2020年10月13日

長篇小説に棲む女(四)

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四話 妻と嫁の温度差に


 翌日の日曜日はあいにくの曇天。いよいよ季節が動き出したと思わせるように北風が強かった。昨夜の夕食にと買い込んだパスタをつくり、その片付けに台所に立とうとしたとき佳衣のスマホがバイブした。そのとき時刻は朝の十時前。
 飛騨に住む友人、笠井美鈴(かさい・みすず)からだった。
「えーっ、もう途中まで来てる? 十五分で着くって? ウソでしょう」

 そんな電話に新島は笑った。佳衣にはいい友だちがいると想像できたからだった。
 美鈴は、ここからだと山を三つ四つ越えた向こうにいて、クルマで一時間ほどの距離に住む。早朝だと起こしてしまうということで、行ってみていないならいいと見切り発車。佳衣は今日は一日主と一緒に家の中を整理したいと思っていたが、そういうことならしかたがなかった。
 佳衣が富山に越して何度か往き来はしていたが、そう言えばここ一月ほどは会えていない。思い立ったら突撃する性格の美鈴らしいと佳衣は思う。
 しかし妙だ。それにしたっていつもなら前もって電話ぐらいはくれるはず。
「飛騨のほら、友だちですけど」
「うむ、聞こえてるよ、筒抜けだ。行かないと向こうが先に着くぞ」
「はい。もう美鈴ったら・・」
 とにかくバッグをつかんで飛び出した。紅葉のはじまった山々の稜線も神通峡もあいにくの空模様で沈んでいる。クルマが少ない。一目散で十分ほどで部屋に着き、部屋着に着替えたところで家の前にエンジン音。美鈴は黄色のコンパクトカーの四駆にスタッドレスタイヤ。飛騨は豪雪地帯。それでも雪が来ると身動きできなくなってしまう。

 美鈴は同い年の三十歳。旧姓は坂本美鈴。東京の大学で知り合ってからの付き合いで仲のよかった友人だった。152センチのスリムボディ。佳衣と並ぶと11センチの身長差がある。佳衣は栗毛に染めていたが、あの頃茶髪だった美鈴はすっかり黒く戻っていた。専業主婦。家は農家で夫の実家。林業を兼ねていて、なりふりかまわず主婦してるといった感じ。東京で遊んだ美鈴とは雰囲気がまるで違った。
 履き古したジーンズにスタジャン。化粧も手抜き。部屋に入るなり畳にペタッと座った。
「泊まってくね」
「あそ? もちろんいいけど・・ぅあっ!」
 しまった、布団が一組しかない。焦って飛び出して、そこまで考える余裕がなかった佳衣。
「お、どしたどした?」
「お布団が一組しかないのよ。つい昨日クリーニングに出しちゃって」
 女の話にはちまちましたウソが多いもの。
「いいよ布団なんて、どうにかなる。それよりなんか寒いよね? あんたいなかったでしょ?」
 そういうところに女は鋭い。戻ってすぐ石油ストーブに火を入れたが熱が回っていなかった。美鈴はジトと横目で見た。
「ははぁ・・そういうことか」
「・・何よ?」
「さては男だな? へっへっへ。そんで布団を運んじゃったとか? まさか敷き布団までクリーニングしないでしょ?」
「・・ったく、ああイライラする、そんなはずないでしょう」
 ハラハラしていた。男の匂いがついてないか、なんとなく部屋の匂いを嗅いだ佳衣だった。考えてみれば冷蔵庫も空っぽ。主の家へ運んでしまった。

 佳衣の部屋は二階の角部屋で1DK。六畳和室に六畳相当のキッチン、それにバストイレ。築後まだ新しい掘り出し物で、窓の外には山々の緑がひろがった。一部屋しかなくベッドだと狭くなるということで布団にしていた。
 とにかく珈琲を用意して座って向き合う。
 佳衣は言った。
「で? どうしたっていうのよ急に?」
「それがさあ・・あーあ」
 見た目がボーイッシュで溌剌としていた美鈴だったが、もの悲しげに眉を寄せた。
「もう三十じゃん。結婚五年」
「うん?」
「あたしは岐阜の市街だけど旦那はいまのところでしょ。お婆ちゃんが元気で旦那の親もどっちもぴんぴん。敷地の隅に家をもらって住んでいる。あ、そうだ思い出した、後で写真撮らせてね」
「写真?」
「旦那が言うのよ、ここだろうなって。男じゃねえだろうなって意味で。あたし頭にきちゃって、そんなら写メールしたるって言って飛び出して来たんだわ」
 なるほど、うまくいってないわけか・・だいたいのことは想像できた。
「お医者にも行くけどね、言われるのよ旦那の親に。いい嫁だけど子供ができないっていうのはちょっと・・みたいにさ。旦那はかばってくれてるけど板挟み。田舎だから特にそうで、跡取りがないと肩身が狭いみたいなのね」

 佳衣は言った。
「彼のことはどうなのよ? 嫌いになった?」
「ううん、な訳ないじゃん、もちろん好きよ。好きだけど間に立って苦しい姿を見てるとさ、別れてあげたほうがいいのかなって思っちゃう。実家に住むと妻じゃなくて嫁ってカンジ?」
 佳衣はちょっとうなずいて目を伏せた。新潟の友人には二人もできて、それはそれでしっちゃかめっちゃか。けれどできないというのは女にとってはもっと辛い。都会は他人に干渉しないが、ここらでは人があたたかい分、余計なお世話も多いもの。
 佳衣は共感。
「妻じゃなくて嫁か・・まさにそうだね、ろくな話を聞かないし」
「ウチはましなほうなのよ。嫁姑の諍いなんてないんだし、あたしはお婆ちゃんとうまくいってる。お婆ちゃんはかばってくれるよ。いまどき古いって旦那の親に説教してるぐらいだもん。だけどそれにしたって余計な気を使わせてるわけだから、たまらんのだよ、あたしとすりゃあ」
「旦那さんはどう言ってるの?」
「しょうがないって。おまえと仲良くできてりゃいいって」
「いい人じゃんか」
「いい人よ、もちろん。まあ、そこいくと佳衣はいいなって思うんだ。洋子なんかてんやわんやで、なりふりかまわずだって嘆いてた」
 新潟に住む友人の名は洋子。やはり同い年の三十歳。学生時代三人でつるんで遊んだ仲間。

 それでとにかく二人並んでスマホで写真。メールで送りつけてやったのだが、即座に『今朝はごめん』と返信が。ちょっと笑ってスマホを見せる美鈴。
「ほらね、こういう人なのよ。だから余計に苦しくて・・」
 しみじみ言う美鈴を見ていて、佳衣は女の人生の変化のようなものを感じていた。学生だったあの頃から美鈴の彼氏を三人知ってる。その三人目と大失恋。裏切られたと言って酒に溺れ、べろんべろんになっていたもの。それが二十五歳の頃。そのちょっと前に佳衣が郷里の愛知へ戻り、後を追うように美鈴が郷里へ戻っていた。
 夫の笠井彰彦(かさい・あきひこ)とは高校からの知り合いで彰彦が一級上。郷里に戻って間もなく、ばったり会ったと美鈴は言う。
 誰でもよかった・・それが本音だったのだろうが、彰彦はルックスもよく高校時代はサッカー部。再会したときそのイメージのままに付き合った。結婚して飛騨に住み、そろそろ五年というわけだ。
 佳衣はそれまで美鈴を羨んでいたものだ。洋子と三人遊ぶときだって牽引するのは美鈴。夏になれば一人だけビキニだったし奔放で行動力があったもの。
面白い子だわ・・先々楽しみ・・どうなることやら・・と、ひそかに思って見ていたものだ。そんな美鈴があっさり結婚、意識になかった洋子にまで先に行かれ、ますます佳衣は意固地になった。

 しかし、それはそれ。ひさびさ会えた女同士、話が尽きずに時間ばかりが過ぎていく。昼食はカップラーメン。雨が振り出して出るのがおっくうになってくる。
 二時を過ぎて近くで買い物。夕飯はホカ弁ですまそうということになる。じきに冬。そうなると飛騨では雪が深くて動けなくなってしまう。二人でのんびりしたかった。
 佳衣は言った。
「農家の暮らしってどう?」
「それは全然。いまは農閑期だからともかくも、朝は早いし暗くなったら寝てしまう。昔のまんま。のんびりしてて好きなんだ」
「そうね、あたしの場合はOLだけど、それにしたって東京とは違う。富山は人間らしく暮らせる場所だよ」
「だよね、あたしもそう思う。うまく言えないけどさ、だからなおさら、これで子供ができればなぁって考えちゃうの」
「結局そこへ戻っちゃう?」
「戻っちゃうよ。あたし言ったのよ、奴に」
「何て?」
「不妊治療なんてやめようって。そうして運良くできたとしたって、大きくなって山ん中に細々いたいかって言ってやった。跡継ぎなんて発想こそが古いのよ。いまの子たちは我慢できない。過疎はもう止められないって」
「そうかもね、あの頃のあたしらだって東京に出たくてうずうずしてた」
「女でさえそうなんだもん、男だったらなおさらでしょ。残ったのが娘なら最悪で婿養子ってことになる。ますます無理だわ。奴もそこはわかってる。問題は嫁という立場だけ。お婆ちゃんはそれを言うの。妻として幸せでいてくれればいいってね」
「素敵なお婆ちゃんよね」
「マジそうだわ。あたしもあんなバアさんになりたい」

 そして美鈴は、眉を上げた妙な視線を佳衣に向けた。
「あんたはどうなの? ずっと独りでいるつもり?」
「わからないよ。相手がいないってこともあるけど、あたしはずっとそうだった、結婚のための恋愛に疑問を持ったし、妻になって母になる、そんな自分がイメージできない。仕事に特別なものがあるわけじゃないけど、まあつまり、いまのところは相手がいないってことなんだ」
「ふーん・・なんかやっぱり羨ましい。強いもん。あたしはダメだわ、離婚して独りになったことを考えると寂しくてやってられない。佳衣はぜんぜん来ないしさ」
「おろろ、あたしのせいかい? ふふふ、行くよまた。じつを言うとね、いまの職場も考えてんだ」
「辞めるとか?」
「近々そうなる、きっとなる。OLやってちゃ東京にいるのと一緒じゃん。パートでいいから自由にやって、せっかく富山に来たんだから、ここでしかできないことをやってみようって思ってる」
「あてはあるの?」
「写真とか」
「写真? いまさらカメラマン?」
「じゃなくて趣味としてよ。絵でも小説でもいいんだし、富山で生きたってことを心に刻んでおきたいの。そうすれば次の自分が見えてくる。きっとそうだと思うんだ。飛騨・・五箇山・・景色は最高。そういう意味でもしょっちゅう行くから。雪が来る前に往き来しようね」
「うん、そだね。何だか佳衣って変わったみたい?」
 美鈴の眸がキラキラしていた。女は鋭い。
「あたしのどこが?」
「何となくだよ。眩しいもん」

 気がつけば十一時を過ぎていた。雨はやまず、強くもならず、風が冷えて寒くなる。風呂。美鈴を先に、後始末を兼ねて佳衣が入り、出てみると美鈴は下着姿で布団にくるまっていたのだった。
「あんたパジャマは?」
「忘れた。今朝イライラしてたから、途中で気づいたんだけど取りに帰るのもムカついちゃって」
「寒いでしょ裸じゃ?」
「でもないよ。冬はまだまだ、いまならおっけ。それに・・」
 ジトッと視線。
「何よ、その眸?」
「抱き合って寝るっつうのもいいかもしらん。ひひひ」
「ばーか。でもそうね、それもいいいかも」
 美鈴は黄色の上下、佳衣は青の上下で、ひとつ布団にくるまった。考えてみれば迂闊なウソだった。敷き布団どころか枕もひとつだけ。即座にバレたウソである。ひとつ枕に頭をのせて、明かりを消した。遮光カーテンなのだが、隙間から雨の音と冷気が忍び込む。
 佳衣は黙って枕の下に腕を差し入れ、美鈴のスリムな体を抱き寄せた。二人が横寝でそっと抱き合う。
「佳衣・・マジなん?」
「マジ。あたし思うのよ、想ってくれる人に尽くしていたいって。性別なんて小さなことだわ」

 美鈴は腕を突っ張って佳衣を一度は遠ざけて、そして二人で見つめ合う。
「好きよ美鈴」
「佳衣・・ねえ佳衣ってば・・」
 微笑みを浮かべて佳衣は目を閉じ、寄せられる唇に美鈴は戸惑い、けれど美鈴は受け取った。触れるキスから舌がからみ、佳衣の手が美鈴のブラの背をまさぐった。しかしリアにそれはない。
 佳衣はちょっと笑った。
「はじめてよ、女のブラを外すなんて」
「女のブラって・・男がブラするもんか」
「ばーか・・黙ってろ・・ふふふ・・それもフロントホックだし」
 浅い谷間でブラがはだけた。
「悪かったな、ちっちゃくて」
「ふふふ・・ほうら綺麗なおっぱい・・乳首がツン・・」
 佳衣は薄い乳房をそっと撫で、先端で硬くしこる乳首を唇に捉えていた。美鈴は弱く抱きすがり、それが強い抱擁へと変わっていった。
 佳衣の手が黄色いパンティのフロントラインから滑り込む。美鈴は腿を閉ざしたのだが、そのときキスをせがまれて、ふわりと力が抜けていた。
「ンっ・・ねえ佳衣・・あぁぁ佳衣・・」
「好きよ、行けなくてごめん。これから行くね」
 薄いデルタの性毛を撫で回し、谷底への入り口に指を這わせて落としていった。開かれた腿の底の可憐な花は閉じていて、乾いたラビアを揉むように撫で回し、それから指を立ててクリトリスを転がした。
「佳衣っ、ねえ感じちゃう・・あたしも好き・・ねえ佳衣が好き・・」
「うん、嬉しいよ、仲良くしようね・・ふふふ」
 美鈴は躊躇しなかった。佳衣のブラを背で外し、弾む乳房にキスをして、青いパンティを双臀から滑らせ抜き取った。佳衣は黄色のパンティを滑らせながらキスで腹を這い降りて、デルタの底へと顔ごと突っ込み、そうしながら美鈴をまたいで濡れる性器を突きつける。
 美鈴の舌先がクリトリスをはじき、佳衣の尖らせた舌先が濡れる花弁を分けて侵入する。美鈴は喘ぎ、佳衣の双臀を抱いて引き寄せて、同じように性花を嬲る。

「美鈴、いい・・ああ素敵・・震えちゃう」
「佳衣、あたしも濡れる・・ねえ濡れちゃう・・」
 薄闇の底で互いに舐め合い、二人の白い裸身がぶるぶる震えた。佳衣の手が双臀から回って、二本をまとめた指先がずぶずぶ没する。根元まで突き刺して掻き回す。シュボシュボと激しい濡れ音。
「あぁーっ佳衣ぃ、ダメぇぇ、おかしくなっちゃうーっ」
 美鈴の指が、それならと、濡れをからめてアナルを揉んで、閉じた小菊へ突き刺さる。
「きゃ! ああ美鈴、美鈴ぅ・・嬉しい、好きよ美鈴ぅーっ! 感じるぅーっ!」
 佳衣は変わった。女心が外向きに咲いている・・と美鈴は思った。
 よかった。男嫌いなのかと心配したが、女が好きならそれでもよかった。萎んだ佳衣じゃなかったことが美鈴は嬉しい。

「ほう・・それで? どうしてあげた?」
「はい、美鈴が可愛い、たまらなく可愛い。何でもできると思った私は、あの子のアナルを舐めてあげて、クリトリスを吸い立てて、指で犯して・・そしたらあの子もしてくれて、ぼーっと霞む闇の中で狂っていました」
「続けろよ、その関係」
「はい、きっと一生、大切に」
「そうか、よかったな、よくやったぞ佳衣」
 主の声がとてつもなくやさしかった。翌々週の月曜日。土日と出勤になった代わりに月火と二日休みが続いた。しかしあいにくの雨となり、明日の火曜日も曇りだとニュースが告げた。
 新島とはあれ以来。仕事の帰りに寄る時間はあったのだったが、佳衣には独りで考えたいことがある。行くなら週末と思ったのだが、その週の土日が仕事になって、次の月曜日というわけだ。

 佳衣は赤々と炭火が燃える板の間に、今日は黒い下着の上下で平伏した。白い女体にレースが映えて美しい。時刻は昼前。美容院へ先に行き、買い物へと回って、その時刻。
「おいで」
 両手をひろげる主。佳衣はパッと笑顔になって飛び込んだ。犬になれた女は主の愛が嬉しくてたまらない。抱いてもらい、キスしてもらう。それだけで性器が濡れてヌチャヌチャになれていた。
 抱き締められて耳許で主が言った。
「主と女王様が一緒にできた。すなわち、おまえは二人を幸せにできる女であるということ。淫らな自分に胸を張れ」
「はい、ご主人様!」
 すがりついてキスをねだる佳衣に、主は触れるだけのキスをした。
「縄を仕入れた、ほらあそこ」
 それは藁縄の大きなロールが二つ。今日ここへ来て最初に眸についたもの。台所への降り口の上がり框に重ねてあった。佳衣は横目に見て微笑んだ。買い物ついでにホームセンターに寄ったとき、縄を気にした佳衣だった。
「目的は四つある」
「四つ・・ですか?」
「ひとつはもちろん女を縛る。藁縄は凶暴だ。肌に食い込み、さぞ痛い」
 佳衣は主の腕の中で老いてなお輝く二つの瞳を見つめていた。
「次に適度に切って水を含ませ重くなった縄が鞭となる。女は泣いて、なのに濡らして果てていく」
「・・はい・・ふふふ」
 次に何を言うか、佳衣は楽しみでならなかった。

「えー、さて次だ。道筋に杭を打って縄を張る。雪が来ると脱輪する」
「ふふふ、確かに・・そうですよね」
「うむ。で最後は雪吊りだ。井戸にも屋根をつけんとならんし、縛りのテクニックが何かと活きる。その四つ」
「それだけですか? ディルドとか・・」
「おぅおぅ、それは木を削って張り型をつくるんだが、そのために杉の苗を植樹する。数年すればどうにかなる」
「うぷっ・・バイブとかは?」
「それも考えたが、そのうち俺がぷるぷる震えてキモチいい」
「あっはっは、可笑しいぃ、あっはっは!」
 笑う佳衣の頭を手荒く撫でて主も笑った。この話術にメロメロだ。
「ま、そっちはそっち。思う物を自費で揃えろ」
 吹き出した。佳衣はすがりついて抱かれて甘えた。これほど楽しくさせてくれた男はいない。どうにでもしてほしいと考えた。

 佳衣は言った。
「じつは報告がもうひとつ」
「ほうほう?」
「昨日のことです、職場に辞表を出しました。今月いっぱい。それから私、手記を書いてみるつもりです。小説の中の私をほんとの私が見ているような。それと写真もちゃんとやりたい」
「そうか。ならデジタル一眼が二台ある。持ってけドロボー」
 この人は私に本気・・佳衣は涙を溜めていた。
「泣くな馬鹿」
「はい、すみません」
「えー、それと、これは命令だが」
「はい?」
「昼飯を早くせよ、腹減った」

「ご主人様、大好き・・大好きです」
 佳衣はさっと立って背を向けた。涙が頬を流れていた。

長篇小説に棲む女(三)

keikoku520
三話 男のレンズに晒されて


 佳衣の部屋から新島の家までは遠くなかった。今日は陽射しが柔らかく、めずらしく風がない。春先のようなぽかぽか陽気になっていく。
「書き出しの一行は俺が書こう」
 佳衣は新島の口許を見つめていた。眸を見てしまえば不思議な魔力がはたらいて抗えなくなると感じたからだ。
 新島はこう言った。
「牝の自分に凶暴なまでに向き合うこと。テーマはそこだ。この家で佳衣は女を捨てて牝になる。主の前で佳衣という牝は凶暴なまでに野生である。脱ぎなさい。そこに立って面倒な佳衣を剥ぎ取っていくんだよ」
 そして静かだが熱のある眸で見つめられる。
 ブラの奥底で心臓の拍動さえも聞こえるような気がした。言われるままにもがいてみよう。付き従ってみたいと佳衣は思った。
 強い視線で見つめられ、佳衣は反抗をあきらめて静かに立った。囲炉裏のある古い部屋は、暖かい今日、そこらじゅうが開け放たれて明るい光が射し込んでいる。誰かが通れば筒抜けだ。恥ずかしさと怖さが佳衣の膝を震わせた。

 黒革のミニスカートに手をかける。濃いグレーのパンスト越しにピンクのパンティ。透けるブラウスを脱ぎ去るとお揃いのピンクのブラ。佳衣はBサイズだが、ハーフカップに白い膨らみがあふれて見えた。
 緊張で息が震える。背に手をやってホックを外し、すでに乳首を尖らせた二つの肉房が弾み出た。荒くなる息が胸をうねらせ、あまりの羞恥に全身に鳥肌が騒ぎ出す。主は板床に座ったまま、佳衣の美しい変貌に眸を細めた。
 そして意を決しパンティに手をかけたとき、主は言った。
「下はいい。いま脱がせてはつまらない。淫らに濡らし、脱げと言われてパンティの底が糸を引くようにならなければ・・ふふふ」
 とっくにもう濡れていた。激しい濡れだと自覚できるほど愛液の流れを感じることができたから。こんなことははじめてだった。監視のもとで脱がされるゾクゾクとした震えが牝の陰部を狂わせているようだ。
 親指にピンクの輪ゴム。どれほど厳しい縛りより厳しい責めを予感させる。荒くなる息をこらえ、こらえきれずに喉の奥で『くぅっ』と声がくぐもった。

 開け放った玄関先に向かう襖の鴨居。両手の親指に輪ゴムを緩く遊ばせながら、落とさないよう意識して鴨居へ両手を上げいき、それは吊られる女の姿。
 主が背後に忍び寄り、両手で長い髪をそろりと撫でて、耳許へ、首筋へ、二の腕から滑らせて脇の下、背中、ウエスト・・心地いい圧迫を与えながら主の両手が素肌を這った。若くはない男手はがさついて、それがむしろ心地いい。
「ぅ・・ンっふ・・ぅン・・」
 佳衣の心に恐ろしいまでの快楽が訪れた。鴨居へと延びきった裸身がくねくね揺れる。パンティにくるまれた双臀がきゅっきゅと締まって、ぶるんと弛緩。
 脇の下から回る手が二つの乳房をそっとくるみ、やわやわと揉み上げて、しこって勃つ乳首を両方つままれて、乳房を揉みながら乳首をこねられる。それでそのとき首筋に口づけがそっと這う。
「はぅぅ・・あぁぁ感じます、ご主人様」
 波濤のような震えが腰の奥底から白い腹へ、すべやかな内腿へと伝播して、佳衣は甘い声を漏らすのだった。
「ほうら濡れる、いやらしく濡らしてしまう」
「はい・・ああ濡れちゃう・・嬉しいです、ご主人様・・」
「うんうん、双臀をこうして・・」
 マチの浅いピンクのパンティ。白い双丘をくるむ布越しに主の手が肉をつかんで揉み上げる。佳衣はくいくい双臀を振った。脱がされたい。いっそ指に犯されたい。伸び上がる裸身が爪先立ちに立っていき、そのとき双臀はきゅっと締められ、弛緩と同時にぶるぶる震える。

「さあ脱がせてみようか。糸を引くかな」
「あぁぁ嫌ぁぁ」
 耳許で囁かれ、耳たぶをちょっと噛まれ、ゾクッと震えたところへ浴びせられた言葉。パンティの左右に主の指が忍び込み、双丘を滑らすように布地が巻かれて下がっていく。そのとき主はパンティを抜き取るため、下げるにともなってしゃがんでいって、双臀の奥底までを下から見上げるようになるはずだ。
 考えただけで果ててしまいそう。
「ほうら濡れてる、ひどいものだ、ふふふ」
「嫌ぁぁ見ないで・・恥ずかしい・・」
 パンティの底部で愛液が糸を引くこと、下着から解放されていく性器がフッと冷えて感じさせた。
 それから主はふたたび立って背後から一糸まとわぬ白い女を撫で回す。
 はぁぁ、ううン、ううむ、あはぁぁ・・と佳衣は心を掻き回す性感の嵐を声に出して表現した。裸身がS字にくねくねそよぐ。
「ここはどうかな・・欲しいだろう」
 黒い飾り毛に覆われたデルタ。いずれ来ると覚悟はしていた。背から回る主の手が手入れされない草むらを撫で回し、股底へと滑ろうとするのだが、濡れる花に毛がまつわりついてヌチャヌチャに濡れている。佳衣は腿を締めて拒絶して、拒絶しきれず性毛の丘を突き上げて指を待った。
 鴨居を握る両の親指。輪ゴムだけは守ってみせる。主が与えた緊縛なのだと佳衣は思った。

「よく濡らす、いい女だ」
「私はいい女? ほんとにそう?」
「いい女だ。おまえの人格は女の美にあふれている。ほうら感じる」
「あぅぅ! あ、あ!」
 指先が粘液のまつわりつく奥底へと滑り込む。佳衣は腿を緩めて恥丘を突き上げ、おおぅ、おおぅと獣の声で愛撫に応えた。
「ダメです、逝きそう・・ああ逝きそう・・」
「まだだ、許さない。さあいいぞ、手を下ろせ」
「はい」
 輪ゴムを守り切った誇らしい手を下ろし、輪ゴムを奪われ、佳衣はむしゃぶりついて主にすがった。
「ご主人様、嬉しい・・嬉しくて私、泣きそうです」
「うんうん、一歩ずつ、少しずつ、淫虐の世界を覗いていこうね」
「はい、誓います私・・いいえ、お誓いします、ご主人様。きっと可愛がっていただける奴隷になりますから、どうか見捨てないでくださいませ」
 佳衣は愕然としていた。私のどこにこんな言葉が潜んでいたのか。言いたくて言えなかった淫乱のストックを吐き出したような気分だった。
「よろしい、いい子だからご褒美をあげよう」
 左腕で抱きくるまれて、右手で髪を撫でつけられて、頭を撫でられ、柔和な微笑みがすっと寄せられた唇が重なった。佳衣は夢中で舌を差し込んで貪るように深く吸う。
「それでいい、もっともっと凶暴に」
「はい!」
「可愛いね、佳衣は可愛い」
 それと同じ言葉を若い男に言われたって撥ね付けてやりたくなる。何様なんだよと言ってやりたい。三十歳の歳の差は圧倒的に女心を素直にさせた。出会えてよかった。このお方の奴隷になれてよかったと、佳衣は潤み出す眸を向けていた。

 くるりと振り向かされて白い双臀をぽんと叩かれ・・。
「外に出なさい。いい天気だ、家の周りを全裸で這い回る奴隷の姿を撮っておこう。放し飼いの佳衣だから」
 外に出るって・・息を詰めた。
 怖い。怖いけれど、これで私は解き放たれると感じてしまう。トイレにも行きたい。台所から裏口を抜けて外に出ると、すぐ際に井戸があり、数歩歩けば小さな便所の小屋がある。古い家はこうなのだ。汲み取りの便所は母屋とは離してつくるもの。佳衣は全裸で裸足のまま、長く踏まれて草の生えない土の上に降り立った。
 新島はカメラマン。プロ用のデジタル一眼を持っていて、なぜかフィルムカメラを持ち出さなかった。
「さあ這うんだ、凶暴な獣となって濡れる性器を見せつけろ」
「はい、ああ私ヘンです・・混乱しちゃって、おかしくなりそう」
 山道のどん詰まりであり、いまはもう農閑期。人通りがないことはわかっていても、外に出ればそこら中から見られている気がする。玄関先に停めてある赤いポロとモスグリーンのジムニーは、地べたに這えば姿を隠してくれるもの。
 佳衣は這った。双臀を突き上げた四つん這い。
「もっと双臀を上げるんだ、アナルまで空に向けろ」
「ああ、はい、ご主人様、恥ずかしい・・」
 栗色の長い髪を両頬越しにさらりと垂らし、首を跳ねて毛を跳ね上げ、そうしながら家と便所の間の土の上を這い回る。空は青く抜けていて太陽が汗ばむほどの熱をくれる。

 そんな佳衣を追い回し、デジタル一眼が鋭いシャッター音を響かせた。
「ふふふ、透き通った汁が垂れている。いやらしい女だな」
「あぁん嫌ぁぁ、見ないでください、あぁ感じるぅ・・」
 かすかにそよぐ暖かい風が素肌を愛撫し、突き上げた秘部のすべてを冷やしていく。牝の花は激しい濡れに閉じていられず、肉ビラをぱっくり咲かせて、ピンクの奥底までも見せていた。
 私は壊れた・・佳衣は思う。全裸で這っているだけなのに愛液の吐露がおさまらない。ゾクゾクする。もしもいまちょっとでも性器を嬲られれば吼えて私は逝ってしまう。佳衣は思う、私はマゾだわ。
 恥ずかしい姿をレンズが狙う。凶暴なガラスの眸が女のすべてを暴き出す。
 双臀を振り立て、胸を張って乳房を揺らし、性器を突き上げて恥辱に濡らし、佳衣は中庭とは言えない土を這い回り、そして、やおら・・井戸から汲み上げたバケツの水を浴びせられた。
 地べた一瞬にしてぬかるんで、主に双臀を足蹴にされて裸身が転がり、髪の毛も背中も双臀も体中が泥だらけ。
「淫獣らしくなったじゃないか。もがけ、のたうって吼えるんだ」

 井戸の縁に手を着かされて、脚を開いて双臀を上げる。主は大木の幹をぶったぎった丸い椅子に腰かける。そうすると晒された性器が主の顔に突きつけられる。
「ご褒美だよ、可愛い佳衣」
「はい・・あぅ! あぅぅ! そんな・・あぅぅーっ、ご主人様ぁーっ!」
 ここは外だ、声はいけない・・と思いながらも吼える佳衣。ヌラヌラに濡れそぼる奴隷の性器に主は舌先を寄せていき、蜜液をすくうようにラビアを舐める。白かった双臀は泥だらけ。拾ってきた牝犬のようなあさましい姿。
「ご主人様、ダメですダメ、逝きそう、ああ逝きそう・・おおぅーっ!」
 尖ったクリトリスをすぼめた唇で吸い立てられて、佳衣は膝を使って腰を弾ませ、ガタガタ震えて、がっくり膝を落として泥の中へと崩れていった。

 めくるめく陶酔・・はじめて知ったアクメ・・。

 言葉として知っていても、そこへと至れる女は少ない。きっとそうだ。これがそうだ。見守られて愛される至上の歓び。佳衣は泥に崩れて失禁した。潮を噴いた。体中の力が抜けて立てなくなった。
 手を突っ張り、どうにか体を起こしていって、佳衣は座る主の股間をめがけてむしゃぶりついた。ジッパーを降ろす。トランクスから主のペニスを引っ張り出して無我夢中でむしゃぶりついた。白髪の交じる陰毛が、あってはならない男女の性を物語っているようだった。
 穏やかな勃起が嬉しかった。喉の奥まで突き立てて、吐き上がる胃液を飲み下し、それでも奥まで突き込んだ。穏やかな勃起がびくびくと脈動し、熱い精液が放たれた。佳衣はとろけた眸をして主を見上げ、舌なめずりしながら飲み下した。

 トイレはつねに全裸。そのとき言い渡された課題であった。家の中で下着は許されない。それもわくわくする調教だったのだ。
 縛られたり、鞭に泣いたり、残酷な玩具に犯されて気絶するまで嬲られる。何をされてもついていけると確信できた。

 昼下がりの時刻なのに五右衛門風呂。はじめて入る時代錯誤。それがまた心地よかった。主の背中を流し、立たされて、逝きそうになるまで石けんにヌラめく手で撫で回される。覚悟を決めて訪ねて来て、たった数時間で佳衣は奴隷に堕ちていた。裸で立つ主の体は思うほど衰えてはいなかった。同じように手の中に石けんを泡立てて、素手で全身を洗ってあげる。萎えたペニスがいとおしく、頬をすり寄せて睾丸を揉みしだく。そして褒美に抱いていただく。
 私の愛はこうだったのかと思い知った佳衣だった。
 風呂から出ると、佳衣はバッグに詰めてポロのトランクに入れてあった青いスエットのパンツを履いてグレーのパーカーを許された。しかし中身は全裸。家の中は日影であって抜ける風が冷えてくる。台所に立って簡単な昼食を支度する。カマド。薪の火なんてはじめてだったが、カマドに火が入ると一気に暖かくなっていく。
「どうだ、うまくできそうか?」
「どうにか・・難しくてダメ」
 主は笑った。
「俺も最初は参ったよ。薪ってどうやって燃やすんだ。ネットであたってやってみた。キャンプの動画を見ていてね」
「そうですね、ほんとそうだわ、キャンプみたい」
「ところで明日は?」
「泊まっていいですか?」
「うむ、思うがまま、勝手気ままにやることだ。それが最大の調教だからな」
 佳衣は流しを向いて主に背を向け、微笑みながらうなずいた。

 冷蔵庫にあった野菜と肉を炒めた。それをご飯に載せて中華飯のような妙なものをこしらえた。佳衣は料理が得意なほうだ。
 昼食と言っても時間がずれて食べ終わると四時を過ぎてしまっている。
 佳衣は一度クルマで出かけ、部屋へと戻って着替えを整え、二組あった布団の一組をリアシートに積み込んだ。古民家には一組しか布団がなかった。飛騨に棲む友人のために用意してあったものだが、プライオリティでこっちが先。
 それから買い物を済ませて戻ってみると時刻は六時を過ぎていて、晩秋のいまはすでに闇につつまれている。山道のどん詰まりに街灯などはない。それに夜になって冷えて来ている。家に入ると囲炉裏に火が入れられて炭が赤く燃えていた。台所には石油ストーブ。カマドを使えばさらに熱がこもるだろう。古い家はよくできていると感心する。オートマチック換気ができる隙間だらけ。
 新島は冬物の作務衣姿で囲炉裏の前に座っていて、ジーンズに履き替えてやってきた佳衣は、主の膝に引き寄せられて膝枕。主の腿は暖かかった。

 赤い炭火を見ながら佳衣は言った。
「私ね、ご主人様」
「うむ?」
「いまの職場も辛いんです。この間、なんとなく少子化の話になったとき、まるで私に聞かせるように古株の女が言うの。近頃の女は結婚せずに遊んでばかりって、そんなふうに。ここもダメかと思ったわ。母にもやいやい言われるし、だけど母ならともかく他人にどうこう言われると・・」
「辞めたいのか?」
「どうしようと思ってて、気楽なパートでいいかなって気もあるし。アパートだってそう高くないんだし、少しなら蓄えだってあるんだし。部屋に独りになるとどうしたって考えちゃう」
 佳衣は主の股間に顔をうずめるようにして男の細い腰にすがりつく。聞いてほしいだけだった。いきなり身の上相談なんて・・そんな思いも少しはあった。

「ここで暮らせ」

 静かな声だ。佳衣は顔を上げた。
「いいんですか? そんな、いきなり?」
「甘えていたいんでね」
「え・・」
 甘えていたいのは私・・とは思ったが、素直な主の言葉に感動した佳衣だった。ふと見上げると、囲炉裏の赤い揺らぎが初老の男の面色を赤く揺らして映していた。過去を背負った男の姿は好ましい。
「佳衣が可愛い」
 佳衣は、すとんと膝に頭を落として主の膝を抱いていた。涙が出てくる。
「起きなさい、向こうへ行こう」
 部屋が三つある古民家の最後の一部屋。そこは古いフチなし畳が敷かれた六畳で、小さな座卓が置かれてあって、申し訳程度の床の間に24インチのモニタが置いてある。テレビではない。デジカメで撮ったものを映し出すチェックのためのモニタだ。それとパソコン。電話があってネットが使える。
 そんな部屋に布団が二組、間を空けずに敷いてある。部屋が狭くてぴったりつけないと敷けないからだ。
 セッティングを主がし、並んで布団に寝そべってモニタを見つめる。部屋の明かりは消してあり、大きなモニタに全裸で這い回る佳衣の姿が次々に切り替わる。どれもが静止画。スライドショーだ。
 佳衣はとても見ていられず、主の背にしがみついて肩越しに片目だけで淫らな自分を見つめていた。

「ほうら濡れてる」
「はい・・淫乱みたい・・」
 這って双臀を突き上げて、アナルまでが丸見えで、さらにズームで性器を映し出す。愛液が陰毛に回っていて、キラキラと糸を引いて垂れていた。開いてしまったラビアの周りにまつわりつく濡れた陰毛。獣の性器のようでもあった。
「すごく濡れてます・・あさましい私だわ」
 それは白い牝犬の姿。水をまかれてぬかるんだ地べたを転げ回り、あのとき確か、いまにも逝きそうな思いで這っていた。佳衣はますます主にすがる。羞恥が心を震わせて、いままた性器が潤み出す。
「これが私なんですね、ほんとの私の姿・・」
「激しい女だ」
「はい、そう思います。調教なんて怖くてダメって思ってたけど、きっと素敵なことなんだろうって思えるようになっている。ほんと言うと、それを知ったのは高校の頃だったんですよ、ネットで知って」
「ショックだったか?」
「ううん、そうでもなかった気がするの。ドキドキしちゃって怖いんですけど、こんなふうにされたらもうダメって思ってた。おんおん泣いて逝って逝っておかしくなっちゃう。普通の女に戻れないって思ってた。そのときは小説の中の私なんて発想はなかったから」
 スライドショーが二巡目に入り、モニタが消された。ここにはテレビが置いてなく、まるっきり音がない。道路の騒音も皆無だったし、それだけでも異世界にいるようだった。
「ご主人様、おトイレいいですか?」
「行っておいで」
「はい」
 佳衣は立って、着ていたすべてを剥ぎ取って、素っ裸で外へ出た。主の意思にそむきたくない。外は星空で漆黒の闇ではなかった。便所の小屋には10ワットの裸電球。汲み取りの便所なんてどれぐらいぶりだろう。暗い穴を見下ろすと怖くなる。

 部屋に戻った裸の佳衣を、主は布団をめくって迎え入れ、冷えてしまった裸身を抱いて背をさする。それがどれほど嬉しかったか。佳衣は主の胸に頬をうずめてすがりつく。
「ご主人様はあったかいなぁ」
「そうか?」
「はい、嬉しくて・・」
 涙があふれた。どうしてなのか、いきなり涙があふれて止まらない。抱き締められて震えて泣いた。抱きすがり、そうするうちに佳衣は眠ってしまう。

 夢を見た。癒やされきって笑顔で暮らす夢だった。おんぼろ古民家に住むマゾ女。体から鞭痕が消えることのない、そんな女。
 心が凪いだ。深く堕ちて眠れる幸せ。日々解放されていく自分を知って厳しい責めに泣いて暮らす。それこそ夢の世界であった。

 寝返りの気配で眸が開いた。ハッとした。時刻は午前零時を過ぎていた。主は眠り、その手だけがデルタの毛むらに置かれていた。
「やっちゃった・・晩ご飯どうすんのよ・・ダメだな、あたし・・」
 小声でつぶやき、佳衣はまた主にすがって眸を閉じた。
2020年10月12日

長篇小説に棲む女(二)

keikoku520
二話 長篇小説スタートページ


 佳衣の怪訝な面色を察したのか、新島は言った。
「まあ、それも半年前までの話で妻とは正式に別れました。僕とは十歳離れていて、いまだ美人ということで、ナンパされた、どうしようってついこの間笑って電話がありましてね。谷と川もそうした僕の心の所在が見つめさせているものなんです」
「心の所在をですか? どういう意味なんです?」
「この景色に溶けるように消えていきたい。死に場所を見つけた思いと言うのでしょうか、最高のロケーションだと思いましてね」
 佳衣はちょっと眉をひそめ、新島が笑って眉を上げた。
「いえいえ、飛び降りるとか、そういったことでない。うん。人の魂を拒絶しない風景がこの地にはあふれている。谷と川が生きる気力をくれるんですよ。都会はもういかん、つくづく飽きた」
 ほっとした。ほっとしたし共感できる何かがあった。
 佳衣は言った。
「新島さんとは初対面なのに、どういうわけか話せる気がするんです」
「ほう? と言うと?」
「私はこれまで三冊の短篇小説の中にいた。高校までの私で一冊、大学からの東京暮らしで一冊、それから郷里の愛知に戻ったのですけど」
「ああ、それで岡崎ナンバー?」
 赤いポロのナンバーだ。
「ごらんになっておいででした? そうです私は岡崎の出身で、高校の頃から男性にのめり込んでいけなかった。ですから、その時代で最初の一冊というわけで」

 新島はうんうんとうなずきながら微笑んだ。
「なるほどね、思春期の一冊ですか?」
「そうですね。そんなことで級友たちとは打ち解けきれず、進学で東京に出てからだって、それなりに彼もいましたし、就職してからはプロポーズもされたんですよ。でも、うまく言えませんがその気になれない。そのときは職場恋愛で拒絶したもので居づらくなって仕事もやめて、一度は岡崎に戻ったんですが、それまでの私で一冊」
「そこは大人になるまでの一冊だ」
「そう言えなくもないですね、学生のノリで暮らした東京ですから、どうしたってそうなってしまうわけですけど。そして次の一冊は名古屋のデパートに就職し、やがてそこでもプロポーズされたんです。適齢期を過ぎそうで母にはやいやい言われますし、この際決めようかとも思ったんですが、どうしても自分を説得できません。学生時代の友だちがこの先の飛騨にいて、彼女はもちろん結婚してますが子供ができないということで、それなら近くにおいでってことになり、適度な距離を置こうと思って富山に住んだ。そこまでの一冊なんです。ブツブツ切れた人生だなって考えてしまったの。それで短篇小説みたいだなって。ちっともおもしろみのない、ありきたりな女の物語なんですが」
「写真はいつから?」
「国道を走ってて、あるときふと、あの橋に立ってみた。なんて素敵な景色だろうと思ったとき、最初はスマホで撮ってみて、その話をいまの職場でしたところ、それならコンデジが二台あるから一台あげるってことになり、まあ中古で売ってもらったわけですけど、それにしたってコンデジ止まりで先へは行かない。うまく言えませんが、私ってきっと自信が持てないままに生きてきたんでしょうね。近頃じゃそう思えてならないの。コレと言えるものが見つけられない」

 新島は微笑んでうなずくだけ。声に耳を傾けながらも話そうとはしなかった。
 けれどもそれが佳衣の心を軽くする。聞いてくれる人がいる。それだけで良かった佳衣だった。
「嫌だわ私、お会いしたばかりなのに何をうだうだ言ってるんだか」
 苦笑する佳衣。新島はちょっと首を傾げて言うのだった。
「だったら四冊目は長篇小説にしていけばいいでしょう。それに気づきさえすれば遅いということはない。還暦の僕でさえ新しい何かを探してるんです、佳衣さんに見つけられないはずがない」
「そうでしょうか? でも、どうやって? 積極的に恋愛するとか?」
「違う違う、男にもたれたって同じこと。そうした女は腐るほどいるでしょう。狂おしいまでに女の自分を見つめていく。泣き叫んで見つめていく。やがて背中に羽ができ、羽ばたいて飛べるよう」
 佳衣は眉を上げて苦笑した。
「そうできればいいんですけど怖いんですよ、自分の本質を知ったら壊れてしまいそうで」
「そのときは僕がいる」
 佳衣は思いもよらない言葉に、ただ新島を見つめていた。
「壊れたら直せばいい、それだけのことじゃありませんか」
 佳衣は新島から視線を外せなくなっていた。何かが心に刺さる気がする。
 佳衣は言った。
「それは・・そう言っていただけるのは嬉しいけど、でもどうやって?」
 新島は微笑むだけで応えなかった。応えないまま言うのだった。
「ふたつほど言っておきますね」
「あ、はい?」
「ひとつは、考える時期はそろそろ過ぎたということ。そしてひとつは、その長篇は官能小説になっていく」

 帰り道、ぽつぽつと雨が来た。北陸の空は鉛色。遠からず雪が来るという前兆のような冷たい雨だ。佳衣は茫洋とした思いのままにハンドルを握り、おそらく来た道を戻って部屋と帰った。
 冗談めかして新島が言った、『その長篇は官能小説になっていく』という言葉が、振り切ろうとして振り切れず耳に残る。そんな小説を読んだこともなかった佳衣だ。それだけに新しい自分が見つけられるかも・・と思ってしまう。
 新島と出会えたことはチャンス? きっとそうだと思い至る。座れないスカートを選んでしまった自分の愚かさ・・いいえ、それは彼が言ったように私の叫びだったのかも知れない・・と考える。
 しかし相手は三十歳も歳が上。父親より二つ上という初老の男。そう思うと可笑しくなった。私はつくづく複雑な人間で、そのぐらいの歳の差がないと理解されない女なのか。部屋に戻ってスカートを脱ぎながら、佳衣はそっとパンスト越しにデルタを守るパンティの膨らみをそっと撫でてみたのだった。

 翌週末、さらにその翌週末と佳衣は戸惑い、あの橋を越えて走ろうとは思えなかった。わくわくさせる何かを感じる分だけ恐怖がともなう。
 官能小説とはつまり彼とのセックス? それほど浅いものでない気はするが、それにしたって男と女。そこに至らぬはずがない。行きずりならいいかも知れない。だけどもし本気の愛へと変化したら・・怖くなるばかりの佳衣だった。

 十月に入り三十歳までカウントダウン。時間は佳衣を迷わせる。そして深みへ堕としていった。三十にもなって何を子供みたいなことを思うのか。動いてみよう。嫌ならとっとと退けばいい。
 開き直っていく自分を感じ、だけどやっぱり怖くなって、三週目の金曜日、普段は飲まないビールを傾け、その勢いで寝てしまった。
 土曜の朝だ。すっきり晴れて風もなく、陽射しが暖かく感じられる。時刻は九時になろうとした。少しのビールでよく寝られたらしく意識がくっきり冴えていた。冴えた意識でもう一度新島を見てみたい。表現できない疼きのようなものが佳衣を操り、ハンドルを握らせた。今日は意識してミニスカート。ブラの透けるブラウスにジャケット。デートのつもりで臨んでみたいと考えた。
 かつてそうやって男に向かい、こいつはNOときっぱり答えが出たからだ。

 ふたたび山道のどんづまり。背景にも緑があふれ、少し紅葉もはじまって、人生の秋にいるはずの新島と釣り合った。
 古民家ではなく、築六十年あまりが過ぎた古い家。最低限のところに手を入れて、そのほか、そのまま。それもまた彼の素朴さを物語るようだった。
 前回来たとき、家の前にちょっと古い原付スクーターだけだったのだが、真新しい・・と言っても旧モデルの中古車らしいが四駆の軽四輪が停められていた。ジープタイプの軽。モスグリーンのジムニー、その富山ナンバーだ。ここらは北陸の山間部。冬にはこれがないと身動きできない。
 なにげに運転席側へ回って中を覗き込んでいると、今日は作務衣でなくジーンズにワークシャツという姿の新島が、大きなバケツを持って家の裏から回って出て来た。雰囲気が若々しい。
「おぅ来てたか。水くんでて聞こえなかったよ」
「お水は井戸なの?」
「キコキコだね。さすがに電気は来ててもそれだけさ。時代錯誤もはなはだしいよ、はっはっは」
 明るく笑う新島。この間より少し日焼けしていたようだ。白髪の長い髪を後ろで縛って、見るからに芸術家ふう。写真よりも陶芸と油彩とか、そっちのほうがイメージの合う男であった。
「クルマ買ったんですね?」
「ずいぶん探したよ、人気車だからこの色がなかなかなくてね。コイツは静岡にあったクルマ」
「静岡? そんな遠くから?」
「中古車チェーンでめっけたわけで、こっちで探すより安心できる」・・と言いながらフロントグリルを洗いはじめた新島。
「あらどうして? こっちのはダメ?」
「融雪剤は塩だからね」
「あ、そうか、錆びてる?」
「そういうのが多いってこと。コイツは静岡で登録されたワンオーナーで改造もしてないし乗り方が想像できる」
 キラキラする陽射しを浴びてボンネットがキラめいている。クルマに取りつき嬉々として洗う姿を見ていると歳の差を感じない。若い男のそんなシーンを幾度も見ていた。男はクルマが好物らしい。

 佳衣は今日、ここへの道すがら、運転しながら近づくにつれて緊張がひどくなった。もしかしたら官能小説の今日がその最初のページ。考えただけで息が苦しい。しかしいま若者と何ら違わない男を見ていて可笑しくなってたまらなかった。父親よりも歳上で三十歳離れた男とのそれは、ひどく淫靡なものに思えていたから。
 ボンネットを拭き上げながら新島は顔を上げた。
「どうやら心が決まったようだ。君の長篇小説は官能的で美しいものになるだろう。・・えー、しかし」
「はい?」
「書き出しはちょいと待て、もっか洗車中ゆえ忙しい」
「ふふふ、はい、待ってますから」
 可笑しい。ドキリとさせて次には落とす落差のある会話が佳衣の心を楽にしていた。

 新島を外に残したまま古い家に先に入った佳衣。見回すとそれなりに片付けられたいたようだが、現代の家のようにクローゼットがなく家具も足りない。初老の男やもめ。細かいことを意識せず、とりあえず住んでる感じが心地よかった。知らず知らず笑顔になる。
「お掃除してあげましょうか?」
 開け放した玄関越しに、外から声がやってきた。
「そんなに汚いか?」
「ううん、散らかってるけど、さほど」
「佳衣が来たらやらせようと思ってほっといたんだ」
「まっ!」
「嘘だ嘘だ、あははは。ここに来たら自由奔放、小説に棲む女になれるんだからな」

 その言葉はことさら嬉しい。佳衣と呼び捨てにされたこと。小説の中の女であって現実の私じゃないと思っていられる。話術が巧み。それもまた新しい楽しさだった。
 そう言えば囲炉裏。渡してあった板が外され、今日は暖かくて火は入れてなかったが炭を燃やした跡がある。赤く燃える炭のそばにいられるなんて、それこそ物語の世界だわ・・と佳衣は思って微笑んだ。

 台所はキッチンとはとても呼べない。冷蔵庫、それにクッキングヒーターは置いてあったが上に物が載せられて使った形跡が見られない。昔ながらの石板の流し台。裏口の板戸を出たところに見える井戸。熱の残るカマドには薪がくすぶり、鉄の鍋がはめ込まれて置かれてあった。眸に映るものが新鮮だ。しかし現代のキッチンしか知らない佳衣にはどうしていいかわからない。
 洗車を終えたらしくって、裏口の外に空のバケツを持って新島が。井戸でキコキコ水をくんで顔を洗い、そこらに引っかけてあったタオルで拭きながら入って来る。
 台所に横目を流して佳衣は言った。
「なんかすごくて笑っちゃう」
「だろうね、見る物どれもが新鮮だろ。俺もだよ。最初に見たとき、これはキャンプだと思ったほどさ」
「キャンプね、そうかも。あははは」
 笑いながら新島の眸がまっすぐ見つめる。
「よく来たね、よくぞ覚悟を決めたものだ」
「覚悟って・・でもそうね、それもそうかも知れません、官能小説なんですもの」

「そこに棲む佳衣は、ひどく淫らで奔放で、でもそれは主に導かれる女の冥利。
主には従順で一途に尽くす女」
 佳衣はいきなり真顔になった。見つめられて眸を反らせず、不思議な世界へ引き込まれていくようで・・。
「主・・ですか。なんだかそういう世界みたい。それも考えてみたんです、ご主人様と私が呼んで、『おい』と呼ばれて嬉しいような・・ちょっと信じられない世界ですけど」
 新島は微笑んだ。
「佳衣は女の怪物なのさ。だから制御できずに逃げていた」
 微笑みながらそっと寄られ、両肩に手を置かれ、そのまま引き寄せられて抱かれていった。抱擁を解いて眸と眸が合って見つめ合う。
「よく来た」
「はい、私もう今度こそ・・」
「うんうん、もういい言うな」
 そして佳衣は、ふたたび両肩に置かれた男手でくるりと後ろを向かされて、黒い革の張り詰めた若い双臀をぽんと叩かれる。そのまま歩けばそこに板戸。引き戸を開けるとその部屋は暗黒で、引き伸ばし機が置いてある。水回りの台所に続く暗室だ。壁のスイッチで明かりがつくと、黒いテーブルが置いてあり、現像で使うバットが数枚。薬液のポリタンク・・佳衣には暗室さえもはじめて見るもの。
「ここで写真を焼くんですね」
「そうだよ。ボロ家だから隙間から光が入る。したがって夜の作業さ」
 酢酸の匂いが不思議に心地よかった。

「小説の佳衣は奔放だ」
「そうですね、はい」
「だったら俺もとソノ気になろう」
「写真ですか? ヌードとか?」
「いいや違う。記録するのはフィルムじゃない。俺の中のアルバムだ。ヌードの佳衣を撮り溜めていくつもり。それも従順なM女としての姿をね」
 佳衣は、そのときになって心がいまにも壊れそうな思いがした。
「M女になるの私?」
「マインドの部分でね。佳衣はこれまで自分というものが強すぎた。周囲が何をどう仕掛けても自我が揺るがない。鉄壁の防御だった。崩れたら最後、奈落の底に転がり堕ちる。だからことさら自分を守った」
「壊れたら直してくださる? きっとですよ?」
「壊れやしない、物語に棲む女じゃないか。さあ向こうへ、囲炉裏のそばへ」
 濃い栗毛のロングヘアーをそっと撫でられ、佳衣は背を押されて歩み出す。
 暗室から台所の土間へと降りると、ちょうど向かいに別の板戸が閉められていた。
「あ、そうそう、そこが風呂・・ほらごらん」
 引き戸の板戸を滑らせると、そこには大きな鉄の釜。
「五右衛門風呂ですよねコレ?」
「そうなんだ、何から何までカルチャーショックで俺も最初は途方にくれた。沸かし方わかる?」
「さあ、はじめて見るし」
「だよな、俺もそうだった。半分ほど水を張って鍋肌に細かな泡が立つまで薪で沸かす」
「あ、はい?」
「それから水を足して湯加減し、そこの板を踏んで沈めて入るんだ。板がないと猿になる」
「お尻が真っ赤?」
「そういうこった、ふっふっふ、まさにメス猿・・はっはっは」
 新島の話術に佳衣は堕ちた。極度の緊張と弛緩。心を揺さぶられる思いがする。

「私はちょっと気づいてました、私の中のM性に」
 火のない囲炉裏の板床は冷えていた。薄い座布団に正座をし、佳衣は囲炉裏を挟んで向こうに座る新島と向き合った。黒革のミニスカートは正座でますます短くなって、両手を置いていないと素通しになってしまう。
 佳衣は言った。
「行為よりも、そうした心のありようと言うのでしょうか、付き従って安心できると言えばいいのか、もたれかかっていられると言うのか」
「うむ、まあ君を見てればわかることだが。俺もそうだ、S性に気づいていてもSではなかった。これまでの人生ではそうだった。それはね佳衣」
「はい?」
「作品としたい素材に出会えなかったからでもあってね」
「作品ですか? 私は素材?」
「カタチではない。ありったけの俺を注ぎ込んで育てていく作品。やがて俺の手を離れ、どうだと誇れる幸せな女になっていく」
「手を離れて?」
「歳の差はどうにもならない。しかしだから焔は熱い。では佳衣、こうしよう」
「はい?」
「こっちへ来て座るんだ」
「・・はい」

 囲炉裏を挟まず新島のすぐ前で板の間に直に正座をする。板は冷たく、固くて痛く、上がるスカートはパンスト越しのピンクの下着を隠せない。佳衣は隠そうとはしなかった。正座をして背筋を伸ばし、あぐら座りで少し低い新島の眸を見ている。不思議に心は穏やかだった。
「脚が痛いか?」
「そうですね少し」
「土下座だ、平伏してごらん」
「はい」
 両手をついて額がつくまで身をたたむ。
「脚はどうだ?」
「少し楽になりました」
「うむ、つまりそういうことさ、もっと楽に生きること。重い物は散らせばいい」
「はい、ありがとうございます・・ご主人様」
 新島は笑った。
「ご主人様ね・・ハクション大魔王じゃあるまいし、くすぐったいが、まあ他に言いようもないだろう。佳衣とはいい名だ」
 平伏したまま少し顔を上げて佳衣は言った。
「そうでしょうか?」
「逆に書けばイケになる」
「は?」
「さあイケ、もっとイケ。エロ小説によくあるシーンだ、はっはっは」
「ふふふ、もう・・何ですかそれ・・」
「よし、面を上げぃ、腰元よ」
 佳衣は顔を上げて穏やかに笑った。とうてい勝てない。歳の差ではなく人柄に・・。

 しかし新島は言った。
「小説の中の古民家は古すぎて、トイレは一度外に出る。しかし佳衣に着衣は許されず素っ裸のまま、白日の下に晒されなければならなかった。ああ恥ずかしい。それだけで佳衣の陰部は蜜をにじませ、マゾ女の臭気をまき散らす・・なんて書き出しはどうかと思って・・ふふふ」
 新島の双眸が本気の色へと変わっていった。
「たとえばだが」
 そう言って新島は一度立って部屋を出て、赤い輪ゴムを指先につまんで現れた。
「両手を前に」
「はい、ご主人様」
 拝むように手を合わせ、親指同士に輪ゴムをかける。二重に締めたわけでもなくて輪ゴムは指に通され遊んでいた。
「ほら縛られた。落とさないよう従う心が、たかがゴムを縄に変える」
 佳衣は微笑んで深くうなずく。
「俺の最後の女が人生最高の作品になるようだ」
 微笑む新島を見つめている映像がゆらゆらと涙で揺らいだ佳衣だった。

長篇小説に棲む女(一)

keikoku520
一話 インスタグラムの風景


 深い谷をまたぐ橋にさしかかり、佳衣は「いた!」と嬉しくなった。今朝はよく晴れていて秋風が心地いい。あのアングルはそこでしか撮れないもの。その人に違いないと思ったからだ。

 佳衣もまた、ふと見た渓谷の美しさに心を奪われ、けれども写真をはじめるなんて大袈裟なことではなくて、最初はスマホ、そのうちコンデジを持って撮り歩くようになっていた。そうするうちに写真熱に冒されてインスタグラムを見るようになっていく。
 『渓谷』と検索すると日本中の景色が楽しめた。それであるとき、自分とまったく同じアングルで、比べものにならないほど出来のいい写真を見つけたのだ。いまどきモノクロ。それもまた新鮮で、色のない世界に濃縮された自然の色に心がときめく。
 そう言えば、朝クルマで通勤するとき、あの橋に決まって同じ人がいる。彼だわと直感した。胡麻塩頭よりも白髪の多い長い髪を後ろでまとめた初老の人。歳の頃なら六十ほどかと考えた。
 インスタグラムに名があった、『TAKUMI』・・とはその人だろうと胸が躍った。
 その橋はさしたる名所でもなくレンズを向ける人を見たことがない。美しい景色を評判ではなく感性で発掘し、足繁く通って撮り続ける。それこそが審美眼だと感じた佳衣だった。

 早月佳衣(さつき・けい)は、この十月で三十歳になろうとしていた。九月のなかば。二十九歳最後の一か月であった。
 佳衣は愛知の出身で大学は東京。卒業からの数年間を東京の中堅広告代理店で総務として勤め、最初のプロポーズにうまく言えない違和感を覚えて会社を辞め、一度は愛知に戻ってデパートに勤めたのだが、この春、二度目のプロポーズに背を向けて、大学時代の友人が住む北陸に眸を向けた。
 佳衣は結婚願望を持てずにいた。思春期のあの頃、同学年の女子たちが男に色めき立っていても、さしてどうとは思えない。異性というものがひどく乾いた存在に思えてならなかった。

 大学時代、文学部だった友人は二人いて、一人は飛騨、一人は新潟。どちらも郷里へ戻って結婚していた。しかし新潟の友人には小さな子供が二人もいててんてこまい。そこへいくと飛騨の友人にはどういうわけか子供ができず、少しは昔を思い出して楽しめるのではと考えた。親しき仲にも距離は必要。そこで佳衣は、富山の飛騨寄りに住もうと考えたのだ。国道41号線で富山駅からおよそ四十分。背後に山岳地帯の迫るその場所は、神通峡(じんづうきょう)という渓谷に沿って国道が走っている。
 引っ越してからの仕事は富山駅へ至る少し手前の建設会社。その経理がいまの職場。仕事にこだわりを持たない。それも東京を出るとき決めたこと。ストレスの少ない職場にのんびりいたい。東京での殺気立った日々は忘れたい。富山に来てからようやく少し自分を見つめる時間ができたと思っていた。

 そしてその月曜日。抜けるような青空。
 先々週の日曜日が休日出勤で代休ができていた。秋口の神通峡には人が少ない。少しして紅葉がはじまると週末は国道が渋滞すると聞いていた。41号線は先に行けば岐阜から名古屋。岐阜の白川郷から富山の五箇山にかけて足を伸ばし、そのついでに神通峡ということで、そちら方面のナンバーも増えると言う。けれどいまなら紅葉にはまだ早い。佳衣は早朝に起き抜けてクルマに乗った。赤いワーゲンポロ。愛知に戻った五年前に買った旧モデル。つい先月に二度目の車検を終えたばかりで調子は良かった。
 アパートを出て毎朝のルートを走る。五分ほどでその橋は見えてくる。

 いた。あの人よ。

 橋の上で黒いカメラを構える、その男。三脚なんて使わずに手持ちで狙っているようだ。佳衣は橋を一度通り過ぎ、対岸のスペースにクルマを停めるとコンデジを手にして歩き出す。今朝は上天気だったのだが、そこは北陸の山岳地帯。ブルージーンに薄手のセーター。バッグをクルマに置いといてコンデジだけを手に持った。
 その人に歩み寄る。相手がチラとこちらを見た。佳衣は浅く会釈して、相手もちょっとそれに応じた。
 佳衣は言った。
「この場所、お気に入りなんですね? ときどきお姿を」
「あ、そうでした? これはどうも。ここに惚れて度々来ますよ」
 ここに惚れて・・なんて素敵な響きだろうと佳衣は嬉しくなっていく。
「私もそうです、ここは好きな場所なんですが、私はこんなのしか持ってなく」
 と言ってオリンパスの古いコンデジを手に。
 男は笑って言うのだった。
「カメラなんていいんです、道具に過ぎない」
 男が手にするカメラに興味ありげな眸を向けるそぶりを察して相手が言った。
「俺はコレだ。親父の形見でしてね、ライカって言う、いまどきフィルムなんですよ」

 私でも僕でもなく俺はと言える・・初対面の女に冗談めかして言うセンス。言葉に富山のニュアンスが感じられず東京の人だろうと直感した佳衣だった。
 佳衣は言った。
「あのう失礼ですが」
「はいはい?」
「インスタグラムで・・あのう、TAKUMIって、もしや?」
「ああ、そうそう僕ですよ、モノクロばかりをアップしてます。焼きまで全部やってるからね」
「焼き?」
「あ、そっか、若い人は知らないか・・ふふふ、紙焼きと言ってね、現像したフィルムから印画紙に焼き付けていく作業のこと。暗室に入ってする」
 佳衣はちょっと舌を出した。レベルが違うはずである。
「男の人って本格的なんですね、カメラも何だか凄いみたいだし」
 笑い半分に言ったつもり。しかしそのとき男はきっぱりと言い放つ。
「男だから本格的なわけじゃなく僕だからですよ。男の群れに紛れていたくないんでね。僕は新島琢己(あらしま・たくみ)と言いますが広告写真で喰ってきた男です」

 ドキリとした。歳の頃なら六十あたりかと思われるのに尖ったところをなくしていない。群れの中にはいたくない。まさにそうだと佳衣は思った。
 まさにそうだとは思ったのだが・・このとき佳衣は、住む世界の違う人と捉えていた。男の厳しさは、その純度が高いほど怖いもの。芸術家のそれに似ていると佳衣は常々思っていた。佳衣自身が広告の世界にいて頑固一徹な映像作家を見て来たからだ。
 それからは、新島はじっと動かず一点だけを狙っているよう。佳衣は何となく距離を置きたくなって、あっちを向いて、こっちを向いて、橋の反対側に行ってみてと、そうやってシャッターを切っていた。
 けれどやはり気になってチラチラ横目で見ていた佳衣だが、あるとき眸が合ってしまった。
「どうだい? いいの撮れた?」
「どうでしょう? 私はただ写してるだけ。センスないと思ってるし」
 新島は笑って言った。
「ちょい貸して、そのカメラ」
「あ、はい、どうぞ」
 ピンク色した小さなカメラを手渡しすると、新島はふたたび黙って、カメラを構えず、ある一点を注視する。しばらくしてカメラを覗いて、すかさずシャッター、それもたった一度きり。
「うん、これでいい。持って帰って自分が撮ったカットと比べてごらん。よく見れば違いがわかるはずだから。じゃあ僕はこれで。週末は人が多いからいませんので。そのうちまた」
 穏やかに微笑んで去って行く。赤いポロを停めた少し先に、明らかに使い込んだ原付スクーター。富山ナンバー。

 部屋に戻った佳衣。さっそくパソコンに取り込んでモニタに映す。何枚も撮ったうちの最後の一枚、それが新島の撮影だった。
 すごい・・とは思えなかった。立ち位置が違うからアングルが変化する。それだけのものではなかったか。カラーだから確かに綺麗だとは思ったものの、プロとの差のようなものは感じない。
 佳衣はちょっと自信を失う。見抜く目がない。次にもし会えたとしても、その差を伝えることはできないだろう。相手は初老で、しかもプロ。経験で勝てないことはわかっていても、うわべしか見られない浅さのようなものを感じてならない佳衣だった。あの場所にはもう行けないと考えた。

 翌日また翌日とモニタに映して凝視する。何となくだが何かが違うと思えて来たとき、会ってきっぱり確かめたいと思えるようになっていた。負けん気ではなく学べるものがある気がする。
 人生の転換点。だから引っ越した私じゃないの・・と自分に言い聞かせ、少しの勇気を奮い立たせた佳衣だった。
 しかし仕事のスケジュールが平坦で週末のほかは休めない。朝の通勤で姿は見ても時間がない。苛立った。そして数日過ぎた頃、佳衣はいつもより早く家を出た。今日もまたすっきり青空。きっといると思えたからだ。

 時刻は七時前だった。会社は九時からで十分前には着いておく。一時間ほど時間はあった。新島がそこにいた。空は良くても早朝は冷える。厚手のジャケットを着込んでいて、佳衣は出勤姿で丈の半端なスカートだった。
「おはようございます」
「おぅ、おはよ。仕事の前に会いに来るとは相当悩んだようだね。はっはっは」
 佳衣はちょっと拗ねたそぶり。
「お見通しなんですね。ええ悩みましたよ、わからなくて」
「そうですか。答えを言うとこうですよ。写真は数打ちゃ当たるものなんだけど、やみくもに撮りまくっても意味がない。後になって選ぶ眼がないからです。選ぶ眼ができてくると写真の中に撮ったそのときの自分の意識が写るもの。いまなぜここにいるのか、この場に追い詰めたものは何だったのか、孤独をごまかすために撮っているのか・・などなど、そうした心の動きです。僕の主題は常にそこだ。それと、君のカットはカメラ越しに見た景色を撮っている。僕のそれは肉眼で見つめ、いまだ、これだ、と感じた瞬間シャッターを切っている。ま、そっちはテクニックの問題だけどね」
「・・はい、でもやっぱりわかりません」
「だろうね、でも、それでいいのさ。僕からの問いかけに君はこう思ったはずだ。
エラそうに何よ、あのオッサンどんだけ暇なの、いったいどういう人かしら・・そうやっていろいろ考え、僕がここを撮る意味を想像した。その逆なんです」
「逆って?」
「君のカットを僕が見たとき、作者の背景までが感じられるか。おそらく何も感じられない。景色に惚れ込んで撮っていない。女の人だからあえて言うが、夜な夜な景色に抱かれるつもりで撮っていない。君が不在のこの景色は誰が撮っても似たようなものにしかならないもので」
 佳衣は返す言葉が見当たらない。見透かされてしまってる。愕然とする新島の言葉であった。
「男と女はそこが違う。男は惚れる性だから、惚れ込んで景色を愛し、それはまるで恋人の裸を見るように一心不乱に見つめてる。へへへ・・とまあエラそうなことをほざきましたが、僕の家はすぐそこだ。その左の一本道を行くと道が狭まり、やがて古民家の前に出る。そこが僕ん家。破格で手に入ったボロ家です。写真を見たいなら一度おいで。週末、家にいますから。写真とは自分自身を撮るものなんです、被写体などはどうでもいい」
 佳衣はまたしても落ち込んだ。前回は谷への崖っぷち、しかし今回、突き落とされた気分であった。

 もういい、会わない。新島の深さが怖くなる。
 一週が過ぎ二週が流れ、九月も末。そうは思っていても、いてもたってもいられない。彼の写真を見てみたい。一枚のカットにどれほど彼が写っているのか感じてみたい。苛立ちまぎれ腹立ちまぎれ、そして不思議な彼の引力。その週の土曜日だった。あいにくの曇天で、北陸の暗い冬が迫って来ていた。
 いつもの橋を渡って左に折れる。道筋はどんどん狭まって砂利道。小さなポロがいっぱいいっぱい。古民家らしい家はすぐに見つかる。一本道のどん詰まり。かなりな山の中だった。

 そして今日、佳衣はなぜか黒革のミニスカートを穿いていた。ピンクのブラウスに薄手のセーター、それにジャケットを合わせている。認めてほしい。拒絶してほしくない。そうした女心が選ばせたスタイルだったが、このときの佳衣は、そんなことには気づいていない。
 家に着くと早々と石油ストーブ。家は古くて隙間だらけ。陽射しがないとかなり冷えるようだった。森の中の小さな古民家。板の間の大きな広間に、いまどき囲炉裏。いまはまだ板を渡して塞いであってテーブル代わりとされている。柱も板床も真っ黒に錆びた歴史ある家。佳衣はほっとできる雰囲気を感じていた。
 囲炉裏の前に通された。家が古くてほかの部屋は整理されない。きっとそうだと佳衣は思い、そのとき同時に薄っぺらな座布団を見下ろしてハッとした。この部屋には椅子がない。下に座ればスカートがマイクロミニになってしまう。

「写真はそこ。どうぞご自由に」
 と言いながら部屋を出た新島が珈琲を二つ淹れて持ち込んだ。新島は裏地のある紺色の作務衣を着ていた。
 写真はすべてB4サイズのスケッチブックに挟み込み、無造作に五十冊ほどが立てかけて置いてある。佳衣は一冊を手に取った。挟み込まれた写真はどれもがまったく同じアングルで、同じネガから焼いたものだと感じたのだが、よくよく見比べると影の出方、雲の位置、そのとき風で揺れた枝葉のカンジが微妙に違う。しかしどれもが同じアングル。
「どれも同じ場所のようですね?」
「そうだよ。あの場所でここだと感じる一点をね。そうすることで、そのときどきの表情の違いが見えてくる」
「飾らないんですね? せっかくこうして撮ったのに?」
「飾らないさ。ひけらかすものじゃない。写真というもの、撮った瞬間に満たされきって過去へと去っていくものだから」
「満たされるんですか? 撮るだけでいいの?」
「いいや、だからそうして紙焼きにしているわけで。そのアングル、何か気づかないかな?」
 佳衣は何枚かを引き出して並べ、見比べた。手持ちで撮っていながらアングルは寸分違わず、空や緑よりも、やや谷底の川の流れに主題があるよう。
「川ですよね主題は? 谷と川」
「そういうこと。まあ珈琲を。冷めてしまう」
「あ、はい、いただきます」
 カップの載ったソーサを取るとき、どうしたって両手となって、スカートのデルタを押さえる手がおろそかになってしまう。チラと探ると、新島はあえて写真に眸をやってスカートを見ようとしていない。佳衣はそれで信じるに足りる人と理解した。

「嬉しいですよ新島さん。私って馬鹿だから、ついこんなスカート穿いちゃって」
 ちょっと笑った佳衣だったが、新島は言った。
「それが君の・・ああ、そう言えば名前をまだ」
「ええ、そうでしたね。私は佳衣です。早月佳衣。はやつきと読む人が多くって」
「うむ、佳衣さんか。言葉が途中になってしまった。それが佳衣さんの叫びですよ」
「叫び? 私の?」
「惚れる性は女だって一緒です、私は女よ、惚れる性の持ち主です・・とそれが言いたかったことがひとつ」
 佳衣は怖い。
「・・ほかにもありそう?」
「もうひとつは、小馬鹿にされているようで口惜しかった。年寄りのくせに何よ、私は魅力ある女なんです・・と、それが言いたかった。ふふふ、しかしこちとら、そんなことは百も承知。見込みがあると感じたからお呼びしたわけでして。はっはっは」
 佳衣はちょっと可笑しくなった。それって心理学? そこまで考えたわけじゃないとは思ったものの・・言われて振り返れば大学時代の私は彼とのデートで意識した。あのときもあのときも、何度もそうやって意識してスカートを選んでいた・・と思い起こす。
 佳衣は言った。
「そうかも知れません。何か口惜しかったし、ダメな自分に腹も立って、見せつけてやろうと思ったのかも。ヘンですね私って」
 新島はまた笑った。
「素直でよろしいが、それもちょっと違うかな」
「あら、どう違う?」
「佳衣さんは、そうやって落ち込んでヘンに尖る自分が嫌になった。やさしい女の姿を見てほしい。私だって綺麗な体を隠しているのよ・・と、無意識にそう思った」
 穏やかな新島の笑みだった。

「・・なんか勝てないなぁ・・ふふふ、そう言われて嬉しい気もするし。歳の違いが素直にさせてくれてるみたい。私はじきに三十になるんです」
「僕はちょうど還暦だ。十年ほど前、一人娘を交通事故で失って、いまはその賠償金で生きてるようなものでして。世田谷に住んでいた。妻はいまもそこにいる。半年ほど前になりますが、その妻を家に残して僕は消えてなくなった」
「消えてなくなった?」
「失踪です」
 佳衣は声を失い、見つめていた。