せない。向こうでも被害届であるとか捜索願のようなものは出てないし、こちらだって出ていない。森の中に下着が落ちているというだけでは手の出しようがないんです」
「張り込みなんかは?」
「一度ね。この話が出はじめたのが二年ほど前からで、当初はもちろん性犯罪を疑った。我々だって捜査したし、遠目に張り込んでもみたけれど何も出ない。向こうに問い合わせたって、向こうでは通報さえないわけですからチンプンカンプンになっちゃうでしょ」
「ふむ・・ですよね、下着が落ちているというだけでは・・」
「日中の張り込みでは意味がない。だけど夜は漆黒の闇・・」

 ダメだこりゃ・・と言うように目が合って、脇田が言った。
「今日どう?」
「飲み?」
「この件で話さない? 私もほかのことで忙しいから」
「おっけすよ、ぜひ聞いておきたいし」
 それでその場はおさまった。防犯課には日々さまざまな案件が飛び込んで、それどころでないというのが現状。
 定時を少し過ぎて、二人はタイミングをちょっとずらして署を出、打ち合わせた居酒屋で落ち合った。小さな店だったが座敷があって襖で閉ざすことができる造り。その分安くはなかったが魚料理が美味いと評判だった。

 座敷は座卓だが、冬場は掘り炬燵となるからテーブルにつくようになる。店には脇田が先に着き、五分ほどして田村が覗く。
 二人ともにとりあえずビールという考え方はしない。脇田は基本的に飲めなかったし若い田村は基本的に飲まない。ウーロン茶とジンジャエール。つまりは食事の席になる。
 脇田が言った。
「さて早速」
「はいっ」
 ジンジャエールを一口飲みながら身を乗り出してくる姿など息子そっくりだと可笑しくなる。脇田は言う。
「通称、芝崎山って言うのよ、そのへんの私有林を」
「芝崎山すか」
「そうそう。私有林と言うよりも山一つが私有地なのね。明治の頃の山林王と言われた芝崎喜輔の持ち物だった。かつてもっと広大だったものを国に返して、したがって国としては目をかける。静岡にも山梨にも長野にも山を持ち、木材で財を成した男なの」
「それもあって静観している?」
「いえいえ、いまは違うよ。手を出しにくいというぐらいかしら」
 そのとき料理が運ばれて、食べながらふたたび脇田が言った。

「芝崎喜輔には孝志という一人息子がいて、シンディってイギリス娘と結婚したの。そこで生まれたのが芝崎エリー。エリーは結婚して桐原姓になるんだけど、その旦那もいまはいない。芝崎家も皆死んだ。旦那の桐原という男も早死にしてエリーだけが残ってしまった。芝崎家の莫大な財産を相続してね」
「なるほど。もしや相続税で山林を返納した?」
「イエス。それもあって県としても国としてもありがたいわけよ」
「なおさら確証がないと苦しいすね?」
「そういうこと。我々としても県境のこっち側から望遠鏡で監視するぐらいで、それでまた、相手に怪しいところも皆無だし」
「怪しくない?」
「森の中に白い洋館が建っていて、その前の広大なガーデンで娘らが楽しげに遊んでいる。おそらく決まりなんでしょうが、娘らは皆純白のドレス姿で、花嫁修業と言っても日本的なそれじゃない」
「貴婦人のような?」
「まさにそう。エリー自身がそうですし、母親はイギリス人だし。娘らを見守るように、エリー一人だけが目の覚める赤いドレスで座っている。ハーフにしては小柄だし、美人よとっても。まあ、といったところで犯罪の匂いは皆無。だいたい落ちている下着がそれと関係あるのかどうかもわからない」

 うなずきながら聞いていても、若い田村は喰うほうで頭がいっぱい。がつがつ貪るように食べている。
「ご飯少しあげようか?」
「あ、もらいっと!」
 可笑しい。言うことまで息子に似ている。
 田村が言う。
「そいで係長は下着というのは見ましたか?」
「もちろん見たし鑑識へも回したし。ルミノール反応(血痕判定)が出るわけでもなく、下着はどれもが新しいし、男性の体液も検出されない」
「新しい?」
「ほとんど新品と言えるでしょうね」
「下着はどれも・・って、似たようなことがよくあるってことですよね?」
「あるわね。二年ほど前にはじまって、これで数度・・ただね、一つ言えるのは下着はどれもが総レースの高級品でフランス製、色は決まって赤だということ」
「赤だけ?」
「だけ。それも目の覚めるような赤で、どれもが新品・・そこがどうしても腑に落ちない。ショップで数万円もするフランス製ってところを考えると・・」
「金持ちすっよね?」
「エリーのドレスと同色なのよ。ね、明日にでも行ってみようか?」
「下着を見に?」
「うん、もちろん」
「ワオ」
「あははは、何よそれ、あなたも若い男よね、息子そっくり・・」

 息子の部屋のベッドの下にエロ本を見つけたときのことを思い出す・・。